5

「よかったあ。バス、まだ来てないね」
 少女のはしゃいだ声が、真昼の青空の下に澄んで響く。
 夜神樹里は息を弾ませながら、停留所の屋根の下に入った。ゆったりと歩く夜神月が妹にやや遅れ、彩りに富んだ歩道のタイルに落ちる影を踏む。
「待つの嫌だからゆっくり出たのに……早く着きすぎたな」
「えーっ! あたし、乗り遅れるかもって、すっごく焦ってたのに」
「そんなヘマはしないよ。それに、別に慌てることはないだろ。もし遅れても、次のバスが来るんだから」
「そのぶん遊ぶ時間が短くなっちゃうじゃん!」
「今日遊び足りなかったら、また来ればいいだけの話じゃないか」
「でもっ……お兄ちゃんは、受験生だし……」
 途端に萎れる彼女に、夜神月は素っ気なく言った。
「大学に入ってからだって遊びには行けるよ。もうあと半年もない」
「ほんとに? 大学生になってからでも、また一緒に遊んでくれる?」
 夜神樹里はぱっと顔をほころばせ、兄を見上げる。
「僕が今まで樹里に嘘をついたことがあったか?」
「うーん、どうだったかなあ」
「……おい、樹里
「えへへー、冗談だって」
 仲睦まじいやりとりを交わす夜神兄妹。
 歩道橋の階段の陰から、レイ=ペンバーは彼らをじっと見つめていた。FBI捜査官である彼は、現在、日本の警察関係者の周辺を極秘に捜査している。全世界で起きている凶悪犯連続殺人――俗に言うキラ事件の犯人は、その中にいる可能性が高いというのだ。
 しかし今のところ、レイが調査を担当している夜神一家に不審な点は見られない。
 レイは懐から手帳を取り出し、書きつける。警察庁刑事局長の長男、夜神月。平日は学校と予備校で勉強漬け、たまの休みには妹と外出。至って普通で、健全な高校生……
「約束だからね、お兄ちゃん!」
「はいはい」
 楽しげに笑う夜神樹里はごく自然な動作で、兄の左腕に己の腕を絡ませた。夜神月はにべもなくあしらっているようでいて、当たり前にそれを受け入れ、されるままに任せている……
 普通ではないし、不健全な高校生だな。
 腕を組んでいる二人の姿に、レイは心の中で前言を取り消した。
 まあ、兄妹仲が多少行き過ぎているのはともかくとして、夜神局長の息子にはキラだと疑う余地はない。娘についても同様だ。
 手帳にペンを走らせていると、バスがやって来た。停車したバスに乗り込む夜神兄妹を追い、レイもまた物陰を出てバスへと駆け出した。


