7

 樹里はリビングに入ってきた月を笑顔で出迎えた。
「お兄ちゃんっ、合格おめでとー!」
「ああ、ありがとう」
 月の大学入試の合格発表から少し経って、夜神家で改めてのお祝いをすることになった。と言うのも、父が仕事の都合でなかなか帰宅できない日が続いていたからだ。
「今日のごはんね、あたしも作るの手伝ったんだよ」
「……ふうん。ちゃんと食べられるものなんだろうな」
「どういう意味?」
 月は樹里の責める視線を軽く受け流すと、椅子にかけて片肘をつきつつ、しれっと言った。
「そのままの意味だけど……何だ、樹里。英語だけじゃなくて、国語の成績まで悪くなったのか?」
「ひっど! そんな意地悪ばっかり言う人には、食べさせてあげないからねっ」
「ほらほら、樹里、あんまり騒がないの」
 奥のキッチンから現れた母が、二人の間に割って入るように、運んできた大皿をテーブルに並べる。口では咎めつつもにこにこしているのは、無事に月の進路が決まったという安堵があるからだろう。
「月のことだから、きっと大丈夫だろうとは思っていたけどね。お母さん、これで心配事がひとつ減ったわ。次は樹里の番ね」
「お母さん、今そんなこと言わないでよ~。せっかくのお祝いなのに、気分下がっちゃうじゃん」
「あら。ちゃんと勉強していれば、何も問題ないはずでしょう?」
「人にはね、向き不向きっていうのがあるんだって」
「もう、この子ったら、口ばっかり達者になって……」
 母は溜息を漏らし、それからふと、兄妹の向かいに座る父に顔を向けた。すでに晩酌のグラスを手にしている父は、何やら思い詰めた、難しい顔でグラスの水面に目を落としている。
「あなた、具合でも悪いんですか?」
「いや、なに……ただの考えごとだ。事件のことで、少しな」
「まあ。今日くらい、仕事のことは忘れてくださいよ」
 母の声音は、呆れと心配が半々といったところだ。樹里も月も、それぞれ母に同調した。
「そうだよ。それに、お父さんは働きすぎ! たまには休んだって罰は当たらないよ」
「ああ、父さんの仕事への姿勢は立派だし、息子として誇らしく思う。でも、それで身体を壊しちゃ元も子もないじゃないか」
「……そうだな、すまなかった」
 張り詰めていた表情をようやく緩める。けれどもここで「おまえたちの言うとおり休暇をとろう」などとは決して口にしないのが、父らしいと言えば父らしかった。
「よく言うよな。親父が休めないのはどう考えてもキラのせいだろ」
 リュークが背後で笑っている。
 つい先日まで、樹里は裁きの手を休めており、さらにはリュークとの会話まで完全に途絶していた。樹里は毎日兄の許しがあって初めてそれらの行為を行うが、長らくその許可が出なかったのである。
 父の様子、リュークの今の言葉……もしかして、月と警察との間で攻防があったのだろうか。それすらもただの推測で、許可が下りた今も、樹里は何ひとつとして兄から告げられてはいないけれども。
 真実を知りたいとは微塵も思わない。樹里が知らずともよいと、月がそう判断し、望んだことなのだ。こうして考えを巡らすことさえ罪悪だ。
 それにしても――
 だから樹里は自ら思考を逸らし、考える。みんながキラを認めてくれる世の中に、早くなってくれないかなあ。このまま働きすぎてお父さんが倒れでもしちゃったら、嫌だもんね。ううん、「なってくれる」じゃなくて、あたしたちがそういう世の中にしなくちゃ、駄目なんだ。
 そう密かに決意を新たにした樹里は、食事を終えて自室に戻る寸前、廊下で父に呼び止められた。
樹里
 父は眉間に皺を寄せ、夕食の前に見せていたような厳しい面持ちをしていた。兄はとうに二階へ上がっており、ドアの向こうからはつけっぱなしのテレビの音と、母が洗いものをする水音が聞こえてくる。どうしてか、父はなかなか用件を切り出さない。
「なに? お父さん」
「うむ……その……」
 樹里が促すと、何度も躊躇った末にこう尋ねてきた。
「最近、家で変わったことはなかったか?」
 変わったこと?
