19

史香~っ、見える? 聞こえる?」
 小型カメラを覗き込んでいるのだろう、モニターに海砂の顔がドアップで映し出される。しかもアオリで。
「感度良好ですよ、弥さん。ですがカメラはもう少し離した方が、アイドル的にはよろしいかと」
「何その言い草っ!」
「受信機の調子もいいようで、何よりです。現在の状況は?」
「……今、女子医大前。もうすぐ火口が迎えに来るよ」
 スピーカーからは、海砂のふてくされた声が聞こえる。そしてそれに被さって、まるで爆音のような自動車のエンジン音が響いた。
「あっ、来たっぽい!」
「では、手筈どおりに」
「オッケー」
 ごそごそと音がして、モニターは真っ暗になった。下手に火口の目についてはまずいので、使用する時が来るまで小型カメラの映像は気にしないようにと言ってある。
 史香は、海砂のことはあまり心配していなかった。薄情な理由からではなく、海砂の演技は失敗しないだろうと踏んでいるからだ。レムから真相を打ち明けられておらずとも、海砂に同じ程度のデスノートに関する知識を与えておけば、こちらの指示なしでも漫画と同じ行動を取ってくれるのではないか――それが、史香の考えだった。
 ここに至る経緯に多少の違いはあれど、あの海砂も今の海砂も同一人物なのだ。史香とて漫画の台詞を一字一句正確に覚えているわけではなく、もとより彼女に漫画の中と寸分違わぬ行動をさせることなどできやしない。
 ただ、あえて一番の心配事として挙げるなら、アイバーである。
 演技をより自然なものにするために海砂にああ伝えはしたが、もし火口の手元にアイバーの写真があれば、火口はそれを海砂に見せてくるに違いなく――そうなった時、作戦を成功させるためにはアイバーの本名を教えるほかない。
 アイバーには最悪、死んでもらうことになるかもしれなかった。まあ、史香の目的は竜崎の死を防ぐことだ。もともとアイバーは数年後にはキラに殺される運命にあるのだから、その時は諦めてもらおう。
「じゃあ、ミサちゃん。俺がキラだから、俺と結婚してくれよ」
「えっ、本当!」
 史香の思案をよそに、計画はとんとんと進んでいた。
 ほぼ漫画のとおりに海砂は自らが第二のキラだと明かし、火口にキラの証拠を見せるようねだっている。
「あっ、なーんだ。冗談かあ。本気にしちゃって、ミサ馬鹿みたい」
「ははっ……本当にキラだったとしても、人を殺して証明してみせたらヤバイじゃないか」
「そうかな? でも、ミサは目を持ってるし……」
「目だって?」
「そうだよ。キラならテレビ見て、ミサの目のこと知ってるよね?」
 ついに、来た。
 史香はヘッドセットのスピーカー部を手で押さえ、二人の会話を少しも聞き逃すまいと耳を澄ませた。
「火口さん、今、誰かの写真持ってない? その人の名前当ててあげるよ。それって、ミサが第二のキラっていう証拠になるでしょ?」
「そうだな……」
 海砂の口振りがあまりに自信に満ちているので、やってみてもいいか、という気になったのだろう。海砂のマイクが拾う周囲の音から、車がどこかに停止したことがわかる。しばらく何かの物音が続き、それが止むと、火口が言った。
「じゃ、こいつの名前を当ててみてくれよ。どうだ?」
「あはっ」
 海砂が軽やかな笑い声を零す。
「この人、お金欲しーだって。おかしい。んっと、金欲銀造さん?」
 よし、どうにか思惑どおり、火口は漫画で海砂に見せていたデータをこの場でも見せているようだ。
 しかし、史香はあの喫茶店では名前を言い当てるよう指示しただけで、こんなふうに演技するようにとは一言も言っていない……海砂のアドリブだ。やはり彼女には結構な才能があるのかもしれない。
「……次、こいつは?」
 火口の声が、これまでよりも若干低くなったように感じる。人を殺してみせずとも、うまく騙されてくれればいいが……
「んー、写真、もうちょっとよく見せて」
 それまではただ暗いだけで何が映っているのかもよくわからなかった小型カメラのモニターが、不意に明るくなり、史香はハッとした。モニターに映る、ノートパソコンらしきものの画面。そこに映し出されている人物の顔に目を凝らす。
「前西参太郎」
「――前西参太郎さん!」
 当たりだ。ヘッドセットのマイクに音が拾われぬように、史香はほっと息を吐いた。
 それからも似たようなやりとりは続き、海砂と史香は何とか名前当てをクリアしていった。幸いなことに、火口が挙げたのは史香が調べておいた人物ばかりだった。
「ねえ、これっていつまで続けるの? ミサ、飽きてきちゃったんだけどー」
 海砂の口を尖らす顔が目に浮かぶ。名前当てがあまりに長く続けばいずれボロが出ることは間違いないために、ほどほどで切り上げるよう海砂には言ってあった。
