鬼畜戦士と女郎蜘蛛と貞操の危機

 勇者として召喚されたからと言って、もいつも戦っているわけではない。
 イデヨンのおかげでママトトの軍はそれなりの規模になりつつあり、その分一人一人の負担も軽減されてきている。ナナスの計らいで、それぞれ十分な休息を与えられもするのだ。
 その日、一日の休みをもらったは、ママトトの廊下を歩いていた。
「あ……」
 前方に、背の高い男の姿が見えた。自分に宛がわれた部屋から出てきたところのようだった。
 確か、名前はランスといったはずだ。話をしたことはないが、何度か異空窟で戦っている姿を見かけたことがある。長剣を扱う戦士で、少々力任せにしすぎているようではあるが、腕前はかなりのものだった。
「あの」
 はランスに声をかけた。
「ん? 何だお前は」
 ランスは億劫そうに振り返る。彼の隣には、同じ世界からやって来たのだという魔法使いのシィルもいた。ランスの陰になっていて気付かなかったらしい。
「あっ、こんにちは」
 シィルの方は朗らかに挨拶をしてくれた。布地の少ない服を着て、まるで露出狂のような格好をしてはいるが、人格はいたって善良のようだ。見た目による第一印象を改めて、は心の中で彼女に謝った。
「こんにちは。私、長谷川といいます」
 とりあえず自己紹介をするが、は何と話を切り出すべきか悩んだ。つい、衝動的に話しかけてしまったのだ。
 異空窟での戦いでは、己の力不足を痛感させられることがしばしばある。そのため、は空いた時間をなるべく鍛錬に費やすようにしていた。しかし、一人での鍛錬も限界がある。リックにはよく面倒を見てもらうが、彼はママトトの主戦力だから異世界の勇者たちよりも多忙で、そうそう気軽に頼むこともできない。そこで、勇者のうちの刀使いか剣士の誰かに、駄目でもともと、一度は稽古をつけてもらえるよう頼んでみようかと、そんなことを歩きながら考えていたのである。そこにちょうど出くわしたのがランスだったのだ。
 はまず初対面で突然そんなことを頼む自分の非礼を詫びて、丁重にお願いをした。
「お暇な時でいいんです。どうでしょうか?」
 ランスはの頭のてっぺんからつま先までを、舐め回すようにじろじろ見た。何となく嫌な類の視線である。は彼に声をかけたことを少し後悔した。
 そうとは知らず、ランスは尊大に腕を組んで鼻を鳴らした。
「ふん、天才戦士の俺様に声をかけるとは、なかなか見る目があるじゃないか。いいだろう、俺は世のため人のために活躍する正義の味方だからな、面倒だが引き受けてやる」
「ありがとうございます」
 は頭を下げた。しかしその舌の根も乾かぬうちに、ランスは正義の味方らしからぬことを口にする。
「――ただし、タダではやらんぞ」
「はあ」
 お礼をするのはやぶさかではないが、は顔を曇らせた。
「私、お金は自分の世界のものしか持っていなくて……他のことなら」
 ランスはにやりと悪辣な笑みを浮かべた。
「体で払えばいい」
「……はい?」
 はしばらくその言葉が理解できず、理解した途端、唖然となった。
「らっ、ランス様!」
 シィルがすっとんきょうな声を上げた。
「だ、だめですよ! この人は、私たちと同じようにこちらに召喚された勇者で――」
「……シィル、貴様、奴隷の分際でこの俺様に意見する気か?」
 唯一、の救いになるかもしれなかった彼女は、そのたった一言で黙り込んでしまった。
「世界中の女は俺様のもの、異世界の女も俺様のものだ! がははははは!」
「えっ? あの、ちょっと待っ――」
 聞く耳を持たず、ランスはの手を乱暴に引いて、背後にある部屋のドアを開けた。恐ろしいことに、この男は本気でをどうこうする気なのだ。それを悟っては青ざめた。
「ランス様……」
 置き去りのシィルは切なそうな目でランスを見送る。それより何より、助けてほしい。そんなの視線にも気付かない。ぐすっと涙まで浮かべているが、泣きたいのはこちらである。
 まさに絶体絶命、部屋に押し込まれる寸前――
「……まぁ、異世界の殿方は、随分と強引でいらっしゃるのね」
 静かな、けれど誰にもそれを無視することのできないような、抗いがたい何かを持つ声がした。
 振り向いた先には、セーラー服姿の、長い黒髪の少女が立っている。
「初音さん……!」
 比良坂初音――同じ日本出身(時折話が食い違うことがあったから、もしかしたら厳密には違うのかもしれない)の彼女とは、その縁で言葉を交わしたことも少なくなかった。
