3

樹里、何かいいことあった?」
「えっ?」
 問われて、樹里はきょとんとして友人の顔を見つめ返した。
 中学校からの帰り道。ちょうど前方から自転車がやって来たので、道を広がって歩いていた樹里たちは端に寄り、一列になった。列の真ん中にいる樹里の背を、後ろの友人がつついてくる。
「最近、楽しそうじゃん」
「なになに? 彼氏でもできた?」
「おぉーついにブラコン卒業かあ」
 好き放題に言い合う彼女らに、樹里は口を尖らした。
「いないよ、そんなの。あとブラコンじゃないもん」
「ブラコンでしょ。話聞いてると仲いいし」
「仲がいいのなんて当たり前じゃん。だって、兄妹なんだから」
「ないない。私、家に帰っても兄貴となんて口も利かないよ」
 ……と言われても、樹里にはぴんと来ない。「きょうだいは仲がよいもの」というのが常識で、月とはごくごく一般的な兄妹仲だと思うからだ。そもそも、兄と口を利かないという環境がちっとも想像できなかった。
「そういえばさあ、ニュース見た?」
「心臓麻痺のやつ?」
「そうそう! 怖いよねえ」
 樹里がちょっと考え込んでいるうちに、列を崩した友人たちはもう次の話題に移っている。
「でも、死んでるのは悪い人ばっかりなんでしょ? なら、いいことだよね」
「それ、うちのお姉ちゃんも言ってた。キラ様ーって」
「キラ? 誰?」
「だから、心臓麻痺の事件の」
「犯人?」
「そ、ファンはキラって呼んでるんだって!」
「ファンなんているんだ」
「あ、あたしちょっとわかるかもー」
「えーっ」
 盛り上がる会話を、少し遅れて歩きながら眺めていると、頭上から声が降ってきた。
「嬉しそうだな、ジュリ
 不自然にならないよう心がけて顔を上げれば、道いっぱいに大きな黒い翼を広げた異形の姿が視界に入る。樹里に憑いている死神のリュークだ。
「なあに、リュークまで」
 声を潜めて応じたが、我ながら、その声音もどこか弾んでいる。樹里は観念して頷いた。
「うん、そうなのかも。人に褒められるためにやってることじゃないけど……自分の努力が誰かに認められるのって、嬉しいことだよね」
「……『努力』ね」
 リュークの言葉は、何だか意味ありげな間を伴っていた。樹里は不思議に思う。世界をよくしようとすることを努力と呼ばないなら、他に何と表現するのだろう。
 やがて、友人たちと別れる道に差しかかった。
「じゃあ、また明日」
「ばいばーい」
 手を振り合った後、背を向ける。
「ね、樹里の家って、方向違わない?」
「知らないの? あの子、いつもお兄さんと待ち合わせて一緒に帰ってるんだよ」
「……ブラコンじゃん!」
 友人たちが笑い合い、リュークも声を立てて笑っている。どちらも、聞こえてるんだけどなあ……別に、いいんだけど。
 他人に何と言われたって、樹里の兄への接し方は変わらない。
 兄の高校へ行く前に、樹里はリンゴを買って、途中の人気のない公園でリュークに食べさせてあげた。
 ベンチに腰かけてリンゴを差し出すと、リュークは上半身を大きく反り返らせて逆さまになってガブガブ喰らいつく。樹里は苦言を呈さずにはいられなかった。
「ねえリューク、わかってる? このリンゴを買うお金、高校生のお兄ちゃんが出してくれてるんだからね。芯はもちろん、皮のひとかけら果汁一滴と余さず、味わい尽くして食べてね」
「わかってるわかってる」
 返ってくるのは生返事だ。ひとつめを食べ終わると一息つけたのか、リュークは捻っていた身体を戻し、口についた果汁を手の甲で拭い拭い尋ねてきた。
「なあ、何でわざわざ外で待ち合わせなんてしてるんだ?」
「うん?」
「おまえの兄貴だ。どうせ家に帰ってからもベタベタするんだろ」
「ベタベタなんてしてないけどなあ。うーんと、あたし、小さい頃ちょっといろいろあって。小学生のときはお兄ちゃんに学校の送り迎えをしてもらってたの。その名残かな」