「さすが全国模試一位、ってところだな。応用力があるじゃないか」
「……今さら何言ってるの? リューク」
 ぼんやりと窓の外を眺めていた樹里は、リュークの呟きにふと意識を引き戻された。
 音にして返事をしたのは、周囲に満ちるざわめきが、樹里の声をかき消してくれる程度には大きかったからだ。バスの乗客は手指で数えるに足るにもかかわらず――何しろ、彼らはつい今しがたまで恐ろしい凶悪犯罪の当事者であり、挙句その犯人がすぐそこで事故死したところなのだ。
「だってお兄ちゃんなんだよ」
「いや、意味がわからない……」
 まったくしょうがない死神だ。
 乗降口のステップで、兄はまだあの男と話し込んでいるようだった。年の暮れ、空調の効いた座席は快適だが、額に触れている窓ガラスはしっかりと外気の温度を伝えてくる。その感触は樹里に不吉な冷たさを連想させる。
 樹里は窓際から顔を離して座席シートにぽすんと身体を沈め、死神を仰いだ。
「ね、あの手帳見た? FBIだって。あたし、初めて本物見ちゃった。すごいねーっ」
 でも、名前は何て書いてあるのかわかんなかったな。だって筆記体って読みにくいんだもん。もちろんお兄ちゃんなら、ばっちりなんだろうけどね……樹里のとりとめのないおしゃべりに、リュークは何ひとつ応えない。今にもこぼれおちてしまいそうなぎょろりとした大きな目玉が、ただ樹里に向けられている。
「今日は落ち着いてるんだな」
「うん? 何が?」
「おまえだ、ジュリ。もっと震え上がってるのかと思ったんだが」
「ああ、そのこと……」
 途端に興醒めした樹里は口を噤んで、窓の向こうへと再び視線を戻した。さっきまでバスの中で拳銃を振り回していた男が、アスファルトにできた血溜まりの中に倒れ伏しているのが見える。
 あのとき――あたしも、あんな感じだったのかな。あんなふうに、惨めに、哀れに、みっともなく、死んでいったのかな。
「――樹里
「お兄ちゃん」
 この名を呼ぶ兄のたった一声で、簸川樹里はいつだって夜神樹里になれる。
 呼び声に振り向きざま、視界の隅、窓ガラスの外、バスの傍らを、FBIの男が駆け去っていく姿がよぎった。彼とはうまく話をつけられたようだ。けれど、座席の背もたれに片手を置き、こちらを覗き込んでくる兄の顔は、少し暗い。
「今日はせっかく約束してたのに、悪かったな。どうしても、早めに片付けておきたかったんだ」
 月が詫びているのは、今日という日を選んでこの作戦を決行したことである。
 もちろん樹里は、作戦の仔細までは知らされずとも、あらかじめすべて承知の上だった。せっかく遊びにいくのにケチがついてしまうのは残念だが、兄が憂慮するのなら、障害は早々に取り除いておくべきだ。
「うん、大丈夫。ちゃんとわかってるから」
「けど……怖かったろ」
「ううん。怖いことなんて、何にもなかったよ。だって、お兄ちゃんがいてくれるもん」
 樹里は笑顔で答える。すると月は小さな吐息を漏らし、ようやく表情をやわらげてくれた。
「スペースランド、どうする? 今日はもう帰るか」
「えーっ、何で? 行こうよー!」
「……言うと思ったよ」
 苦笑する月は、まるでくすぐるように樹里の額にかかる前髪を払う。
「それじゃ、そろそろ行こう。警察が来るまでここにいちゃ、意味がないしね」
「うん!」
 兄に手を引かれ、バスを降りた。そのときに、樹里はこっそりと死神を振り返る。
「ね、だからだよ。リューク」
「ん?」
 さっきの会話の続きだとはすぐに気付かなかったらしく、リュークは咄嗟には応じない。けれどもそれを気に留めることなしに、「それにね」と樹里は言葉を継いだ。
 道路の真ん中で停車しているバスから、汚らしい死体の横をすり抜けて歩道を目指す……そう、死体だ。死んでいる。あのときの樹里みたいに、惨めに、哀れに、みっともなく。
 兄と二人で遊園地だなんて久しぶりだからだろう、心が浮き立ってくる。その昂揚のままに、樹里は笑う。
「――あんなの、死んで当然でしょ?」
「何の話だ?」
「なんでもなーい!」
 月の問いかけに、樹里は飛びつく勢いでその腕に抱きついた。
「おい、危ないだろ。車が来てる……ふざけるなら、向こうに渡ってからだ」
「はーい。ごめんね、お兄ちゃん。早く行こっ」
 樹里は月の片腕を抱えるようにして駆け出し、二人は足早に道路を渡りきった。
 ところが、リュークはそこからいつまでも動かないでいる。死神のルールだとか何だとかで勝手についてくるから、いつもなら放っておくしそうしたって構わないとも思っているけれど、このときばかりは樹里は何となく歩調を緩めた。
「リューク、どうしたの?」
「……いいや」
 首を振るリューク。その短い一言からでもはっきりと感じ取れるほど、声音には深い愉楽が滲んでいる。元々の顔かたちのためだけでなく、どうやら本当に笑っているようだ。
「おまえたち二人とも、立派な死神だ」
 言って、リュークはようやくのそりと翼を広げると、ひとっとびにこちらへやって来る。
「……死神と一緒にされたくないね」
「そうだよ。失礼だなあ」
 すぐに月がすげなく切り捨て、樹里も頬を膨らませて抗議したが、
「俺よりもよっぽど死神らしいくせに、よく言うぜ」
 と、死神は変わらず不気味に笑い続けていた。




