12
「夜神樹里……?」流河がぽつりと呟く。
流河は、まだ決定打となる証拠を掴んでいなくとも、月がキラだとほとんど確信している。そこに他の名前が出てくれば、戸惑うしかあるまい。
父は呆然と立ち尽くしている。上司の娘として樹里と面識がある他の捜査員たちは、どういう反応を示せばいいのかわからない様子だ。
月はひそかに拳を握り、怒りの感情に耐えていた。
女を殴りたいと本気で思ったのは、生まれて初めてだ。ビデオテープや封筒から出てきた証拠はともかく、デスノートでの殺人は、自白しないかぎり誰にもわからない。ミサが口を噤んでさえいれば、逃げ道はいくらでもあったはずだった。
「弥、キラの正体はわかった。殺しの手段は何だ?」
「それは……ノートに……」
馬鹿! それ以上言うな!
月はスピーカーを叩き潰してやりたい衝動を必死に抑える。デスノートのことがばれたら僕も樹里もおしまいだ。どうする――
「ノートに名前を、っ」
「……どうした? 弥?」
ミサの言葉が不自然に途切れ、流河が訝しげに問うた。
それきりミサは声を発さない。
パソコンの画面、ノイズが走る不鮮明な映像をよくよく見てみれば、いったいどういうことか、レムがミサの口を塞いでいる。レムの手は手のひらだけでも人間の顔以上の大きさがあり、それがそっと壊れ物を扱う手つきでミサの口を覆っているのである。
「ミサ……聞いてくれ。声は出すな。私はミサを助けたい」
私がここにいる連中をみんな殺してミサを逃がしてやったっていい。レムはそう語りかけ、手を下ろした。それに合わせてミサはゆっくりと息を吐き出す。
絶対的な味方がそばにいることを実感してか、いくらか落ち着いたらしい。流河が呼びかけても、ミサはもう応えようとしない。
「しかし、そうすれば私は死に、この先ミサを守れなくなる。そして警察はミサへの容疑を固める。さすがに、私だけで警察の人間を一人残らず殺すのは難しいだろうからね」
月はヒヤリとした。
ミサを助けるのならばその実、この捜査本部にいる全員を殺して証拠品を回収し、ミサを逃がすだけで事足りる。レムがそうしないのは、キラ事件対策本部がほんの一握りの人間だけで動いていることを知らないからだ。流河たちは外部と連携を取っているものと思い込んでいる。その思い込みに、助けられた。
「……樹里に助けを求めるしかない」
レムが言う。
樹里の名を、そして「ノート」という単語まで漏らしておいて、勝手な言い草だ。そんな怒りを覚えるのは、月がいまだ冷静ではないからか。
夜神樹里ならミサを助けられるかもしれない。いや、私があの子を脅してでもミサを助けさせる。だから、とレムは続ける。警察の連中にはもう何も教えてはいけない、と。
「樹里が不利になると、ミサが危なくなってしまう。……ノートの所有権を放棄し、夜神樹里に託せ。そうすればミサはデスノートに関わることを忘れ、秘密が漏れることはない」
レムの提案に、小さく頷くミサ。
どういった力が働いたのか、ミサは糸が切れたようにガクリとうなだれた。白い死神は名残惜しそうにミサの顔に触れ、それから画面の外へ消えていく。
気絶したようです、とパソコンからの声が告げた。流河が引き続きミサを監視するよう指示し、画面は再び「L」の文字に戻る。
「夜神樹里……ノート?」
パソコンの前で膝を抱える流河が、また呟いた。捜査員たちは、ミサの自供の内容をまだうまく咀嚼できていないらしく、互いに顔を見合わせている。
「弥と樹里さんは友人関係にある。――月くん、そうですね?」
「ああ、そうだ。詳しい経緯は知らないが、好きな芸能人の話題で気が合って親しくなったという話は聞いたよ」
当たり障りのないことを答えておく。果たして、流河はどこまで調べがついているのか。ミサは記憶を失った。状況次第では、樹里から疑惑の矛先を逸らすのも不可能ではない。流河の本名を知る機会が失われたのは惜しいが、今は樹里の安全が最優先だ。
「知り合ったのは五月の末頃、第二のキラの日記の時期と一致しますね」
「……いや、ちょっと待ってくださいよ」