 初音は縋るようなの視線を微笑みで受け止めると、ランスを見やった。
「彼女は私の友人ですの。その手を離してはいただけませんこと」
「いやだ」
 ランスは一刀両断に切り捨てた。
「大体、こいつから誘って来たんだぞ」
「……誘ってません」
 とんでもない言いがかりだ。は呆れてそれ以上の言葉もなかった。
「こうおっしゃっていてよ?」
「うるさい、俺様がそうだと言ったらそうなんだ! それとも、貴様が代わりに相手をするのか?」
 めちゃくちゃな論理展開だったが、初音は少し考え込んでから、頷いた。
「承知いたしましたわ」
「は、初音さん!?」
 は目を丸くした。あまりに驚いたので、初音がその後に「あまり美味しくはなさそうだけれど、しようがないわね……」と呟いたのには気付かなかった。
「こちらのお部屋でよろしいの?」
 すぐ近くまで歩み寄ってきた初音の艶然とした笑みに、ランスは思わず、といった様子でたじろいだ。押されるのには弱いようだ。
 手首を掴む力が僅かに緩んだので、はその隙をついてランスの手を振り解く。
「あっ、貴様……!」
 即座にランスが反応したが、それをやんわりと初音が押しとどめた。
「とにかく、お話をさせてくださる? あなたたちの間には意思の食い違いがあるようですもの」
「初音さん――」
「ではね、さん。また後ほど」
 を安心させるように、初音が微笑む。腑に落ちないような顔のランスは、それでも据え膳はきっちりたいらげることにしたらしく、大人しく初音と部屋に引き戻った。
「…………」
 は何とも言えない気持ちでその場に立ち尽くした。
「ううっ、ランス様……私じゃダメなんですかあ~」
 側では、シィルが泣いている。もしかして、この人はわりと見た目に準じた中身の人なんだろうか。いや、人をそんな目で見るのはよくない。は思い直して、声をかけた。
「シィルさん、食堂に行って、お茶でも飲みませんか」
 とにかく、も落ち着きたかった。
 しかし実際そうして息をつけるようになると、いまさらになって事の重大さを実感し、少しも平静ではいられなかった。初音は話し合いをしたいと言ったが、果たしてあの男がそれに応じるだろうか。
 同じ席に着いた、すんすん鼻をすすっているシィルから時折話を聞いたが、会話の端々からあの男がとんでもない好色だということが窺えた。それがの焦燥感をさらに煽る。
 じりじりと時間を潰していると、随分経ってから、少しも変わりのない(と言うより、さっきより調子のよさそうな)初音とげっそりしたランスが食堂にやって来た。
「ランス様!? 顔色が真っ青――大丈夫ですか!?」
 シィルはすぐさまランスに駆け寄った。ランスは忌々しそうに舌打ちをする。
「くそっ。シィル、行くぞ!」
「えっ、は、はいっ」
 足音も荒く去っていくランスを、シィルが後から追いかける。はそれを少しの間だけ目で追ってから、初音を見た。何と声をかければいいのかわからない。初音はランスの消えた方をずっと見やっている。
「あの男、しぶといこと……」
 ふと、初音の唇から呟きが漏れた。
「殺すつもりで吸い取ったのだけれど……精力が強いのかしらね。それにしたって尋常ではないわ」
「初音さん?」
 初音はに向き直った。
「彼、しばらくは大人しくしてくださると思うわ。ですけれど、これからはあまり不用意に近寄っては駄目よ?」
「は、はい……そうします」
 初音の顔を見ることができず、は小さくなって頷く。すると、初音は己の白いたおやかな手をの頬に添えて、揺れる瞳を覗き込んできた。蜘蛛の糸のように視線を絡め取られる。
「心配してくださったのね」
「……当たり前です」
「かわいいこと。そんなに愛らしい顔をされると、今すぐ食べてしまいたくなるわ?」
「え」
 は瞠目した。まじまじと見返すの目の前には、初音の変わらない笑みがある。
「先ほどのことは、気になさらないで。私が先に目をつけた獲物を、横からさらわれては我慢ならないもの……」
 初音の赤い瞳が、妖しい光を宿した。指先がの唇を掠める。その色香に当てられて、背中がぞわぞわとした。
「……ふふ。冗談よ」
 笑って、初音はあっさりとから離れた。
「私もお茶をご一緒しようかしら。茶器をいただいてきますから、待っていてくださいませね」
 気付かぬうちに、はたっぷりと冷や汗をかいていた。
 危機から脱したつもりが、自ら蜘蛛の巣に飛び込んでいってしまったのかもしれない。初音の背中を呆然と見つめて、は立ちすくんだ。