「夜神局長! 大変です、今、さくらTVで――」
「またか……今度は何だ?」
 捜査本部に一報がもたらされたとき、夜神総一郎はうんざりとした反応を示した。さくらTVが度重なる注意を無視してまでもキラ寄りの報道を行う局だということが、警察内ではすでに周知の事実だったからである。法を軽視しているとしか思えない過激な意見を発信し、捏造まみれの情報をあたかも真実のように喧伝しているのが常で、問題点を挙げればキリがない。
「こ、今度は違うんです。とにかく、テレビを見てください!」
 泡を食う部下に急かされ、夜神はテレビのスイッチを入れた。キラ事件は報道と密接な関わりを持つため、捜査本部には大型テレビが設置されている。さくらTVにチャンネルを合わせると、画面に白い便箋が映し出された。
 そこに綴られた歪んだ文字は、こう告げている。
 キラからは逃げられない。
『……この一文が、キラによる声明です。しかし、当局に送られてきたのはそれだけではありません。三通それぞれにはあるものが同封されていました。ご覧ください、アメリカ連邦捜査局、いわゆるFBIの身分証です!』
 興奮を隠しきれないアナウンサーの声。モザイクをかけて映されている三枚の身分証。
「キラの声明文だって!?」
「FBI捜査官が日本に? 我々は何も聞いてないぞ!」
 各方面に問い合わせた結果、どうやらガセではないらしいとわかって、捜査本部はにわかに騒然となった。
 ……同時刻、ワタリからの連絡によって、Lも騒ぎを知るところとなった。
 間もなくFBI長官と連絡がついたとき、Lは真っ先にこう問うた。
「長官、あの身分証は本物ですか? ――いえ、彼らは生きていますか?」
「ああ、日本に入った捜査官は全員無事だ」
 思わぬ返答に、Lは一瞬言葉を詰まらせる。
 てっきり、身分証の持ち主は見せしめに殺されたのかと思っていた。いや、殺したのであれば、身分証を送りつける必要はない。彼らの死は何よりの証拠になるのだから。ということは、あの身分証は「私は彼らをいつでも殺せるぞ」という手の込んだ脅しだというわけか。
 なぜそんな真似を? まさか本当に、犯罪者以外は殺さないとでも……
「三人の捜査官はキラと接触しているはずです。身分証を紛失したときの状況は?」
「……それが、いつ失くしたのか、三人ともあの番組を知るまではまるで気付かなかったと言うんだ」
「気付かなかった?」
 極秘の潜入捜査の最中だ、身分証を使う機会はまずなかったと言っていいだろう。しかし、キラが身分証を手に入れてからさくらTVに郵送するまで、そしてさくらTVが報道するまで、どれだけの猶予があったことか。その間、三人もの捜査官が紛失に気付かなかった、そんなことがありえるのか。
 起きてしまったことは、受け入れるしかなかった。長官に、後ほど彼らの調書を送ってくれるよう約束を取りつける。
「L、申し訳ないが、FBIは日本での捜査をいったん打ち切る」
 こうなっては、それも仕方がない。しかし、長官は彼にしては曖昧な言い回しをした。
「再度の要請があれば応じていただけるということでしょうか」
「さて。後のことは国と、私の後任が決めることだからな」
 フローリング上の小型スピーカーから、自嘲混じりの乾いた声が続ける。
「今回は私の独断で捜査官を日本に送ったんだ。私はこれから責任を問われるだろう……それに私の顔は公表されていてね、私も命は惜しい。身分証を公開された彼らもそうでない捜査官も、同じ気分だろうな」
 通信が途切れ、後にはパソコンの画面だけが点る、暗く音もない部屋の中にLだけが取り残された。


 相変わらず、さくらTVは的外れな情報ばかりを流し続けている。頬杖をついてテレビを眺めながら、樹里は隣に座る月に問いかけた。
「三人かあ。それって、多いのかな? 少ないのかな?」
「さあね。けど、効果を上げるには十分だろう。LはしばらくFBIという手駒を失くし、警察はLへの不信感を募らせる」
 月は手にしていたデスノートを机に置いた。開かれたページには、ぎっしりと兄の流麗な文字が連なっている。



―――― 心臓麻痺
2004.1.3 PM4時
――区――店で店員を脅して金品を奪って逃げようとするが
駆けつけたFBI捜査官により取り押さえられ、48時間後に死亡。

―――― 心臓麻痺
2004.1.3 PM4時
――区――店で強盗犯と揉み合っているFBI捜査官が落とした身分証を
誰にも気付かれないように拾い、考えうるかぎりの痕跡を残さない方法で
「キラからは逃げられない」という手紙とともにさくらTVに郵送した後、死亡。

