20
次の日には、捜査本部のメインフロアには捜査員の皆が集まっていた。ヨツバからの圧力がなくなり、警察上層部との関係も間もなく修復されるだろうということになって、相沢も一緒だ。
「ノートやHOW TO USEのインクに使われた物質は、すべて地球上には存在しないものだったそうだ」
報告の電話を受けた相沢が、その内容を告げる。皆、一斉に沸き立った。
「そうか……!」
「よかったですね、局長! これで月くんもミサミサも白だ」
リュークが書いた偽のルールの一つには「このノートに名前を書き込んだ者は、十三日以内に次の名前を書き込まないと死ぬ」とある。そのため、人智を超越した死神のノートだと証明されれば、長期にわたって監禁されていた夜神月と弥海砂はキラ容疑からは完全に外される。……ここまでは、月の筋書きどおりでもあった。
ただ一人、竜崎だけは、まだレムに質問を畳みかけている。
「納得いかないって顔だな、竜崎」
竜崎の隣で、月が眉を顰めつつ言った。
史香は彼の一挙一動を慎重に見張っていた。火口は生きており、所有権の移動のないままノートを手放した夜神月は、キラの記憶を再び失っているはずだ。しかし、今はノートは相沢が手にしているものの、いつ月が触れようとするかもわからない。
「そうですね。正直なところ、そのとおりです」
ガムシロップとミルクのタワーを作り上げながら、竜崎は応じる。
「ですが十三日のルールがある限り、夜神くんとミサさんはキラではないということになります」
「なりますって、もう明白ですよ!」
「ああ、二人の監視は解くべきだろう」
松田と相沢が、二人がかりで反論している。それを横目に、史香は夜神に尋ねてみた。
「科学分析以外での、ノートの検証は行わないんですか?」
「と言うと……」
問の意図を汲みかねたようで、夜神は史香を見た。
「つまり――名前を書いて本当に死ぬのかどうか?」
「いや、そんなことはすべきではないし、してはならない」
即座に強く否定する夜神。
史香は頷いた。
「もちろんです。ですが、そうすると火口はじきに死んでしまいますね」
「……うむ。そう、なるな」
「ああ~っ、そうか! このままだと、あのルールがあるから……十三日後に!?」
松田は今になって気付いたというように大声を上げる。竜崎が淡々と補足した。
「火口は昨日、逃走中に白バイ隊員を殺していますから、十二日後ですね。十一月十一日です」
「どんな事情があれ、火口にこれ以上殺人を続けさせることはできないよ。火口には気の毒だけど……殺人ノートなんてものに手を出したツケは、自分で払ってもらうしかない」
月は真摯な表情で、おそろしく優等生らしいことを言う。竜崎の攻勢から一時解放されたレムが、ちょっと興味深そうに、彼女の知る彼とはかけ離れた月を眺めている。
「いいんじゃないですか? どのみち、あれだけの大量殺人を犯した火口は極刑間違いなしですよ」
「松田、不謹慎だぞ」
「あ、すっ、すみません……」
史香は皆が発言し終えるのを待って、こう提案した。
「竜崎さんが納得いかないのなら、監視を解くか決めるのは十二日後にしてはどうですか? 火口が死ねば、ノートのルールに間違いはないという証明になります。間接的にノートの効力の証明にもなりますよね」
「二週間近くも待つ必要があるのか?」
「そうですよ! ミサミサにしたって、早く自由にしてあげなきゃかわいそうだし」
他の捜査員は、すっかり月たちの無実を信じきっているようだった。この様子を見ておけば、レムも文句はないだろう。
月自身は何も言わず、ただ竜崎に目を向ける。竜崎は両の手それぞれでガムシロップを摘み上げた格好のまま、しばし黙り込んだ後で、決断した。
「いえ……ノートの効力を疑ってはいません。わかりました、監視は止めます」
今まですみませんでした、と月と目を合わせることはせずとも、一応は謝罪をする。
「いや、いいよ、竜崎。監視や手錠は解かれても、捜査を続けるのは構わないよな?」
「はい、もちろんです」
こうして、キラ事件は一応の収拾を見せた。
キラの力を持つ者が逮捕され、犯罪者の裁きは止んだ。しかしあくまでもそれは表面的な事象であり、この世に存在するデスノートは果たして一冊きりなのか、火口以前のキラと第二のキラの正体、さらにその以前にデスノートを手にしていた者がいないかを明らかにしない限り、キラ事件が本当に解決したとは言えない。
その面にのみ言及するなら、火口逮捕以降、捜査は停滞していた。