「ふーん」
 リュークは気がない相槌を打つ。
 死神の食事を済ませた後で、改めて高校へ向かう。今日は、ちょうど授業が終わった頃に到着したようだ。生徒たちの波に紛れて校門から出てくる月を見つけて走り寄る。
「お兄ちゃん、学校お疲れさま!」
「ああ、樹里もな。リュークには、ちゃんと餌はやったか?」
「うん! リュークのお世話は、あたしに任せといて」
「俺は犬かよ……」
 リュークが背後で何やらぼやいているが、樹里は取り合わなかった。樹里には「偉いな」と言って頭を撫でてくれる月の優しい手つきを堪能する方が重要なのである。
 家に帰ってから、樹里は早速リュークの言う「ベタベタ」を実行することにした。
「ねっ、お兄ちゃん、宿題教えて」
「駄目でしょ、樹里。ライトは受験生なんだから……」
 聞きつけた母が軽く咎めてくるのを、月はやんわりと遮る。
「いいよ、母さん。ちょうどいい息抜きになる。それに、樹里は出来のいい生徒だからね、そう手はかからないんだ」
「やったあ! 先生、ありがとうございまーす」
「もう樹里ったら、調子に乗らないの。ライトも、樹里を甘やかすのはほどほどにね」
「はは、気を付けるよ」
 母の言うとおり、月は受験生という身分だ。だから今年に入ってからは、樹里は月の部屋に入り浸るのを控えていた。だがデスノートを手に入れたおかげで、二人一緒に過ごす時間が格段に増している。下手に母に不審がられないためにも、こういったやりとりは建前として必要だろう。
 部屋に入ると、月はすぐにドアの内鍵をかけた。鞄を置く時間すら惜しむように、机の引き出しからデスノートを取り出す。
「家でこいつを見るまでは、落ち着かないな」
「そう? だったら、あたしが持ってようか?」
「それはそれで心配だ……」
「お兄ちゃんひどっ!」
 軽口を叩く月だが、デスノートを見て安心したのは本当らしい。先ほどよりも寛いだ様子で椅子にかけ、テレビをつけている。樹里も椅子を持ってきて隣に座った。
「で、今日はどうしたんだ?」
 宿題というのがただの口実であると、兄はとっくにお見通しのようだった。樹里は兄のパソコンを立ち上げ、インターネットに接続しアドレスを打ち込む。
「あのね、友達から面白いサイトを教えてもらったの。これなんだけど……」
 長い文章を仰々しく飾ったページが表示される。救世主キラ伝説。「ほう、人間ってのは面白いことを考えるよな」リュークが興味深げに画面を覗き込んでいる。
「ああ、ここか。キラと検索しただけで、この手のサイトは五万と見つかるよ」
「知ってたの? なーんだ」
 月の反応は至極あっさりとしたもので、樹里は拍子抜けしてがっかりした。
 せっかくあたしがお兄ちゃんに教えて喜ばせてあげようと思ったのに……でも、さすがお兄ちゃん。と、同時に誇らしい気持ちにもなる。樹里が考えも至らないことにだって、月はこうして視野に入れているのだ。
「あたしたち、キラって呼ばれてるんだね。名前、ちょっとかっこいいかも」
「語感はな……Killerに由来してるらしい。新世界の神に対して、品がないよ」
 と言いつつ、月も満更ではなさそうだ。こういうとき、月は素直じゃない。普段はあんなにも完璧でいて、たまにこういうふうに捻くれてみせるのがお兄ちゃんのかわいいところだよね、と、樹里は微笑ましくなる。
「まあ、何にせよ、計画どおりに事は進んでいる……ん?」
 いつ犯罪の報道があっても問題ないように、部屋にいる間、サイドテーブルの上のテレビはつけっぱなしにしている。そのテレビが、突然砂嵐になった。
『番組の途中ですが、インターポールから全世界同時特別生中継を行います。日本語同時通訳は――』
 砂嵐が晴れると、スーツの男が映し出される。
「インターポール……って、なに?」
「ICPOだよ。国際刑事警察機構」
「……警察!?」
樹里。静かに」
