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東応大学、テニスコートの周囲には大勢のギャラリーが集まっていた。今、テニスに興じているのが、先日の入学式で新入生代表を務めた二人――さらに両者ともプロ顔負けの実力を持っているとくれば、注目を集めないはずがない。
親睦会という名目で始まった、実力者同士の白熱した試合。しかし、片や世間を賑わす大量殺人犯の片割れ、片やその正体を追う世界一の探偵。実は互いに腹のうちを探り合っているなどとは、観衆たちの知るよしもないことだった。
(僕と流河が親睦を深めたと了承し合うための「儀式」が、このテニスだ)
(夜神月はこれをきっかけに私がまた一歩踏み込んでくると考えるはず)
(あくまでもキラ事件に触れるための契機、だからテニスの勝敗に大した意味はない)
(テニス自体に意味はない。だが、キラは負けず嫌い……)
凄まじいストロークの応酬、そして密かに繰り広げられる次の手の読み合い。
(だったらテニスでも僕は――)
(ほら、勝ちに……)
ボールがコートを抉るようにバウンドし、相手のラケットをかいくぐってバックフェンスに激突する。一瞬の静寂の後、観客が沸いた。
「ゲームセット! ウォンバイ流河!」
……勝ちにこない。
計らず勝利を獲得したLは微妙な気分に陥った。最後の一球、手を抜かれたのは明らかだった。キラは負けず嫌い……いや、リンド・L・テイラーの件を鑑みれば一概にそうとは……だが、ここであえて負けを選ぶ理由は何だ……
夜神月は、汗で額に張り付いた髪を払いながらこちらに歩み寄ってきた。演技にしてはやや臭い、爽やかな笑みを浮かべて右手を差し出してくる。
「負けたよ、流河。さすが元イギリスのJr.チャンピオンだな」
「いえ、夜神くんもすばらしい腕前でした」
ネット越し、上辺だけのやりとりとともに交わされる握手。ともあれ無事に「儀式」を終えたLは、早速切り出した。
「夜神くん、どうですか、この後お茶でも。実は、夜神くんにお願いがあるんです」
「へえ、奇遇だな。僕も流河に頼みたいことがあったんだ。でも、明日でも構わないか?」
「……理由を聞いても?」
「今日は、妹の勉強を見てやる約束をしてるからね」
「………………なるほど」
夜神月はすばやく荷物をまとめると、そそくさと姿を消した。後には腑に落ちぬ顔のLだけが残された。
月は家路を急いでいた。
流河――Lからのテニスの誘いには乗じたが、まさかただのお遊びのはずだった試合が、あれほど拮抗する勝負になるとは思ってもいなかった。おかげでつい熱中し、時間を忘れてしまった。
ゲームの勝敗を分けた最後の一球、あれを打ち返そうとしたまさにその直前、偶然コート脇の時計が目に入ったのが幸いだった。おかげで月は己の失態に気付けたのだ。しまった、このままでは、樹里に告げた時間よりも遅くに帰宅することになってしまう……!
大学のキャンパスは中学校と距離が離れている。加えて、今までと異なる授業形態のため、以前のような頻度で樹里と一緒に帰ることは難しくなった。となれば、あんな形ばかりに過ぎない「親睦会」よりも、妹とのささやかな約束の方を優先させたいというものだ。Lとのゲームはテニスの勝敗などでは決しない、これからが本番なのだから。
よし間に合った――腕時計を確認すると、月は先までの焦りぶりを微塵も感じさせない落ち着き払った挙動で、玄関のドアを開ける。
「ただいま」
「おかえりなさい、夜神くん」
……しかし彼を出迎えたのは、かわいい妹ではなく、今しがたテニスコートで別れたばかりの流河であった。
月は驚きはともかくとして、動揺や脱力感や、苛立ち殺意その他諸々を表面に出さないように努めるのに、大変な時間と労力を要した。そしてそんな努力の甲斐あって、何とか言葉を搾り出す。
「……どうして流河が僕の家にいるんだ?」
「お兄ちゃん、おかえりー」
流河の後ろから、ひょこっと樹里が顔を出した。
「あのね、流河さん、お兄ちゃんに用事があるって……急ぎみたいだったから、お兄ちゃんが帰ってくるまで上がって待ってもらってたの」
「すみません、夜神くん。やはりどうしても今日お話しておきたいと思い直しまして」
と、白々しく頭をかいてみせる流河には、申し訳なさそうな様子はかけらも見受けられない。そういえば、流河は入学式の日と同じく自動車で通学しているようだった。なるほど、車を使ったなら、月の後に大学を出たとしても十分な余裕を持って先回りできるだろう。できるからと言って、普通はそういうことはしない、という問題はさておいて。