ノートの成分を分析しても新たに判明する事実はなし。レムは竜崎からの問をのらりくらりとかわし続けており、火口はノートの使い方くらいしか知らない。火口は尋問に少しも耐えず、レムがどう言ってノートを持って来たかもべらべら喋ったのだが、レムはそれもリュークのような気まぐれな性格を装ってうまくごまかしたようだった。
そういうわけで史香は、メインフロアで皆の話を聞いては時折口を挟んだり、リュークにリンゴを与えに公園に出かけたりする他は、前みたく自室でだらけて過ごす生活に戻っていた。
「これで、全部おまえの思いどおりってわけだ。フミカ」
ベッドで自堕落に読書をしている時に、リュークが話しかけてきた。
そうですね、と本から顔を上げずに、ごく小さな声で返事をする。海砂は解放され月の監視は解かれたが、ビルの監視システムは火口が生きている間は必要だということで、まだ完全にオフになっていない。
史香はページを繰る手を止め、現在の状況を頭の中でなぞった。
海砂は晴れて無実。数日前に、このビルを出て自宅に帰っている。海砂に火口の自白を引き出させた時はデスノートの力やレムの手は一切借りず、捜査員の皆が知る情報を元に推測して行ったという形を取った。火口から、海砂に不利になる証言が出ることはない。また、海砂は月がキラであった事実を知らずにいるから、勝手に暴走することもない。
夜神月は今のところキラの記憶を取り戻していない。監視を解かれて月も自宅に戻り、捜査本部には基本は通いで来ている。デスノートは竜崎が常に手にしているから、彼がノートに触れてしまう危険はうんと少なくなった。
リュークの言うとおり、すべてうまくいっている。……さしあたっては。
「気になってたんだが、デスノートを三冊も手に入れてどうする気なんだ?」
本を開いたままでも、史香がすでに読むのを止めていることに気付いたのだろう、リュークが続けて言った。
三冊のノートとは、この部屋の机の引き出しにしまっている、元ジェラスのノート。それと、史香とレムが交わした取引によって得られるはずの二冊のことである。
あなたに死んでもらうことです――あの時ヨツバビルの化粧室で、史香はレムにそう告げたのだ。
レムは無言で史香を睨み付けた。
「……ああ、そう怖い顔をしないでください。何も、今すぐ死ねだとか、そんなことを言ったわけではないんですよ?」
「いや、言っただろ……」
「早とちりですったら、リューク」
まあ確かに言ったのだが、どうもレムは、史香がどんな発言をしたところで沈黙で返すことしかしないようだ。代わりにリュークが反応してくれるとは言え、だんだんつまらなくなってきた。もう止めよう。
「あなたのノートの所有権を、私に譲ってください。それが、弥海砂の無実との交換条件です。あなたが持っているノートと、火口が持っているノートの二冊」
指を折り、数える仕草をしてみせる。
「ノートをすべて手放せば、あなた、寿命を延ばす手立てがなくなるでしょう? 譲ってくれるのはそれぞれ、弥海砂の無実が確定してからと、火口が死んでからでいいですよ。それまでの間に、ノートに名前を書き込みまくって延命に励んでもらって結構ですし」
やはりレムは何も言わないが、史香は気にせずに言葉を重ねた。
「でも寿命なんて、百年もあれば、あなたにとっては十分かもしれませんけどね。弥海砂の平穏な一生を見届けられれば……」
これで、カードはすべて切り終えた。
レムは身じろぎもせず史香を見下ろしている。好きなだけ悩むといい。今は、仕掛けた網の中に魚が入ってくるのを待つようなものだ。そして必ずかかるという手応えが、史香にはあった。
「私がノートを譲ると言えば……ミサは解放されるんだな?」
――そら、かかった。
史香はにっこり微笑んだ。
「はい。それが私から提示する取引材料です」
「Lからも夜神月からも、ミサを守ると?」
「それって無実とは……まあ、はい、おまけです。考慮しましょう」
火口が夜神月と比べていかに卑劣な人間性をしていても、夜神月がかつて海砂を殺そうとしたのは事実だ。そして、彼の中には海砂を殺すという選択肢が常に存在していたことも、明らかに海砂を利用していることも、レムは感じ取っていたはず。
だから、史香の申し出を断れるわけがない。
「……いいだろう」
レムの歪で不気味に白い指が、史香を示す。
「ミサが自由になった時、私のノートの所有権をおまえに渡す。あの男が持つノートは、あいつが死んだ時に」