 この記述が、人物を変え日時を変え場所を変え、何十……ひょっとすると何百と続く。
 総当たりである。
 FBI捜査官は関東のどこかに潜入している。「キラからは逃げられない」とは、犯罪者なら誰しもそう考えたことはあるはず。だから、こんな記述も数を打てば当たる。これが達成されなければ、いつものようにどこぞで悪人が心臓麻痺で死ぬだけだ。
 ただ……
「さっき映ったの、あのレイ何とかさんの身分証だったよね?」
「ああ、同じ手に二度も引っかかってくれるなんてな」
 珍しく行儀の悪いことに、月は小さく舌打ちをする。
 そう、この目は粗くとも手数の多い網にかかった三人のうち、一人はバスの中で会ったレイ=ペンバーだったのだ。
 樹里はノートのページを指先でつついた。
「もしかしたら、それだけ正義感が強いっていう、いい人なのかも」
 彼の名前が直接デスノートに書かれているわけではない。しかし状況はノートの力に操られているようなもの。果たして、当人の性格や能力は事態にどれほど関係するのだろうか。
「尾行されてたときは怖かったけど……バスジャックのときだって、あたしたちの命を優先して正体をばらしてくれたんだもんね」
樹里……」
 月は椅子を回転させ、樹里を正面から見据えた。
 思わず樹里もそれに倣って、月と膝を突き合わせる。「いいか?」と硬い口調で切り出した月が、どうしてだか今までにないくらいに怖い顔をしていたからだ。
「ああいう、うだつが上がりそうにない男は駄目だ。職業も結婚には向かない」
「うん、……えーっと、何のこと?」


「レイ、そんなに落ち込まないで」
 ホテルの一室で、南空ナオミは、ソファーに深く腰かけうなだれている婚約者の肩に手を置いた。
「すまない。今さら、何を言ったってどうにもならないことはわかってるんだ。でも、まさかこんな……素人紛いのミスを犯すなんて。僕のせいで、キラ事件の捜査は打ち切りだ」
「あなたの他にも、身分証を盗まれた人はいたんでしょう?」
 言うと、レイは少し目を上げ、しかしすぐに視線を逸らしてしまう。
「……この先、きっと君にも迷惑をかける」
「そんなこと。気にしなくてもいいのよ」
 ナオミは優しく微笑み、婚約者を慰めながら、心の中では別のことを考えていた。
 三人のFBI捜査官から、身分証を盗んでTV局に送りつけたキラ。なぜそんなことをしなければならなかったのか? 当然、FBIに自分の周囲を嗅ぎ回られるのを止めさせたかったからだ。
 では、どうやってキラはFBIが日本に入っていることを知ったのか。
 ナオミの脳裏には、すでに明確な解答が描かれている。先週のバスジャック事件。キラ事件を捜査中のレイが遭遇し、乗客の誰かに身分証を見せる羽目になったという――あの機会をおいて、他に考えられない。
 もしそれを事実だと仮定すれば、キラは人の死だけでなく、死の前の行動すらをも操れるということになる。さらに言うなら、心臓麻痺以外の方法でも人を殺せる……
 南空ナオミは、考える。
 ナオミの婚約者を打ちのめした、あの日本のテレビ番組。「キラからは逃げられない」というメッセージ。顔と氏名の載ったFBI捜査官の身分証。キラはいつでも三人を、レイ=ペンバーを殺すことができる。
 キラは犯罪者しか殺さない?
 いったい誰がそう保証してくれると言うのだろう。日本警察が? FBIが? ICPO? それとも……キラ本人が?
 大量殺戮犯である異常者の、善悪の基準とは何だ。そんなもの、これっぽっちも当てにならない。彼、もしくは彼女の気まぐれ次第で、そんな天秤はどちらにも偏りうる。
 キラは今のところ、レイをすぐに殺すつもりはないらしい……言えるのは、せいぜいこのくらいだ。
 レイは今回の騒動に気を取られ、バスジャックのことは頭から消え失せてしまっている。そもそも、その以前からだって事件にはほとんど関心を払っておらず、怪しんでいる素振りなど少しもなかった。キラ事件とバスジャックが結びつくとは、露ほども思っていない。自らバスジャックの件を口に上らせることはないだろう。
 だから、ナオミさえ黙していれば、誰も気が付かないはずだ。
「ねえ、レイ。キラと接触したかもしれないのに、あなたは生きて今ここにいる」
 彼からバスジャックの仔細を聞き出せばおそらくキラの正体は掴めるだろうということも、レイ=ペンバーがキラにとっては必ず殺さなくてはならない、絶対的な危険因子だということも、何も……
「私には、それだけで十分なの。ほんとうよ」
 ナオミはいとしい婚約者にそっと囁いて、瞼を閉じた。
 同時に自身の正義にも信念にも蓋をして、今まさに、世界中で最もキラに近付いていた彼女は、自らその可能性への扉をも閉ざしたのだった。