真っ先に異を唱えたのは、意外と言うべきか妥当と言うべきか、松田だった。
「樹里ちゃんがキラなんて、さすがにおかしいでしょう! 樹里ちゃん、まだ小学生かそのくらいですよね?」
中学三年だ、と父が静かに訂正する。松田が最後に樹里に会ったのは確か、三年以上前のことだ。彼の中では、樹里は当時の印象のままの子供なのだろう。
「中学生でも同じですよ。僕が知ってる樹里ちゃんは大人しくて人見知りで、大量殺人ができるような子だとはとても思えません。監視カメラにだって、怪しい行動は映ってなかったんですよね?」
「おいっ、松田」
松田の言を相沢が遮った。しかしまったくの手遅れで、松田は「あっ」と口を押さえ、しどろもどろになる。
「月くん、今のは、その」
「……いえ、何となくわかりましたよ。とりあえず今は、追及しないでおきます」
「う、うん、すまない」
月が流河に含みを持たせた視線を投げると、相沢は無言で唇を引き結び、松田はばつが悪そうに頭をかいた。かつて自宅に監視カメラが仕掛けられていたことについて、あえて知らぬ存ぜぬを貫かずとも、流河がそういったことを平気でしでかしそうな人物だとは捜査に加わっていれば容易にわかることだ。
これらのやりとりの間、流河は他人事のように紅茶をすすっている。「L」の字をじっと見つめ、皆には背を向けている流河。その背中に、父が切り出した。
「竜崎。父親の私が言っても信用に値しないだろうが、あの子は感受性が鋭すぎて、事件のニュースを見ただけで怯えるくらい優しい娘だ。あの樹里が、キラであるはずがない」
「弥のでたらめに決まってますよ!」
松田がすかさず同意する。相沢は、今すぐ結論を出すつもりはないらしく、自論を述べることなく押し黙っている。
「……確かに、夜神樹里は私の中のキラ像からは外れています」
すんなりと応じる流河に、父は「そ、そうかっ」と上擦った声を上げる。
流河は首だけを巡らして振り返り、ちょっと月を見た。
流河が抱くキラ像にずばり当てはまる人物は、月だ。そう言いたいのか、それとも、かつて父の病室で「怪しいのは樹里だ」と指摘したことを……?
「弥の言動はキラに操られた、死の直前の行動と考えられなくもありません。しかし、第二のキラの口から名前が挙がった以上、夜神樹里本人から話を聞かないわけにはいかない」
「うむ……それは、そのとおりだ」
そのとき、月の視界の端を白い影がよぎった。
――レムだ!
壁をすり抜けて現れたレムは部屋の中をぐるりと見回す。
何だ、何をしに来た? まさか、月たちを殺しにきたのではあるまい。レムの考えでは、捜査員を殺せばミサの疑惑はますます深まる。
レムにも父たちにも気付かれないようにその挙動を追っていると、レムはテーブルまでやって来て、そこに並べられている証拠品の類に視線を縫い止めた。
「流河。ノートのことは?」
月が言うと、皆がこちらに注目した。その一瞬の隙に、レムは証拠品のひとつ、ミサの手帳の中から何かをすっと抜き取り、手の中に握り込んだ。
リンゴはリュークの口に入ってしまえば人間の目には映らなくなる。それと同じで、ああすれば、誰かの目に触れることはなくなるのか。レムが回収に来た証拠品が何かもだいたい想像がつく――樹里のデスノートの切れ端だ。
どうやら手帳のそでのところに隠してあったらしく、検証の際に月は気付かなかったし、指摘する者もいなかった。おそらく、他の誰も触れてはいないはずだ。
目的を果たしたレムはまた壁をすり抜けて出ていった。
今度は、ミサが隠しているノートを回収に行くのだろう。それから樹里のもとへ……か? ならば月はせいぜい時間を稼がなくてはならない。
「ミサの所持品にノートはなかった。家宅捜索でも、特にそういったものは発見されていない。そうですよね? 相沢さん」
「ああ。しかし我々は、弥がビデオレターの送り主だという物的証拠を捜すのに焦点を絞っていたからな。何もなかった、とは断言できない」
「でも、ノートなんて、どこにでもあるものじゃないですか。やはり弥が適当なことを言っているとしか」