「前にも言ったように、デスノートを持つ人間の名前を死神が教えることはできない」
 海砂のマイクが、レムの声を拾う。火口が目配せか何かでもしたのか。
「ただ――おまえにもわかっているだろうが、この娘は顔を見た人間の名前をすべて言い当てている。それは確かだな」
 なかなかの援護射撃だ。海砂を第二のキラだと断じたわけでもないし、嘘を言っているわけでもない。
 火口はレムの言葉で、海砂のことをいくらかは信用したようだった。
「わかった、ミサちゃんを信じるよ。それで俺がキラなら、結婚するんだな」
「キラならね。証拠あるの?」
「証拠か……」
 しかしそれでも、海砂の方は名前を当てるだけで、火口には殺しをしてみせろと言うと、さすがに躊躇われるらしい。……予想の範疇である。
「そうだ、火口さんがキラなら、犯罪者を裁くの今日から止めてみてよ。で、一週間後にまた裁き始めるの。それならミサにだけは火口さんが本物のキラだってわかるし、今ここで誰かを殺すって危険を冒す必要もなくなる。どう?」
 今はデスノートを持たない火口にとっても、これは願ったりの提案のはずだ。
 とは言え彼がこの提案に飛びついたのは、海砂が金欲銀造を目の前で殺してみせたという、これ以上ない揺るがぬ証拠を示したからで……名前当てという中途半端な芸当で、引っかかってくれるのか。
 ややあって、火口が口を開いた。

 火口に送られてナース服のまま捜査本部に戻って来た海砂を、史香はエントランスで出迎えた。
「お帰りなさい、お疲れ様です」
史香! どうだった!?」
 史香の顔を見るなり、海砂は声を弾ませる。
 海砂と火口の会話を録音したレコーダーを掲げてみせ、再生ボタンを押した。
『――ほど、名案だな。俺は今から犯罪者裁きを止める。それで俺がキラだとわかったら、俺と結婚――』
 史香は微笑んだ。
「完璧です、弥さん」
「やったあ!」
 海砂が片手を頭の高さに挙げ、手のひらを向けてきたので、史香も同じようにして応えた。ハイタッチをする。
「俺の出番、とうとうなかったなー」
 リュークが後ろで、こっそりとぼやいた。





 史香とミサが持ち帰った証拠によって、捜査は劇的に進展した。
 火口がキラだと特定できたのだ。
 ミサの身の危険も踏まえ、月たちはすぐに火口の捕獲作戦に移った。さくらTVのキラ特番で松田を囮に使い、火口を動かす。奈南川たちの協力も得て、作戦は順調に進んだ。
 ウエディから火口が自宅を出たという報告があり、捜査本部のモニターに、火口の車に仕掛けたカメラの映像が映し出される。
「まったく筋書きどおりで、怖いくらいだ」
「ええ……」
 月が思わず呟くと、背後の史香がひっそりと頷いた。
「本当に、ね」
 ふとその声音に引っかかりを感じ、月は振り向いた。史香はまっすぐにモニターを見つめている。張り詰めたような表情――いや、こんな場面だ、史香だって真剣になりもするだろう。何もおかしいことはない。
「怖がらずに喜びましょう、二人とも」
「ああ、そうだな。竜崎」
 纏わりつく違和感を振り払い、モニターに向き直る。火口を捕まえられるかどうかの瀬戸際だ、他のことに気を取られている暇はなかった。
 ところが、火口をヨシダプロまで誘き出してから、雲行きが怪しくなり始めた。「死神」との会話。月たちが監視する中で松田を殺そうと試みたようなのに、いまだはっきりとしない殺しの方法。そして事故死した白バイ隊員。
 火口が第二のキラと同じ力を手に入れたと判断し、火口確保に踏み切る。
「夜神くん、私たちも行きますか。ミサさんはここから動かないでください」
「ええーっ? てか、これじゃ動けないじゃん!」
「ミサ、すまないが我慢してくれ」
「……はい」
 ミサを椅子にぐるぐるに縛り付けてしまうと、屋上のヘリポートへ向かう。その後を、当然のように史香が追いかけて来た。
「竜崎さん、月さん、私はついていきますよ」
「何言ってるんだ、史香もここに――」
「夜神くん」
 史香を押しとどめようとした月を、竜崎が遮った。
「構いません。史香も捜査員の一人ですから」
「しかし、危険だぞ」
「そんなの今さらでしょう、月さん。それに、こんなところで言い争っている時間はないはずです」
 史香の強いもの言いに押され、不承不承受け入れるしかなかった。
 ヘリの操縦席には月と竜崎、その後ろに史香と、目出し帽をかぶりライフルを担いだ老人――察するに、直に対面するのはこれが初めてとなるワタリ――が乗り込み、火口の元へ向かう。
史香さん、こちらのドアを開けます。しっかり掴まっていてください」
「は、はいっ」
 ワタリがヘリのドアを開放し、ライフルを構える。弾丸は逃走する火口の車のタイヤを正確に撃ち抜いた。