月は今度は感情を隠さずに溜息をついた。
「わかったよ。僕の部屋で話そう」
快諾したのは、どのみち流河には早いうちに捜査本部に連れていくよう提案するつもりだったからだ。あとは、樹里の前でみっともなく口論したくないという気持ちもある。
「約束、守れなくて悪いな、樹里」
「ううん、お兄ちゃん、気にしないで」
聞き分けのよい妹の頭を撫でてやり、それから流河を二階へと促す。大人しく従う流河はしかし、ふと樹里を振り返った。
「樹里さん。お茶、どうもごちそうさまでした。おいしかったです」
「あ、いえ、おそまつさまです」
流河の会釈に、樹里はにっこり笑顔で応じる。
「…………」
「おいジュリ、おまえの兄貴すげー顔してるぞ」
リュークが余計な一言を発したが、かわいい妹がこちらに目を向けたときにはもちろん、月は穏やかで端正な微笑でもって見返した。
――さて、数十分ほど時間を遡った頃、夜神家での顛末である。
「こんにちは」
「……こ、こんにちは」
てっきり兄が帰ってきたと思って玄関を開けた樹里は、ひどく面食らった。
ぼさぼさの髪、青白い顔にくっきり浮かんだ目の下の隈、猫背で、くたびれた服装といった男が訪ねてきたのだから、たとえ来客を出迎えるつもりであっても面食らっていたかもしれない。これで顔見知りでなかったら即座にドアを閉めていただろう。
数日前、入学式で見たときとまったく同じ出で立ちの、流河旱樹だった。もちろん、樹里が好きなアイドルではない方の。
「突然すみません。お兄さんはご在宅でしょうか?」
「お兄ちゃ、あ、兄なら、今日はまだ帰ってきてませんけど」
「そうですか。実は、お兄さんに急いでお伝えしたいことがあるんです。ご迷惑でなければ、こちらで待たせていただきたいのですが、構いませんか?」
「えっと……」
淀みなく並べ立てられ、樹里は口ごもってしまう。
父は仕事、兄は大学、母は近所に出かけていて、今この家には樹里ひとりだった。中学生の「夜神樹里」ならまだしも、多少の人生経験と悪夢の記憶を持つ「簸川樹里」には、大して知りもしない男性を家に入れることに抵抗がある。
しかし、彼はまだなって数日とはいえ兄の学友なのだ。何と言えば角を立てずに断れるのか……などと考えている間にも、流河は伺いを立てておいて、すでにドアの内側に足を踏み入れている。
「ど、どうぞ」
樹里はほとんど押し切られるかたちで流河を招き入れた。汚れたスニーカーを脱いで裸足になった流河――樹里が勧めたスリッパは「いえお気遣いなく」と断られた――はペタペタと足音を立てながら樹里の後をついてくる。そうしてリビングに通されると、流河はその入り口で立ち止まり、室内を見回した。
「樹里さん」
「は、はい」
「他のご家族の方は?」
「母なら、ちょっと出ていて……でも、すぐ帰ってくると思います」
「いけませんね」
突然こちらに向き直り、指をくわえた顔をずいと寄せてくる流河――いや、背を曲げているせいで互いの目線が近く、そう感じただけなのか。背筋を伸ばせば兄と同じくらいの身長だろう。けれども樹里はどうやら咄嗟に後ずさっていたらしく、背中が軽くドアにぶつかった。
感情を読み取りにくい真っ黒な瞳が、身構える樹里をじっと見つめ返す。
「女性がひとりきりでいるのに、知らない男を家に上げるのはよくありませんよ。こういうときは、もっと毅然とした態度で断り、追い返すべきです」
「え、……ええと……はい」
至極もっともなことを指摘されてしまった。
「これからは、気を付けます」
「はい。その方がいいでしょう」
流河は満足げに頷くと、ようやく樹里から顔を遠ざけた。自分のやったことは棚に上げて……なんていうことを、若干、思わなくもない。樹里は反撃を試みた。
「でも、さっきみたいに、相手が強引に入ってこようとしたときは?」
「そもそも相手を確認せずにドアを開けてはいけません」
「……そ、そうですね。すみません」
結果、轟沈した。
確かにそのとおりだ。いつも兄が守ってくれるから、持つべき警戒心が薄れてしまっているのかもしれない。お兄ちゃんの負担にならないように、もっとしっかりしなくちゃ……樹里は決心しながらも、とぼけたところがありどこか憎めないこの流河に気を許しつつあることには、思い至らなかった。
