10

「はじめまして、キラさん。お会いできて嬉しいです――」
 樹里は振り返った。
 その一瞬、さまざまに考える。第二のキラは凶悪な殺人犯であって、間違っても兄に会わせるわけにはいかない。むしろ、すぐにでも裁くべき相手だ。しかし裁くには名前が要る。死神の目の取引をしないと。それは、兄の言いつけに背いてまで? いや、今ここでリュークに取引を了承する旨を伝えたなら、必然、相手は樹里の意図を悟る。殺意を気取られたら、樹里がどうあがこうが向こうの方が名前を書くのは早い――
 振り向いた先、樹里の視線が相手を捉える。そこには、樹里よりもいくらか年上の、眼鏡をかけたセーラー服の少女が立っていた。
「遅くなってごめんね。待った?」
 何食わぬ顔で同じテーブルに着く彼女に、樹里は何と返せばよいものか迷った。このまま彼女と会話を続けてしまえば、自分がキラだと明かすのと同じだ。すると、彼女は樹里の頭上あたり、何もない空間に目を向けながら尋ねてきた。
「えーっと、よる、夜神? 夜神、ナニちゃん?」
 ……どうやら本当に、彼女には樹里の名前が見えているらしい。であれば、今さら何をどう取り繕ったところで無駄にしかならないだろう。
ジュリ、です。夜神樹里
樹里ちゃんかあ。私、弥海砂。ミサでいいよ。はい、これ」
 ぎょっとして、まじまじと彼女の顔を見る。
 驚いたのは、彼女が自らあっさりと名乗ったから、そして、鞄から取り出したぼろぼろの黒いノートを樹里に差し出したから――デスノート。まさか、こんなところで。
 死神の目があるから、樹里がキラだという確信があっての行動だろうけども。樹里はおそるおそる、ノートに手を伸ばした。
 指先が触れた途端、ミサの背後にまるで骸骨のような白い異形が出現する。死神だ。弥海砂が第二のキラであることは、もはや疑いようがない。
「これで私のこと、信じてもらえた?」
「信じました、から、ノート、早くしまってください」
「あはは、わかってるわかってる。まさかキラが女の子なんて、思わなかったなあ」
「……あの、ここでそういう話は」
「あ、そうね。じゃ、それ飲んだら、場所変えよっか?」
「いえ、いいです。すぐ出ましょう」
「えっ、そう? ゆっくりしていいのに。ごめん、タイミング悪かったかな?」
 グラスには手を付けないままで、樹里は伝票を掴んで立ち上がった。
 店を出た二人は、そこから少し離れた別の喫茶店に入った。出で立ちの異なる二人連れでも目立たない、外から店内が窺えない、他の客から会話を聞かれることがない、といった条件を示したところ、「オフ会に使ったことがある」とミサに案内された場所である。
 ちょうどよく空いていた奥まった席は、なるほど、人目につくことはなさそうだ。四人席だが、見かけは二人連れでも実際はプラス死神二体がいるため、やや狭く感じてしまう。
「ここならぴったりでしょ?」
「そう、ですね」
樹里ちゃんって、あんまりお喋りしないタイプ? 静かねー」
 ――殺人鬼と、何を話せというのだか。
 樹里は先ほどから吐き気を堪えるのに必死だった。簸川樹里の人生を終わらせたのと同類の犯罪者と、同じ場所にいて、同じ空気を吸っているだなんて。でも正体がばれた以上は、せめて少しでも何か有益となることをしなければ、兄に合わせる顔がない。かろうじて樹里を支えるのは、そんな使命感だ。
 樹里はすぐに本題を切り出した。
「ミサ、さん……こそ、あたしに、話があるんじゃないんですか? あんなビデオレターまで作ったんですから」
「うーん、話っていうか。ただ、あなたに会いたかったの。それだけだよ」
「どうして?」
「だってキラは、ミサの恩人だもん」
 そうしてミサが語り始めた彼女の過去は、かいつまめばこういうものだ。両親を強盗に殺された。強盗は捕まったが裁判が長引き、そのうち有罪判決が難しくなってきた。ミサが犯人を殺してやりたいと思い詰めていたときに、キラがその犯人を裁いてくれた。
「だから、キラに会って、お礼が言いたかった。――ありがとう」
「……あなたは……」
 第二のキラの行動は、ひとえにキラに感謝を伝えたいという思いゆえのもの。
 そこにはおそらく嘘偽りなどないのだろう。けれど、樹里の心には何も響かない。
「あなたは、キラを批判していただけのテレビ出演者や、罪のない警官を殺しましたよね。それは、その強盗がやったことと同じじゃないんですか?」
 殺された人たちだって、ミサの両親と同じくらい無念だっただろうし、ミサ同様に残された家族もいたはずだ――と言うと、ミサはさもショックを受けたような顔をする。