「はい、取引成立です」
……レムとのやりとりを思い出し、史香は自嘲の笑みを零した。
「さあ、どうする気でしょうか」
「何だそれ……わからない方が面白いから、いいけどな」
「この前の、火口の捕獲作戦は面白かったんですか?」
「そこそこ」
本を閉じ、ベッドから起き出す。机の上に本を置いた。ふと、その引き出しにしまっているデスノート、そこに自分が書き記した一文のことを思う。
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慌ただしい状況下でこっそりとノートに名前を書き込むのは、そう難しいことではなかった。
海砂の白を証明するには、どうあっても十三日ルールを成立させる必要があったのだ。そして、竜崎がノートの検証を行うなどと言い出さないように、何らかの方法でそのルールを実証する必要が。
それには火口を使うのがちょうどよかった。夜神月が火口を殺そうとする前に名前を書いておけば、ノートの効力はこちらの方が優先され、月がノートの所有権を得るという計画を突き崩すことも同時にできる。
問題は――史香自身の手で名前を書かなければならないこと。火口が最後にデスノートを使ってから十三日後となる日付を間違いなく記し、かつ、夜神月よりも早くデスノートに火口の名を書くのは、レムにさせるには少々無理があった。
「ん? フミカ、どうしたんだ?」
知らず、ぼうっとしてしまっていたらしい。我に返って、史香はかぶりを振った。
「いえ……少し出かけます。ついて来ないでくださいね」
「ああ、わかった」
リュークが憑いてからの問題の一つに、お互いの性別、つまりは風呂や何やかやの問題があり、それに関してはねちねちねちねち言い含んであるので、こう言うとリュークは大人しく留守番をしてくれる。
「しばらく戻って来ないかもしれません」
「えっ? しばらくって、だってトイレなんだろ」
きょとんとするリューク。
史香はにっこりしてリュークを見上げた。
「だったら何ですか? 詳しく説明してほしいんですか? 私の排泄事情を? ああそうですか、そんなにお望みなら気の済むまでいくらでも懇々と説いてさしあげますとも」
「いや悪かった俺が悪かったマジで悪かった。だからやめて」
リュークを言いくるめて(八つ当たりも兼ねる)から部屋を出ると、史香はメインフロアへと向かった。
捜査員たちが各々の作業に励んでいるが、いつもの席に、背中を丸めて座る竜崎の姿がない。ついでに、夜神月の姿も。
「あっ、史香ちゃん」
「松田さん、竜崎さんは?」
開口一番に、竜崎のことを尋ねた。
「竜崎なら……自分の部屋じゃないかな。たぶん」
「部屋?」
「ここにいても、捜査は何も進展しないしな。あのノートを持って行ったよ。一人で考えたいこともあるんだろう」
首を傾げる史香に、そう教えてくれたのは相沢だ。
「そうそう、死神は何を聞いてもわからないって言うばっかりで、あ、いや何でもないです」
愚痴った松田が、レムに睨まれて首をすくめる。それから、溜息をついた。
「十一日までは、ずっとこんな感じなんでしょうねー」
「火口が死ねば、少なくともノートの効力は実証される……それも複雑な気分だが」
夜神が顔を顰めて、顎を撫でている。
「それじゃ、月さんは?」
「月くんは、さっきミサミサが来て――」
松田の話を聞きながら、史香はちらりとレムを見た。一瞬、レムと視線が合い――すぐに逸らされる。二人の間に交わされたのはそれだけだった。
メインフロアを後にして、廊下へ出る。
廊下を歩いている途中、派手なスーツ姿のアイバーにばったり出くわした。
「やあ、史香」
アイバーは史香に気付くと、片手を挙げてみせた。彼とはほとんど接点はなかったが、邪険にする理由もなく、史香も「こんにちは」とにこやかに挨拶をする。
「捜査はどうなってる? こう言ってはなんだが、俺は退屈で退屈で仕方ない」
「ああ……しばらく動きはなさそうですよ」
アイバーとウエディは、もともとはヨツバの潜入捜査のために呼ばれたのだから、こういう状況になっては何も役割がない。さらに二人は犯罪者で、警察との繋がりが戻った今、これからも彼らを使っていけるのかどうか。
「夜神さんたちも、辞表取り消しになるみたいですし」
「そうか。それじゃ近いうちに、フランスに戻ることになるかもな」
アイバーは肩をすくめた後で、右手を差し出した。
「ええと……」
「別れの挨拶だ」