 樹里は目を瞬かせた。いたく深刻な父に応えるため、あれやこれやと懸命に頭を悩ませてみても、一向に思い浮かばない。
「んー、特にないかなあ。うん、いつもどおりだよ」
「そっ、そうか……いつも……なのか……」
 父は元からあまりよくはなかった顔色をさらに悪くして、ふらふらとした足取りでリビングへ戻っていく。それが何だか気がかりで、父の背を見送った樹里はドアが閉じられた後にもしばらくそこから動かなかった。
「お父さん、どうしたんだろ。やっぱり、疲れてるのかなあ」
「あー……父親って大変だな……」
 樹里の小さな呟きに、リュークは訳知り顔で頷いていた。




 晴れ晴れとした青空が広がり、吹く風は気持ちよく、桜の花は満開に咲き誇っている。
 樹里は月の入学式を観覧するために、東応大学へやって来ていた。ちょうどよく、中学校が休みの日だったのだ。こんなよき日に月が門出を迎えられたこと、そして自分がそれを見守る機会を得られたことを、樹里は心から嬉しく思う。
「新入生代表、夜神月」
「はい」
 アナウンスの声がかかり、最前列にいた月が立ち上がるのが見えた。
 おっすごいな、頭上からリュークの独り言が降ってくる。「代表の挨拶って、主席合格の子がするんでしょう?」「まあ、そうなの、すごいわね」、そんな声が樹里の周囲の席からも上がった。
 そう、そのとおり、兄はすごいのである。
 人前でなかったら、兄の晴れ姿についてリュークと一緒に心ゆくまで語り合えたのに、残念で仕方がない。……残念なことは他にもあった。会場ではカメラの持ち込みを含めて一切の撮影が禁じられている。動画はもちろん、写真撮影まで。やはり高名な大学ともなると、警備が厳しくなるのだろう。
「同じく新入生代表、流河旱樹」
 えっ? 流河旱樹?
 続いて流れたアナウンスに、樹里はびっくりした。会場も少しざわめいている。
「へえ、ジュリの好きなアイドルと同じ名前じゃないか?」
「うん。よくある名字でもないのに、珍しいね」
 ざわめきに紛れるよう、小声でリュークに応じる。名前も驚きだが、月は全教科満点の成績だったと聞く。新入生代表は、主席合格者。つまり同姓同名の彼も、満点で試験を合格したということになる。
 話しているうちに、月ともう一人が演壇に上がった。
 月がきっちりとスーツを着こなして見目も姿勢も麗しいのとは対照的に、もう一人はぼさぼさの髪で、白いトレーナーに履き古したジーンズという服装、そして丸まった背。東応大学の新入生のイメージからはかけ離れている。
「……俺、近くで見て来よっと」
「あ、リューク、待っ……」
 虚を衝かれた樹里が止める暇もなく、リュークは黒い翼を大きく広げると、たくさんの座席を飛び越えて行ってしまう。
 まさかこれ以上の大声を出すわけにもいかず、樹里は遠ざかっていく死神を憤然と眺めているよりほかなかった。ずっ……ずるい! あたしだって、お兄ちゃんが代表の挨拶するとこ、目の前で見たいのに!
 月の式辞が始まったので、さておき樹里は兄の立派な姿をカメラの代わりの網膜に焼き付けることに専念した。
 こうして聴いていると、お兄ちゃんって、見た目だけじゃなくて声まで素敵なんだなあ。うっとりしていたら式辞はすぐに終わってしまった。
 その次がもう一人で、彼は式辞用紙を持つ手つきも、読んだ後のお辞儀の仕方も何だか変わっていた。式辞の後、演壇の下で月は彼と何事か言葉を交わしていたようだ。
 そのうち、リュークが広い会場をぐるっと一周して戻ってきた。
「ただいまー」
「……リューク、しばらくリンゴ抜きだから」
「えっ!?」
 入学式は滞りなく終わった。
 俺が悪かった、頼むから考え直してくれ、というリュークの懇願をBGMに会場の外で待っていると、そう時間を置かずに月が現れる。樹里はすぐさま駆け寄った。
「お兄ちゃん、お疲れさま! 式辞、すっごくかっこよかったよ!」
「なんだよ、大げさだな……褒めても何も出ないぞ、樹里
「えー、出ないの? ちぇー」
「こいつ」
 今日は二人だけで来たから、交通手段は電車だ。ふざけて笑い合いながら駅への道を歩き出そうとしたところ、「夜神くん」と声がかかった。
「おいライト、あいつが呼んでるぜ」
 笑い混じりに、どこか面白がっている口調で告げるリューク。
 兄と一緒にそちらに目をやれば、さっきの「同姓同名さん」が、背を丸めジーンズのポケットに手を突っ込んだ格好で立っていた。近くで見て初めてわかったことだが、何と東大の入学式に、彼は素足にスニーカーの踵を潰して履いている。
「今日はどうも」
「いえ、こちらこそ」
 などという兄との形式的な会話が済むと、「同姓同名さん」はじいっと食い入る目つきで樹里を凝視してきた。
 心なしか姿勢も前のめりだ。ひょっとして、樹里から挨拶するのを待っているのだろうか。兄の新しい学友に失礼があってはならないと、樹里は慌てて口を開く。
「あ、あの、夜神樹里です。はじめまして」