 樹里を嗜めた月は落ち着いてテレビを見つめるが、その表情は驚愕を隠しきれていない。樹里は不安な心持ちで兄からテレビへと視線を移した。
『私は全世界の警察を動かせる唯一の人間、リンド・L・テイラー。通称Lです』
 そう名乗った男の正面には、ご丁寧に「LIND・L・TAILOR」の席札が置いてある。
『犯罪者を狙った相次ぐ殺人事件、これは史上最大の凶悪犯罪です。首謀者、俗に言うキラは、絶対に許してはならない。私は必ずキラを捕まえます』
「ククク……必ず捕まえるってよ」
「お兄ちゃん……」
 リュークの好奇な目つきと樹里の憂いのまなざしに晒されても、月は微動だにせず、テレビの男を食い入るように凝視している。
 やがて、月はふんと鼻を鳴らした。テレビの向こうのリンド・L・テイラーに見せつけるみたいに、余裕綽々とデスノートを掲げ、手の甲で表紙を叩く。
「デスノートなんだ。証拠なんて何も残らない。捕まえられるわけがないだろ」
『キラ、おまえのしていることは、悪だ!』
「……僕が、悪だと?」
 リンド・L・テイラーが厳しく言い放った瞬間、月の顔色が変わった。
「僕は正義だ……僕は神だ! 悪を一掃し、弱い者を救い、理想の新世界を築き上げる、神になる男なんだよ!」
 月はペンを取り、デスノートを開いた。まさか。樹里は驚いて、咄嗟に月の腕にしがみつく。
「お兄ちゃん、待って!」
「止めるなよ、樹里。こいつも馬鹿だな。もう少し賢ければ、長生きすることもできたのに……」
「落ち着いて、お兄ちゃん。この人は犯罪者じゃないでしょ?」
「新世界の神たる僕たちに逆らう者、それこそが悪だ! そうだろ!?」
 月は完全に逆上し、取り乱していた。
 樹里にはわかる――リンド・L・テイラーの言葉は、デスノートを手に入れたあの夜、月が心の奥にしまいこんだ罪の意識を揺り起こそうとしてしまった。それを受け入れれば、月はとても正気ではいられないだろう。けれど――
「ねえ、お兄ちゃん、こんな奴が……ううん、誰が何て言おうと、どうでもいいじゃん。あたしはわかってるよ、お兄ちゃんが正しいってこと。それじゃ駄目なの? あたしだけじゃ足りない?」
 ペンを握る月の手を、樹里は両手でぎゅっと包み込んだ。
 見上げれば、そこには樹里の兄がいるのではなく、あの夜空が広がっているのではないか。そんな気がして、樹里は俯く。それなのに、湿った草と土の匂いはしつこく樹里を追いかけてくる。
「殺したりなんか、しないよね。あたし、わかってるから……お兄ちゃんは、お兄ちゃんだけは、そんなことしないって。だってお兄ちゃんは、樹里のお兄ちゃんだもん」
「……樹里……」
 大好きな兄の声で名前を呼ばれても、樹里はすぐには顔を上げられなかった。そんな樹里の頭に、月の手のひらが置かれる。
樹里、泣くなよ。僕が悪かったから」
「な、泣いてないよ」
 おそるおそる見た月の顔には、もはや先の激情の影はない。ただ緩やかな苦笑を浮かべている。そのことにほっとした樹里がそうするよりも早く、月の長い指が樹里のまなじりからこぼれそうな雫を掬い取った。
「ごめん、樹里。僕は、冷静じゃなかったな」
「ううん。あたしもね、今日、友達にキラのこと褒められて、ちょっと嬉しかったんだ。たったそれだけでもそう思うのに、こんなふうに全世界に向けてあんなこと言われたら、お兄ちゃんが怒っちゃうのも仕方ないよ」
 テレビの向こう、簡素なデスクについて、リンド・L・テイラーはまだ演説を続けている。樹里がテレビに目を向けたのにつられるようにそちらを見やった月は、ふと呟いた。
「……待てよ。全世界同時中継だって?」
「どうかした? お兄ちゃん」
 樹里が尋ねても、月は口元に手を当てて、じっと考え込んでいる。
「時差はどうする。アメリカじゃ、今は深夜か早朝だ。日本だってこの時間、働いていてテレビを見ていない人間はいくらでもいるはず……」
