6

 ドアが押し開けられた拍子に、小さな紙片がひらりと宙を舞う。それは月の足に纏わりつき、やがて床に落ちていった。
 自室に入るなり学生鞄をぞんざいにベッドに投げ出した月は、仰向けに寝転がると、ぼんやりと天井を眺めた。しばらくして、はたと思い立ったように立ち上がり、制服から着替えて部屋を出ていく。その際、床に落ちたままにしていた紙片を拾って、ドアの隙間に挟んでおくことは忘れない。
樹里。僕は今から本屋に行ってくるけど」
「あっ、あたしも行くー!」
 月が声をかければ、ドアの向こうからはすぐに元気な答えが返ってくる。しかし樹里は部屋の中で何やらどたばたしているばかりで、一向に姿を見せる気配がない。
「おい、樹里
「ごめん、お兄ちゃん、もうちょっと待ってて。いま着替えてるから」
「……本屋だぞ。どこの高級店に行く支度をしてるんだ?」
「もーっ、ごめんってば。そんな意地悪言わなくてもいいじゃん!」
 膨れ面の樹里が慌しく出てきた。
 服ばかりに気を取られてか髪が少し乱れているのを、月が手で撫でつけて整えてやる。樹里はすぐに機嫌を直したようで、にっこりした。
「ちょうどよかった。今日、旱樹の新曲の発売日なんだよね」
「おまえ、ミーハーだよな……」
「そんなことないもん。普通だよ、ふつう」
 ――縦に二つ横に六つ並べられた計十二のモニターが、夜神兄妹がじゃれ合いながらともに家を出るまでを、それぞれさまざまな角度から映し出していた。一人がけのソファーでじっと膝を抱えてそれを凝視していたLが、ポツリと言う。
「仲のいいご兄妹ですね」
「えっ? ……あ、ええ、まあ、私が家を空ける時間が多い分、娘の面倒は息子がよく見てくれていたもので」
 隣のソファーにかけていた夜神総一郎は、自宅の監視映像を前にしている異様な現状にとても落ち着いてはいられず、しきりにそわそわと身体を揺らし続けていた。自然と饒舌にもなる。
「ドアにあんな仕掛けをしているとは、そこまでして見られたくないものが部屋にあるということか……」
「いえ、十七歳という年齢を考慮すれば怪しむほどではありません。私も意味もなくやったことがあります」
 夜神は何と応じてよいものかわからず、言葉を失う。
 いや、もしや、こちらの気を紛らわすための彼なりの冗談なのだろうか。一瞬そう考えたが、この短い付き合いでのLの言動はそれを否定するものばかりだったので、そうか、とただ短く頷くに留めた。