「それは、でも、キラだって……」
 『キラだって』、なんだ? この女は、いったい何を言うつもりだろう。吐き気に加えて眩暈までしてきた。あたしは、お兄ちゃんは――
「キラは悪人しか殺さない。あなたと一緒にしないでください。キラにとっては、あなたも裁きの対象なんです」
「そんなことはさせないよ」
 ――突然、誰かの声が割り込んできた。樹里は驚いて顔を上げる。
 死神だ。
 ミサに憑いている白い死神の声を、樹里はこのとき初めて聞いた。リュークとは違う、瞳孔の縦に長い眼が樹里を見下ろし、告げる。
「この娘を殺せば、私がおまえを殺す。この娘を殺そうとする素振りを見せたら、その前におまえを殺す」
「レム! それじゃ、レムが死んじゃうじゃない」
「私はそれでも構わない」
 ミサの死神――レムは、よほど彼女に入れ込んでいるらしい。樹里を殺すとレムが死ぬという理屈はよくわからないが、ミサとレムの間では自明の理のようだった。
「ククッ……困ったな、ジュリ。どうするんだ?」
 ……リュークとは大違いだ。まあ、こちらの死神の薄情さはさておくとして。
 今、樹里がやるべきことは焦ってミサを殺すことではない。
 ましてや、ここでミサやレムに殺されることでも。樹里にできることは何か、何が月のためになるのか、しっかりと考えて行動することだ。
 樹里は、長く息を吐いて呼吸を整えた。
「……すみません。少し言い過ぎましたね。でも、ミサさんはそのくらいのことをしたんだと、わかってほしかったんです」
樹里ちゃん。ごめんね……ミサ、ああするしか思いつけなくて……」
「うん。あたしに会うためだったんでしょう。寿命を半分にしてまで……これからはその力を、あたしの理想のために使ってくれますよね?」
「……いいの?」
 ミサは目に涙を溜め、樹里を見つめる。樹里は内心の嫌悪や憎悪が表面に噴き出さないよう、せいいっぱいに心を抑えて、にっこり微笑んだ。
「もちろんです。よろしくお願いしますね、ミサさん」
「うんっ、ありがとう、樹里ちゃん」
 このやりとりで納得したのかどうか、白い死神がさらに口を出してくることはなかった。ミサはというと、泣いた烏がもう笑っている。
「ね、じゃあ、樹里ちゃんの死神も見せて?」
「……はい、いいですよ」
 デスノートの所有権は樹里にあっても、実際にノートを管理しているのは月だ。そもそも兄はノートを持ち歩くような危険は冒さないけれど――そうだ、そのあたりもミサに言い含めておく必要がある。
 樹里は兄に言われて常に隠し持っている、デスノートの切れ端をテーブルに置いた。
「これ……」
 ミサは不思議そうに切れ端に触れる。そして「あっ」と目を見開いた。
「あなたが。レムとは全然、姿が違うのね……私はミサ。よろしくね」
「はい、よろしく」
 リュークの返事はいたって軽い。自己紹介が一段落したところで、樹里は言った。
「ミサさん、普段ノートは誰にも見つからないところに隠しておいてください。こうしてページの端だけ切り取っておけば、いざというときに名前を書くには困りません」
「デスノートって、そんな使い方もできるんだ。うん、わかった」
「じゃあ、今、切り取ってしまいましょうか。それで、あたしのと交換するんです」
「交換? 何で?」
「実は、あたしはもう警察に……Lに目をつけられてます」
「ええっ!」
 多少話を盛りはしたが、FBIに尾行されたことは事実だから、大きな嘘はついていない。それに、兄は実際にLに接近しているのだし……
 リュークが余計なことを言いやしないかとちらと目を向けると、樹里の死神は相変わらずクックと喉を鳴らして笑っているだけだった。
 ミサは叫んでしまった後で大声を出したことに気付いたらしく、慌てて周囲を見回して、ひそひそと囁く。
「そ、そうなの、すごいのね、Lって」
「第二のキラの日記から、警察は今日このあたりにも張っているはずです。もし、あたしがここでミサさんと会ったことがわかって、捕まるまではいかなくても荷物を調べられるようなことがあったら、」
 そのときにノートを持っていたとしたら、論外だ。デスノートの外観は見るからに怪しい。切れ端なら……怪しまれることはまずないだろうけども、ほんのちょっとでも触れられたなら、相手には死神が見えるようになってしまう。警察に死神の存在が知れたら、デスノートのことをごまかすのが難しくなる。
 そこでだ。お互いの切れ端を交換して持っていたとしたら?