「はじめまして、流河旱樹です」
 自然な仕草で右手を差し出され、彼と握手を交わす。月とは全然違う、がさがさした手のひらだった。
「夜神くんの妹さんですか?」
「はい」
「そうですか。かわいらしい妹さんですね、夜神くんが羨ましい」
 真顔というか無表情で抑揚なく言ってのけるので、どうにも言葉を返しづらい。ありがとうございます、と樹里はほとんど口の中で呟くように礼を言った。
「では、夜神くん。今度はキャンパスで」
 淡々とした挨拶だけを残し、流河は横づけされていたリムジン(!)に乗り込んで、行ってしまった。
「変わった人だったね……」
 樹里はリムジンの行く先を目で追いながら、呆然と立ち尽くしていた。「そうだな」と短く気のない返事をした月がさっさと歩き出したのを、ハッとなって追う。
 その出来事を皮切りに、月はあまり喋らなくなった。
 何か考え込んでいるようでも、内心で苛立たしさを募らせているようでもある。黙っている月の代わりにリュークが「なあ、頼む、リンゴを……」としきりに訴えていたが、兄の様子がおかしいのだ、それどころではない。電車に揺られている間もほとんど口を利かないままに家路を辿り、帰宅する。
 家に帰ってからも、兄は一言二言樹里に告げただけで、自室に引き上げてしまう。樹里は心配のあまりリュークにお願いした。
「ねえ、リューク。お兄ちゃんの様子、見て来てくれない?」
「俺がか? ジュリ、おまえな、さっきまで散々俺を無視しておいて……」
「リンゴ買ってきてあげる」
「任せてくれ」
 快く引き受けてくれたリュークは、颯爽と二階へ飛んでいった。


 ――リュークは何も、ただリンゴ欲しさに月の部屋へ向かったのではない。
 いや、本当に。
 死神の目には、人間の顔を見るとそいつの名前と寿命が映る。だからもちろん、「流河旱樹」の本名は、壇上に立った彼を見た瞬間からリュークにはわかっている。L=Lawliet、というのがそれだ。
 リュークは歓声を上げそうになるのを堪えなければならなかった。世界の名探偵と同じ名前で、日本のアイドルの名を偽名に使う人間が、キラの片割れである夜神月と同じ大学に入学する……こんな面白いことが、偶然のはずがない。
 式の最中、樹里に断って月のもとへ飛んでいけば、
「誰にも漏らさないと誓っていただけるなら、キラ事件に関する重大なことをお話したい」
「わかった、誰にも言わないよ。何だ?」
「私はLです――」
 やっぱり面白いことになっているじゃないか!
「……もしそれが本当なら、あなたは僕の尊敬する憧れの人です」
 月は一瞬だけ表情に動揺を走らせたものの、平然とLと握手をした。どうも、と応じるLも飄々としたものだ。
 それらを思い返しながら、リュークはもはや笑いを隠すことなく、月の部屋のドアをすり抜ける。
「おいおい、ライト、面白くなってきたじゃないか。あいつが本当にLなら――」
「くそっ、やられた! Lめ、こんな屈辱は生まれて初めてだ!」
 部屋に入るなり月が大声を上げたので、リュークは目を見開いた。元から見開いているので、あまり変わりはないかもしれない。
 月は机に突っ伏して、震える拳を握り締めている。歯軋りの音まで聞こえてきそうなほどの剣幕だ。こんなに取り乱した月を見るのは、リンド・L・テイラーの放送があったとき以来か……
「……なあ、ライト、やられたってどういうことだ?」
 リュークが見聞きしたやりとり以外にも、Lと何かあったのだろうか? それともたったあれだけの会話が、月に不利を強いるものであったのか。リュークが尋ねると、月は起き上がり、回転椅子ごと勢いよく振り返った。
「どうもこうもない、僕の目の前で堂々と樹里の手を握ったことだよ!!」
 ……そんなことだろうとは思った。
 どうやら素直な感想が思わず口をついて出ていたらしく、常ならぬ形相の月が即座に噛み付いてくる。
「そんなことじゃないだろ! ふざけるにもほどがあるぞリューク!」
「いや、あれって、人間がよくやる挨拶なんだろ? ライトともやってたし……いいじゃないか、手くらい減るもんじゃない」
「馬鹿言え! 減るに決まってる。死神はものの道理もわからないのか? リューク、これ以上ふざけたことを言って僕を怒らせないでくれないか」
「はい」
 もういろいろ面倒くさくなって、リュークは大人しく口を閉ざした。
 月はしばらく長々とLへの呪詛を吐き、それでやっと気が済んだのか、当初リュークが期待していたとおり――あの名乗りがキラに対する防御であったのと同時に攻撃でもあり、今後は大学でLとの探り合いが行われるだろうこと――の話をして、リュークを解放した。最後に、「あいつのことは樹里には言うなよ」と付け加えて。
「リューク! お兄ちゃん、どうだった?」
 リビングでは、樹里がひどく不安そうにリュークの帰りを待ちわびていた。リュークは実際に頭を捻りながら少し考え、それからこう答えた。
「いつもどおりだった」