 しばらく独り言を続けた後で、はたと樹里を見る。
樹里。さっきのサイトの、掲示板を見てくれないか」
「えっ? うん、いいけど……」
 テレビの方はいいのかな。そう思いつつも、兄の言うことに従って、パソコンのマウスを操作する。「キラ様の復活を信じる者のみこの入り口からお入りください」クリック――「掲示板」クリック――
「あれ?」
 ページには、エラーと表示されてしまった。何度か更新ボタンを押してみても、何も変わらない。
「他のサイトは?」
「ちょっと待ってね」
 キラをキーワードに検索してみると、兄の言っていたとおり、いくつものキラ信奉サイトが出てくる。しかしそのいずれでも、掲示板にはアクセスできない。キラと関係のない掲示板でも試してみたが、同じ結果だ。
「この生放送のせいで、落ちちゃってるのかな」
「いや……おそらく……」
 月は推測の最後までを口にしなかった。
「何かわかったの?」
「今はまだわからない。明日になってからだな」
 中継はいつの間にか終わっていた。この時間に放送されている、普段どおりの報道番組に戻っている。
「すっきりしないなー。でも、ライバルが出てきて面白くなってきたんじゃないか?」
 リュークが歪んだ口をさらに歪めて笑う。樹里は頬を膨らませて抗議した。
「もーっ、リュークはそればっかりなんだから。他人事じゃないんだよ!」
「いや、他人事だけど……」
「リューク、薄情すぎ!」
 やいのやいのとリュークを責め立てる樹里に、
「――樹里。宿題は?」
 と、そう尋ねてきた月は、もうすっかりいつもの兄の顔だ。
「学校で終わらせちゃった」
 樹里も、今の件には触れずに笑顔で応じる。月が明日と言うからには、そうなのだろう。つまりはさっきの男について、今日はもう頭を悩ませるべきではないし、その必要もないということだ。
「じゃあマリパしようぜ、マリパ」
「えー」
「えーって言うなよ」
「だってリューク弱いんだもん。それに、お兄ちゃんは勉強しなきゃだし、犯罪者裁きもあるし」
「別に、少しなら構わないよ」
「だとよ。コツは掴んだからな、次は勝つぜ」
「ふーん、そう、じゃあこてんぱんにしてあげよっかな」
「よし、見てろ」
「音量は下げろよ。見つかったら僕が母さんに怒られるんだからな」
 きっと世間が騒然としている中で、その騒ぎの中心にいるはずの兄妹ふたりと死神ひとりは、こうしていつもの夜を過ごしていった。


 リンド・L・テイラーの演説は、問題なく終了した。
 問題がないことが、逆に問題だった。全世界同時生中継――と銘打った関東地区かぎりの放送――の間、ずっと床に座り込んでいたLは、片膝を立てた姿勢のままで静かに思案を続けていた。
「L。リンド・L・テイラーには、特に異変は見られません。計画どおり、次の地区に放送を流しますか」
「ああ、そうしてくれ」
 画面越しのワタリの問いかけに、短く答える。おそらくは、無駄になるだろうが。心の中でだけそう付け加えて。
 あの中継は時間をずらして日本全国の各地区で放送するつもりだが、たった一回目だけが完全に機能した罠となりうる。日本の主だった電子掲示板の運営会社、いくつかの電気通信事業者には手を回しているものの、この情報化社会では、キラにLの狙いが漏れるのも間もなくだろうからだ。
 キラは日本の関東にいる。
 新宿の通り魔事件から、Lはほぼそう確信している。だから最初の放送は関東地区を指定した。しかし、あれだけの挑発にも乗ってはこなかった……
 キラは幼稚だ。加えて、負けず嫌い。それはプロファイリングの結果というよりも、Lの長年の経験からくる探偵としての勘であり、そして、自分が同種の人間だからこそわかる直感的な閃きだった。けれど意外に、冷静さも併せ持った人物なのかもしれない。
 思考はさまざまに巡れど、核心には近付けぬまま、名探偵の夜は更けていった。