 さくらTVからは逃げられてしまったが、相沢ら警察からの思わぬ助力があり、高速道路にて火口の車を包囲、身柄の確保をすることに成功した。
『名前を書くと、書かれた人間が死ぬノートだ……』
 ここでもまた、火口の自白が事態を奇妙な方向へ転がしていった。
『これは……ノートに触れた者にだけ見えるらしい……ば、化け物が』
「死神が、いたんですね……本当に」
 火口が所持していた黒いノートに触れた父、模木、竜崎までが、驚愕の表情でそんなことを言う。化け物……死神? そんなものが本当にいるものか。
「竜崎、僕にも貸してくれ!」
 引っ手繰るようにして、月は竜崎の手からノートを奪う。その瞬間、月の口から抑えきれない呻き声が迸った。膨大な情報が瞬時に脳内になだれ込み、
 ――――
「夜神くん? 大丈夫ですか?」
「死神だって……? それに、こんなもので人が殺せるなんて……信じられるか、竜崎?」
「えっ、ええ、私も信じがたいです……」
「とりあえず、ノートに書かれている名前と犠牲者の名前を照合してみるよ」
「……はい、お願いします」
 持ち込んでいたノートパソコンを開き、竜崎に背を向ける。
 自然と唇が歪んだ。
 勝った! 計画通り――
 竜崎は、まだ死神を目の当たりにした衝撃が抜け切れていないようで、月に対する返答もどこかぼんやりしている。それに今、火口やレムから目を離すことはできまい。いつでも火口を狙撃できるようにライフルを構えてヘリから半身を出しているワタリ。そのワタリの背後からヘリの外へ顔を出し、火口らを窺っている史香。この体勢でいれば、月の手元は誰の目からも死角になる。
「夜神くんは、すごいですね。あんな化け物を目にしても冷静です」
「そうか? 最初は驚いたが……こうなると、逆に落ち着いて来たよ」
 焦ってはならなかった。しかし、今しかない。デスノートを手にし、キラとしての記憶を取り戻している今しか。もし竜崎に何か感付かれるようなら――いや、大丈夫だ、月の行動を見咎められることは絶対にない。
「とにかく、火口とあの化け物から聞き出すしかないな。ノートを試してみるなんて絶対にできない」
「そう……ですね。残念ですが」
 竜崎と会話しながら、腕時計を操作して底の部分をスライドさせる。準備していたノートの切れ端と、名前を書くための針。針を摘んで指先に刺し、己の血で文字を綴る。
 火口――
 手が震えた。
「夜神さん、火口を車へ。もう一人の方もお願いします」
『もう一人……わ、わかった』
 卿――介――やった! これであと四十秒。そっと腕時計を元に戻し、竜崎とのやりとりを続ける。
「このノート……科学分析をすれば何か出るだろうか」
「夜神くんらしくないですね。もはや科学なんて超えていますよ」
 二十九、二十八……月にとって、一生のうちで一番長い四十秒だ。……二十三……二十……
「ははっ、それもそうだ……」
 乾いた笑いが漏れた。
 柄にもなく、心臓が激しく脈打っている。周囲にまでその音が聞こえるのではないかと錯覚してしまいそうなほど。まあ、そんなことが実際ありえたとしても、多少の音ならヘリのホバリング音がかき消してくれる。さっきの一連の動作も、だからこそ可能だった。
 五……三、二、一、
「月さん」
 不意に女の声がし、背後から伸びた手が、月の肩を叩いた。思わずビクリとする。史香――つい今しがたまではワタリの背にくっついていたはずなのに、いつの間に月の元へやって来たのか。
 いや、そんなことより、四十秒が経った。火口は!
『竜崎、火口を車に収容した。捜査本部へ連行すればいいんだな?』
「はい、私たちも戻ります」
 月は愕然として、車に乗り込む父たちを見やった。
 馬鹿な――どんな小さな断片でもデスノートの効果は表れる。所有権を持たない者でも名前を書いて人を殺すことはできる。名前を書き込む道具は何でもいい。火口卿介は本名だ。問題は何ひとつない。まさか名前を書き損じたのか? そんなはずは、
「月さん」
 背後の史香が、月の両肩に手を置き直した。耳元に口を寄せられ、息がかかる。史香の柔らかい髪が頬をくすぐった。
「そのノート……私にも触らせてもらえませんか?」
 その声音には明らかな嘲りが含まれていた。明らかな、けれどおそらく月にしか伝わらぬだろう程度の。
 まさか、この女――
 理屈でなしに理解する。
 史香は知っている。推理してそこに辿り着いたのではなく、知っている。何故か、どうやってかはわからない。しかし、月がキラだということも、火口を殺そうとしたことも、それをしくじったことも、すべて。
 そして、この失敗は史香の手によるものなのだ。
 月は勢いよく振り返り、はっきりと見た。月の突然の動作に驚いたのか、ちょっと目を丸くした史香の顔が次いで――勝ち誇った笑みに塗りかえられるのを。