樹里、少しリュークを借りていいか?」
「うん、いいよ」
 月が小声で本題を切り出せば、樹里は間髪をいれず頷いた。その後でちょっと思案するように視線をさ迷わせ、それから月と目を合わせると、笑顔になってこう続ける。
「あたしCDコーナーにいるから、終わったら声かけてね」
「ああ」
 店の奥へ向かう樹里を見送っている間、その場に残ったリュークは「おっ、今日はもう喋ってもいいのか」などと気楽な調子で独りごちている。FBIの件があってから、リュークと話すときには細心の注意を払い、特に家の中では月の指示を待ってそうするよう、樹里には言ってある。樹里はしっかり言いつけを守っているようだった。今回はそれが功を奏した。
「見えてるのに無視されるって結構しんどいもんだな……で、どうしたんだ、ライト。俺に話があるなら、出かける前にすればよかったじゃないか」
「家に監視カメラか盗聴器、いや、両方か――その二つが仕掛けられている可能性がある」
「えっ!?」
 大げさに驚く死神を置き、月は店内を歩き出した。いつまでも入り口に立っているわけにはいかない。
 月は目当ての本を探しているふりをしながら、部屋の扉に仕掛けてあった紙切れとシャープペンシルの芯のこと、そしてドアノブの仕組みを説明してやる。
「紙を元の位置に戻してあったことから、家族以外の誰かが侵入したことは間違いない。カメラや盗聴器を仕掛けられた可能性は高いだろう。そうなると当然、僕の部屋だけじゃない。それじゃ監視の意味がないからね」
ジュリの部屋にも……ってことか」
 それどころではあるまい。
 月は周囲には気取られない程度、ほんの僅か、眉を顰める。明らかな違法捜査に踏み切っておいて、中途半端な手立てを用いるわけがなかった。設置されているとすれば徹底的に、家中のありとあらゆる場所のはずだ。それこそ、浴室やトイレにも……年頃の樹里がいるのに、こんなものに父が噛んでいるとは思いたくなかった。
 Lのやつ。名前と顔さえわかれば、すぐにでもデスノートに書き込んでやるのに。
「ところで、リュークにリンゴをやると、カメラにはどう映るんだ? 僕や樹里の目には、もちろんリュークがただリンゴを食べているように見えるけど」
「ん? 他の人間がカメラを通して見れば、そりゃ――」
 見る見るうちに、死神は青白い顔をさらに青ざめさせた。
「リンゴが浮いてるように映……る、かも……」
「なら、リンゴは当分お預けだな。死神は死なないから餓死もしないんだよな?」
 歯切れの悪いリュークを一刀両断する。リュークは下手な踊りを踊るみたいに手をわたわたと動かした。
「ちょ、ま、待ってくれ、ライト。そうだ、家の中が無理なら、外で食べればいい」
「駄目だ。ついこの前、尾行されたばかりじゃないか」
「それはもう追い払ったし、こっちを見ている人間がいたらまた教えてやればいいんだろ。なっ」
 ……この口振りからすると、僕らは今は誰にも尾けられていないわけか。
 禁断症状がどうのというリュークのくだらない言い分を聞き流しつつ、月はこっそり考える。先日のさくらTVの一件で、さすがに尾行という手段は諦めてくれたか。あるいは、家の外で怪しい動きをしている者にリュークが気付いていないだけ、ということもありえるが……まあFBIの尾行を察知したくらいだ、そこまでの心配はしなくてもいいだろう。
 Lが監視を始めたのはFBIの調査対象だった者――関東に住む警察関係者とその身内といったところか。ひょっとすると、身分証を盗まれた捜査官が担当していた者のみに絞っているかもしれない。レイ=ペンバーめ、厄介な種を蒔いてくれたものだ。
 とにかく、家の中での行動で潔白を証明できれば、月と樹里は容疑から完全に外れる。
 死神を丸め込んで協力の約束を取りつけた後で、月は何冊かの雑誌を購入した。
「おまえ、妹と一緒に来ておいて、よくそんな本が買えるな……」
「これの使い道は、さっき説明しただろ。それに、別に樹里の前で買ったわけじゃない」
「いいけど……カメラと盗聴器のこと、ジュリには教えなくていいのか?」
「ああ、監視されていると知って普段どおりに振る舞うなんてこと、樹里にはとてもできないだろうからな。リュークも、余計なことは言うなよ。樹里が気付かないうちにすべて終わらせてみせるさ」
 ただ、それまでの期間は、樹里にはリュークとの会話もキラとしての裁きも許可できないことになる。必然、何かしら勘づきはするだろう。
 しかし、だからと言って、樹里が月に不満を持つことも月の言いつけに背くこともありえなかった。この程度で妹の兄に対する信頼は揺るぎやしない。
 CDコーナーへと足を向けると、樹里は試聴機の前にいた。こちらから声をかけるよりも先に振り向いて、ヘッドフォンを外して駆け寄ってくる。
「お兄ちゃん。用事は終わった?」
「ああ。待たせたな」
「ね、見て見て。CD買ったら、ポスターついてきたんだよ~」
「……ほら、やっぱりミーハーじゃないか」
「むーっ」
 笑ったり口を尖らしたりとくるくる表情を変える無邪気な樹里を見て、月は改めて決心した。
 たとえどんな些細なものであったとしても、樹里を不安にさせるようなことは絶対にあってはならない。何も知らせず気付かせず、一刻も早く問題を排除するべきだ。
「そうだ樹里、新しい音楽プレーヤーが欲しいって言ってなかったか? 買ってやるよ」
「言ったけど……え、何で? 高いよ? それに買ってもらわなくても、お年玉もらったばっかりだし」
「まだ残ってるのか? どうせ友達との初詣や何かであっという間に散財しただろ」
「し、したけどぉ。買ってもらうなんて悪いよ。ねえ、急にどうしたの?」
 ここで素直に頷いたりはしないのが樹里の美徳だ。いつも月に纏わりついてくるクラスの女子たちなら、ここぞとばかりに高価なものをねだって買わせるだろうに……月は口元を緩めた。
「僕からのお年玉だとでも思っておけよ。樹里にはいつも手伝ってもらって、助かってる」
「そんなの、いいのに。お兄ちゃんのお手伝いだって、あたしがしたくてやってるんだから」
 加えて、これだ……深い感動を味わいながら、月は表面上は素知らぬ顔で続けた。
「……まあ、それと、レンタル代かな。何日か、リュークを借りたい」
「うん、いいよ、リュークくらい。タダで貸すよ?」
「なあ、おまえら、ちょっとは俺を死神扱いしろよな」


 数時間ほどして息子と娘が帰宅すると、それまでは無人の映像を眺めているだけだったのが、父親としては苦悶するしかない時間が再び始まってしまった。
「ま、真面目な息子が、あんな雑誌を」
「十七歳なら普通です」
「しかし、い……『妹系グラドル特集』とは、いくらなんでも……」
「そこは個人の嗜好ですから、私には何とも言えません」
 淡々と言い放ち、紅茶をすするL。
 次に帰ったとき、また家族会議を開くべきだろうか。いや、まずは息子と一対一で話し合わなくては……勤務中でありながら、夜神は私事に思い悩んだ。
 夜になってから、夜神の苦悩はさらに増した。世間でよく言われるような「お父さんの後にお風呂入りたくない」や「お父さんのと一緒に洗濯しないで」などとという台詞を一度として口にしたことのない(妻から聞いたのだから間違いない)、まっすぐ素直に育ってくれた大事な愛娘のプライバシーを侵しているのである。
「竜崎、もういいだろう。あんな格好で何ができると言うんだ」
「……わかりました。娘さんが浴室に怪しいものを持ち込んだ様子もないですし、そこは譲歩しましょう」
「う、うむ、すまん」
「監視を中断するわけにはいかないので、もっと引いた位置のカメラに切り替えますね」
「…………」