樹里は流河に椅子にかけるよう勧め、自身は客をもてなす準備を始めた。
「流河さん、紅茶とコーヒーはどちらが……あ、緑茶もありますよ」
「お気遣いいただいてすみません。それでは、紅茶をお願いできますか」
「お砂糖はいくつですか?」
「その袋ごといただけますか」
「袋ごと……ぜ、ぜんぶ?」
スティックシュガーお徳用パック(100本入り)を指して流河が言うので、樹里はびっくりして聞き返した。
「いえ、さすがにそこまでは。半分ほどで構いませんよ」
「はんぶん……」
樹里は流河が「冗談です」と言い出すのを待った。時間稼ぎのために、そんなつもりはなかったのに二人分のお茶を淹れるまでしてしまった。しかし一向にその気配はない。椅子の上で体育座りをして待っている流河に、おそるおそるティーカップとお徳用パックを出す。
「ありがとうございます。樹里さんは、砂糖は使わないのですか?」
「あ、いただきます……」
めいっぱい甘くしないと紅茶を飲めない樹里は、普段から兄に子供舌だとからかわれたり、両親に過剰摂取は身体に悪いとたしなめられたりしている。でも、上には上がいるんだなあ。思いながら、彼の向かいにかけ、数本を拝領した。
あっという間に、テーブルの上に空き袋の山ができあがる。湯気の立つ砂糖水もとい紅茶に口をつけつつ、流河が尋ねてきた。
「――ところで、最近、樹里さんの周りで変わったことはありませんでしたか」
「変わったこと……ですか?」
樹里はきょとんとした。つい先日、父からもそっくり同じ質問をされたからだ。
「いえ、特には……」
答えだって、そのときと変わらない。素っ気なくなりすぎないよう丁重に否定の言葉を返した樹里に、けれど流河は簡単には引き下がらなかった。
「どんな些細なことでも構いません。じっくり考えてみてください。それでも答えは変わりませんか?」
膝を抱えた姿勢でずいと身を乗り出してくる。樹里からすると今にも椅子から落っこちてしまいそうに見えて気になって仕方がないが、どうやってか彼はうまいことバランスを取っている。
「うんと……」
最近、と言われても、春とは概して変化の季節だ。樹里は中学三年生になり、兄は大学一年生になった。流河が求めている答えはまさかそんなことではないだろう。父が近頃いよいよ忙しそうなのは仕事柄のことだし、母は、疲れている父や環境の変わった樹里たちを心配していても、母自身に変わりがあるのではない。
「ごめんなさい。やっぱり、特には思いつかないです」
「そうですか」
流河の声は平坦ながら、気落ちしているふうだ。申し訳なくなり、樹里はさらに最近あった出来事をひとつひとつ思い返してみた。デスノートを拾った、死神に取り憑かれた、FBIに尾行された、バスジャックに巻き込まれた……
「――あ」
「樹里さん、何か思い当たることが?」
ごくごく小さく声を漏らしたのを、流河は耳聡くすぐさま拾い上げた。樹里は慌てて両手を振り、否定する。
「あっ、いえ、何でもないんです。ぜんぜん、大したことじゃなくて……」
「話してください。先ほども言いましたが、どんなことでも構いません」
「あの、えっと……」
流河は微動だにせず瞬きすらせず、樹里の次の言葉を待っている。突き刺さる流河の視線を避けようと、樹里は部屋のあちこちに目をやったが、樹里を助けてくれるものは何もなさそうだ。正直に打ち明けるほかない。
「兄のことなのですが」
「はい」
「今日は突然、今までとはまったく違うタイプの友達が、家にやってきたなあって」
「…………なるほど」
流河はじとっとした目つきで樹里を見据えながら、砂糖の味しかしないだろう紅茶をすすった。樹里の後ろで、リュークが「まったくだな」と笑い声を上げている。リュークは黙ってて!――気まずい樹里が心の中で叫んだところで、伝わるはずがない。
「そろそろお兄さんが帰ってくる時間では?」
「えっ? あ、そうですね」
壁時計を見上げると、ちょうど兄が今朝に告げた時刻に差しかかっている。ぴったりのタイミングで、玄関から物音がする。今度こそ月が帰ってきたに違いない。
……ん?と樹里は首を傾げる。どうして彼が、兄の帰宅予定時間を知っているのだろう。樹里が目を戻したときには、流河はもう椅子から下りて「私が出てきますよ」と玄関へ向かっていた。樹里が止める間もなかった。
「おかえりなさい、夜神くん――」
かくして夜神月は彼の最愛の妹ではなくおよそ宿敵であるところの流河に、帰宅を出迎えられる羽目になったのだった。