握手を求められている、と。
……今? 怪訝に思ったが、先日は勝手に彼の命を危険に晒したという、負い目のような後ろめたさのようなものがあって、結局は素直に右手を出して応じた。
ところがアイバーはそれをさっと避けて、逆に史香の指を軽く握った。そのまま、掬うようにして手の甲にキスを落とす。
「なっ……!」
「じゃあ、またな」
史香がものすごい勢いで手を振り払って後じさり壁に背をつけたのに、気を悪くする素振りも見せず、アイバーは廊下の向こうへ去っていった。史香は呆然とアイバーの背を見送った。恐るべし、欧米人……
そういった障害を何とか乗り越えて、竜崎の部屋の前まで辿り着いた。
「竜崎さん、竜崎さん」
ノックをするが、しかし返事がない。試しにドアノブを回してみると、開く。仕方がないので、史香は部屋に押し入った。
広々としていても妙に家具の少ない部屋の中央に、テーブルとソファーのセットがどんと配置されている。テーブルの上にはパソコンと、洋菓子が乗った皿、積み上げられた空の皿が並び、端の方に食べかすまみれになってしまったデスノート(もう少しで史香に所有権が譲られるはずのノートなのに、何という有様か)が置いてある。
ソファーの上には、部屋の主が膝を抱えて座っていた。
「やっぱり、いるじゃないですか。返事くらいしてください」
声をかけると、よほど思考に没頭していたのか、竜崎はようやくこちらに気付いたようだ。ソファーの上から史香を見やる。
「……不法侵入ですよ」
「竜崎さんが居留守を使うからです」
「そういう、――史香」
史香の言い草に何事か反論しかけた竜崎は、はたと眉を顰めた。
「何か、落ち込んでいますか?」
目をぱちくりとさせる。……まさか、言い当てられるとは思わなかった。
「そう……見えますか」
「はい、見えます」
「……そうですね、落ち込んでいます。なので」
そんな簡単な言葉で片付けていいものではないかもしれない。
史香がかつて彼を殺めたのは、世間一般の倫理と照らし合わせれば罪になる行為だと理解してはいたけれども、史香の中ではあくまでも「愛する」という行為だった。歪ではあっても、史香なりの価値観に基づいたもの。
しかし、今度は――火口の場合は、違う。まだ火口は生きているが、間もなく死ぬ。確実に。史香がデスノートに名前を書き込んだからだ。竜崎を生かすために。史香個人の利益のために。
それは、史香の歪んだ倫理に沿っても、単なる殺人だった。
史香は部屋の中を横断し、竜崎のソファーの側まで来ると、その肘かけの上にちょこんと腰を下ろした。そうすると、自然、史香の腕と竜崎の肩が触れ合う。
「元気になるために、竜崎さんとベタベタしに来ました」
「ベタベタ」
史香を見上げ、竜崎はオウム返しに呟いた。史香はあらぬ方を向いて、竜崎の姿が視界に入らないようにする。
「今から言うことは、全部嘘なんですが……」
そんな、みっともない言い訳をした。
「私、は……」
心臓の音がうるさい。もともと自分がおかしいという自覚はあるけれど、罪悪感のあまりに私はさらにおかしくなってしまったのかもしれないなあ、と思った。それとも、海砂の頭のお花畑具合が伝染してしまったのか。
「……竜崎さんが、好きなんです」
「私も好きですよ」
あっさりと返事をされた。
びっくりして竜崎を見ようとしたが、それより先に竜崎の片腕が背に回り、もう一方が膝の下に差し込まれ、ひょいと持ち上げられた。横抱きにされるみたいに竜崎の両膝の間に収まる。――と言うより、体をくの字に折られた状態で、お尻が竜崎の足の隙間から落ちたのだ。そのままソファーからずり落ちそうになった。
「ちょっ、こ、この格好、落ちますよ!」
「それでは私に掴まっていてください。どうぞ遠慮なく」
選択の余地がないので、言われるとおりにするほかない。史香はしぶしぶ竜崎のトレーナーを掴んだ。
竜崎は嫌そうな顔をした。
「服が伸びます」
「もう十分に伸びているじゃないですか」
と、竜崎の抗議をかわしたが、有無を言わさず片腕を竜崎の肩に置かされた。体の支えがなくなって、やむを得ずもう一方の腕も竜崎の首に回す。それでどうやら、合格点に達したらしい。
「……いささか強引すぎるんじゃありませんか」
「ベタベタすると言ったのは、史香でしょう」
「はぁ……」
軽く息を吐きつつ、ちょっと上を向くと、すぐそこに竜崎の顔がある。トレーナー越しに感じる竜崎の体温やがっしりした体つきや、背を支えてくれている腕の力強さが今さらながらに意識されてきて、慌てて俯いた。