「ミサが持ってる切れ端ならリュークが見えるようになって、樹里ちゃんのなら、レムが見えるようになる……?」
「うん。取り憑いてる死神は逆だから、二人一緒でさえなかったら、その場では死神は見えません。後からもう一人に会えば見えてしまうけど、取り調べとは別の場所で、別の人間に憑いている死神を見たところで、キラ事件と結びつけられるかどうか」
「そっか、ノートもなくて、死神も見えないなら、何とでも言い逃れできるもんね」
「そういうことです」
 ミサは樹里の言うことをすっかり信じきって、自分のデスノートから切れ端を作り、樹里のものと交換した。……やった。これで、ひとつ収穫ができた。
「それと今後、ミサさんが裁く悪人はあたしが決めます。あたしの指示がないかぎり、デスノートは絶対に使わないで」
「うん、樹里ちゃんの理想のためだもんね、いいよ」
 ……何だか随分あっさり受け入れられた。こちらが年下だから、いくらか軽く見られているのかもしれない。しかし、口約束だけではあるけれど、とにかくこれで罪のない人が殺されることはなくなる。
 それから、ミサとは連絡先を教え合って別れた。最後に「ノートは帰ったらすぐに隠すように」と言い聞かせて。


 月が家に帰ってきたのは、樹里が帰宅してからさらに数時間後だった。
 樹里は月の部屋を訪ねて、洗いざらい打ち明けた。月は途中で口を挟むことなくひたすら樹里の話に耳を傾けていたが、すべて話し終えてもまだ黙り込んでいる。眉間には深い皺が刻まれていて、視線はどこか宙を睨んでいた。
「……ごめんなさい、お兄ちゃん」
 勝手に行動した挙句、第二のキラに見つかってしまうというひどい失態を犯したのだ。お兄ちゃんが、もうキラの手伝いは頼まない、なんて言ってきたら、ううん、もっと、もう二度と樹里とは口を利きたくない、なんて……ああ、どうしよう。いろんな想像をして、樹里は泣きたくなってきた。
「あ、あの……怒ってる?」
「いや、怒ってないよ」
 おろおろしながら問いかけると、ようやく月は樹里を見てくれた。まだ難しい表情をしていた月は、ふとそれをやわらげる。
「はは、ひどい顔だな」
「わ、笑わないでよお」
 よかった、お兄ちゃんはいつもどおりだ……
 ほっとしたら本当に涙が出てきて、樹里は月に悟られまいとこっそり目尻をぬぐった。直後に頭を撫でられたから、どうやらそれは失敗したみたいだ。
樹里は何も悪くない。僕を心配してくれたんだろ。元はと言えば……」
 月はジロリとリュークを見やる。それまで、どうしてだかげんなりした様子で二人を眺めていたリュークは、もの言いたげな月に気が付いて首を傾げた。
「ん? なんだ?」
「まあ、いいさ。最初から当てにはしていないから」
「おっと、ひどいな」
「当てにされたいのか? リューク」
「いや、別に? むしろ、されちゃ困る。面白くない」
「……だと思ったよ」
 月は肩をすくめ、暖簾に腕押し状態のリュークとの会話を早々に切り上げると、椅子ごと樹里に向き直った。
「僕の方は、特に収穫はなかったよ」
「だって第二のキラは、あたしと会ってたんだもんね……」
「そう拗ねるなよ。つまり警察は、第二のキラに関してまだ何も掴めていないということだ――樹里。交換した切れ端は?」
「これ?」
 樹里は服のポケットから切れ端を取り出し、こちらに向けられた月の手のひらにのせた。傍目には何ら変化を感じなくても、これで月にはレムが見えるようになったはずだ。月は束の間その切れ端を眺め、やがて興味を失したように手早く折り畳んで財布にしまった。
「そのレムって死神は、邪魔だな。どうにか排除できればいいんだが」
「うん、そうだね。でないと、第二のキラを殺せないもん」
「相手は人間の寿命がわかる死神だ。デスノートで彼女を殺せば、寿命よりも早く死ぬわけだから、すぐに樹里がやったことだと判断するだろう。厄介な相手だよ」
「うん……ごめんね、お兄ちゃん……」
 樹里はうなだれて、膝の上で拳を作った。樹里が余計なことをせずに月に任せていれば、事はもっとうまく運んだかもしれない。
 しょげかえる樹里に、月は慰めの言葉をかけてくれた。
樹里は悪くないって言っただろう。それに、結果的には第二のキラの暴走を止められたんだ。第二のキラを今すぐに裁くことはできないよ、でも、」
 だったら、裁きの日が来るまで存分に奴を利用してやろう――月はそう樹里を諭す。名前がわからずに裁けなかった犯罪者も、死神の目があれば裁けるようになるじゃないか。
 それを聞いた樹里は素直に、やっぱりお兄ちゃんはすごいな、と感心した。月は、樹里の大失敗も、成功の方向に転換してくれようとしている。
「うん、わかった。……お兄ちゃん、あたし、どうすればいい?」
「まずはこちらを信用させよう。今度、家にでも呼んだらいいよ。普通に、友達としてね」
「……友達、かあ。やってみる。そうしたら、いつかは殺せるんだよね」
「ああ。向こうは、キラが二人だということを知らない。僕にはレムが見えるということも。このことは、必ず役に立つよ」
 これは樹里のお手柄だな、と月が褒めてくれたので、樹里は今日ミサと対面してからずっと胸にわだかまっていた嫌なものが、すうっと消えていくのを感じた。
 やっぱり、お兄ちゃんは、すごいなあ。こんなに簡単に樹里を救ってくれるのだから。
 ミサを使ってLの名前を知り、捜査本部もろともLを消してやろうなどと兄が考えていることには、樹里はちっとも気付かなかったけども。