 樹里は、夜中に目を覚ました。
 はっと飛び起きる。全身に汗をかいて、心臓が早鐘を打っている。腹部を押さえる。血は流れていないし痛みだってない。ましてや、刃物が突き立ってなんていやしない。
 近頃一緒に生活している死神は、まだ兄のところから戻ってきていないようだった。月は、今日の用事が済んだら返すと言っていたけれど……あの気まぐれな死神のことだ、どうせ同じ家の中なのだからと、いちいち帰ってくるのが面倒になったのかもしれない。「うわ、何だ、ジュリ。急に起きるから、びっくりしたぞ」なんていう呑気な言葉は、今夜は聞けないみたいだ。
 樹里は起き出し、しんと冷えわたった部屋の電灯のスイッチを入れた。鏡で自分の顔を確かめてみる。
 女の子の顔が――違う、あたしの顔が、映っている。
 あたしは、樹里だ。夜神樹里。夜神月の、お兄ちゃんの妹で……お兄ちゃん。おにいちゃん。いてもたってもいられず、樹里は部屋を飛び出していた。
 一回きり、返事がなかったら諦めよう。そう心に決めて、「お兄ちゃん」、か細い声で兄の部屋のドアをノックをする。すると奥から微かな物音がして、驚いたことに、そう経たないうちに兄は顔を見せてくれた。
樹里、どうした? こんな時間に。何かあったのか?」
「ううん……」
 樹里は俯きがちに首を振る。涙が滲んでいるのがばれないだろうか。
「何でもないんだけど、あのね、お兄ちゃん。今日、お兄ちゃんと一緒に寝たらだめ?」
 おそるおそる兄を見上げ、努めて明るく言う。暗い廊下から、部屋の明かりを背にした兄の表情ははっきりとは見えない。しばしの沈黙が流れ、それから、月はほとほと呆れ返ったというような溜息をついた。
「……おまえ、小学校はとっくに卒業したと思ってたんだけどな。僕の勘違いか?」
「だ、だって」
 ――月は内心焦っていた。
 樹里が幼い頃には同じ部屋で過ごしていたし、部屋が分かれてからも、怖い夢を見たとか何とか言って(どうせ今夜もそんな理由だろう)甘えてきたことは何度もある。いずれも樹里が中学に上がるまでの話だが。
 月は、友人たちにしばしばからかわれるように、自分がシスコンだとは一ミリとて思っていない。そもそも家族を大事にして何が悪いと、そう断じてきた――そんな月にも、これはわかる。「アウト」である。
 昼間、決意を新たにしたばかりだ。妹のいじらしいお願いを聞いてやるにやぶさかではない。しかし、今ばかりは監視カメラを通してLが見ているのだ。添い寝の是非はともかく、妹をだだかわいがりするさまを他人――特に憎きL――に馬鹿にされるのは月の本意ではなかった。妹の心を傷付けないように自室へ帰す言い方はないものか。
 苦悩する月を、睫毛の縁に涙を残した樹里がじっと見上げる。
「どうしてもだめ?」
「しょうがないな」
 月は折れた。
「あ、ありがとう、お兄ちゃんっ」
 樹里は顔をほころばせた。最初は「どうするんだ、ライト?」と葛藤する月を面白がって笑っていたリュークが、「マジでか……」と今は若干引いた様子でいる。カメラの向こうにいる連中の反応が見えた気がする。
「わ、あったかーい」
「当たり前だろ、さっきまで寝てたんだから……樹里、もっと詰めろよ」
「はーい」
 月はもはや観念するしかなかった。それに、妹はどうやら無事に元気を取り戻したらしい。ならば誰に見られていようと、どう揶揄されていようと、そんな事実は些細なことではないか。
 樹里に続いてベッドに入る。身体を横たえ右腕を伸ばすと、樹里は擦り寄るようにその上に頭を置いた。
「えへへ。こうするの、久しぶりだねっ」
「…………そうだな」
 妹の笑顔にはほっとしたものの、月がいつも友人たちにからかわれているような台詞がLの口から漏れているのかと思うと、怒りが込み上げてくる。くそっ! Lめ……


 監視カメラを通してそれら一連の出来事すべてを見ていたのは、もちろん父の夜神総一郎とLであった。
「ま、まさか、子供たちが」
「十七歳なら普通――」
 両膝を立てて座ったまま、Lは左手でソーサーを、右手でティーカップの取っ手を摘まんで持ち上げた。そう言いさして紅茶を一口飲んだ後、
「ではありませんね」
 ずばり告げる。
「他所のご家庭に口出ししたくはないのですが、いささか度が過ぎているのではないでしょうか」
「はい……」
 今年で十八になる息子と十五になる娘が仲良く一緒に寝ている姿が映ったモニターの前で、夜神はいつまでも力なくうなだれていた。