「史香、どうしました?」
竜崎は顔を覗き込んでくる。声の調子からして、絶対にわかってやっている。なのに、思惑どおりにうろたえてしまうしかない自分が情けない。
「え、えっと、あの、さっき竜崎さんが言ったのも……嘘ですか?」
苦し紛れに出た質問は、しかももっと恥ずかしいものだった。
「あっ! 今の、やっぱりナシで――」
「あなたの方は、そうやって何かの事情と折り合いをつけようとしているのはわかりますけどね」
史香が言うのを遮って、竜崎は問に答える。
「私は嘘ではなく、心からあなたを愛しいと思っていますよ、史香」
「いとっ……!」
史香は絶句した。日本人の選する言葉ではない。
――そういえば、竜崎は、国籍はわからないのだったか。イギリスに数年住んでいたとは言っていたような? 向こうの人はそういうものなのか。
「詐欺師の人といい……」
思わず呻くと、竜崎がムッとなった。
「どうしてアイバーが出てくるんですか」
「……え、まあ、ここに来るまでに、ちょっと」
「ちょっと?」
「微妙にお嫁に行きづらい体にされました」
竜崎の眉間に大変な皺が刻まれた。
「…………本当は?」
「ええと、ちゅーを……あっ、挨拶の。て、手の甲に」
意趣返しにわざと紛らわしい言い方でもしてやろうかと思った史香だったが、さらに竜崎の顔がものすごいことになる気配がして、急いで付け加える。竜崎は自分の首に回されている史香の手を取って、トレーナーでごしごし拭い始めた。
「気を付けてください。あなたほどではありませんが、私も割と嫉妬深いので」
「私ほどではないって、どういう意味なんですか。私は少ーしも、嫉妬深くなんかありません」
「そのままの意味ですが……まさか本気で言っていますか?」
「当たり前です」
史香は三冊ともノートを手に入れたら、人知れずすべて燃やしてしまうつもりでいた。
そうすればリュークとレムは死神界に帰り、人間界にあるデスノートはなくなる。レムは竜崎に手出しができなくなる。
火口のノートの消失となると皆が騒ぐだろうが、死神もともに消えれば何か超常的な力が働いたとごまかせるし、人の手には永久に渡らないように保管されさえするなら、その一冊に関しては所有権を放棄するだけでもいい。そして史香のノートに関する記憶は失われて、この、火口を殺すことに対する罪悪感も消え失せるのだ。
しかし、レムが取引を反故にする可能性だってある。月とLの勝負を見届けるのを中途半端に邪魔され、再び退屈を覚えるようになったリュークが、また人間界を引っかき回すきっかけを作ってしまうこともあるかもしれない。火口が死んで所有権の浮いたノートを、史香が手にする前に他の捜査員が触ってしまうことだって。
あるいは、月が他にも史香の手に負えぬ策を用意していて、キラの記憶を取り戻す。竜崎がすべてを見破って真相に辿り着いてしまう。そうなることも、あるかもしれない。
考えれば考えるほど、この先の道が平坦とは思えなかった。
「ところで、元気にはなりましたか?」
「あ、はい……いえ、もう少しかかります」
「……そうですか。困りましたね」
「はい?」
「ベタベタでは済まなそうになってきました」
「…………」
史香は口を噤んだ。ややあって、じとっと竜崎を見る。
「竜崎さんって、むっつり……」
「普通です」
竜崎はさも心外そうに、きっぱりと言い切る。
……もしかして、この罪悪感は火口を殺めることではなく、竜崎を欺くことに対するものなのか。でも、もうじき忘れられるはずだ。史香が忘れてさえしまえば、竜崎でも暴けやしまい。
そんなことを思っていると、どうしようもなく胸が痛くなった。
「史香?」
ふと、竜崎の長い指が頬に触れてきた。
竜崎の目にも明らかなほど深刻な表情をしてしまっていたのだろう。何と言い訳すればいいのか、言葉に詰まる。
「嫌なら、そう言ってください。止めますから」
それを、竜崎は別の意味に取ったらしい。こちらを覗き込んでくる竜崎は、何だか捨てられた子犬のようだ――と、何故だか竜崎とは似ても似つかぬものを連想してしまって、史香はちょっと口元を綻ばせた。
「……いいえ、竜崎さん」
いつか、終わりはやって来るのかもしれない。来るとしたらおそらく、そう遠くないうちに。けれど、これから先にどんな末路が待ち受けていようと構わなかった。今、この瞬間があるのなら。
眩暈がするような罪に身をゆだねて、史香はそっと瞳を閉じた。