「もっと具体的に殺しの方法を聞き出せれば……」
実のない議論を引き伸ばす。ああでもないこうでもない、と続けていると、痺れを切らしたらしい流河が「こうしましょう」と持ちかけてきた。
「弥の拘束と監視はこのまま続けさせます。模木さんと相沢さんは、弥宅を再度捜索。私と松田さんで、夜神樹里に聞き込みに行きましょう」
「……流河が行くのか?」
「はい。自分で確かめておきたいので」
「…………」
流河は樹里を拘束するとも、取り調べるとも言わなかった。
ということは、樹里への疑念はそう強くない、と見ていいだろう。ミサが第二のキラとして確保された件は伏せ、「L」ではなく「流河旱樹」として話を聞きに行くと言っている。逆に考えると、名前を出された樹里にも目が向かないほどに、月が疑われているということになるが。
「なら、僕も行くよ。自分の家族のことだし、ミサとは知らない仲じゃない。僕の方が、樹里からうまく話を聞き出せるだろう」
「そうですね、お願いします。ただし、私の指示には必ず従ってもらいます」
「それは……」
容疑者である樹里の家族が捜査を行うのは好ましくないから、という理由ではないだろう。……僕がキラかもしれないから、か。月は続く問いかけを呑み込んだ。
結局、夜神家には流河と松田、月、そして夜神総一郎が向かうことになった。夜神家に到着すると、外から帰ってきた様子の樹里とばったり出くわした。
「お兄ちゃん?」
目を瞬かせる樹里の背後には、リュークと、そしてレムがいる。
樹里は、ミサのノートの所有権を得たのだ。そしてこのタイミングを考るに、レムからミサが警察に樹里の名を挙げたことも聞き、流河たちの来訪に備えてノートをどこかに隠してきた帰り、そんなところだろう。
元からある一冊は月の部屋、机の二重底の引き出しに隠してある。今日のうちは本格的な捜索はしないことになっているし、対象はあくまで樹里だから、そちらは心配していない。
「お父さん! 今日帰ってくる日だった……あっ、こ、こんにちは」
ほとんど家に帰らない父の姿に驚いて駆け寄ってきた樹里は、松田と流河もいることに気付いて、ぺこりと頭を下げる。
「こんにちは、樹里ちゃん。久しぶりだね。少し見ないうちに、大きくなったなあー」
暢気に挨拶を返している松田を、流河は向こうへ押しやり、ずいと樹里の前に出た。
「樹里さん」
「は、はいっ」
「樹里さんはミサさんのノートについて知っていましたか?」
月はぎょっとして流河を見た。
よくある誘導尋問だ。
単純だが、そのぶん万人が引っかかりやすい。もしデスノートの存在を隠そうとして「知らない」と答えたなら、実は知っていると白状したも同然だ。本当に心当たりのない人間なら、まず「何のノートか」ということを尋ねるはずだからだ。
樹里に流河との駆け引きは荷が重すぎる。だが、ここで月が横から口を挟んでは明らかに怪しい。気を揉みながらも、樹里が答えるのを待つしかなかった。
くそっ、まずいぞ……気付け、樹里! 樹里にならできるはずだ!
「……ノート? 何のノートですか?」
と、樹里はきょとんとして聞き返す。月は内心でガッツポーズをとった。よ、よくやった! 完璧だ! さすが僕の樹里!
流河はさらに踏み込むつもりまではないらしく、あっさりと話題を取り下げた。
「いえ、知らないならいいんです。ところで樹里さん、樹里さんの部屋を調べさせてもらいたいのですが」
「えっ、調べるって……?」
樹里は目を白黒させ、月と父を交互に見やる。父がひとつ咳払いした。
「樹里。すまないが、彼の言うことに従ってもらえないか」
「え、う、うん、わかった。お父さんがそう言うなら……」
皆で連れ立って家に上がる。樹里は尻込みしながらも、二階の自室に「どうぞ」と流河と松田を通した。
「では、松田さん、何か怪しいものがないか――特にノートにまつわるものについて捜しましょう。月くんと夜神さんは、樹里さんから話を聞いておいてください」
部屋の主を前にして、松田はおっかなびっくりと、流河は微塵の遠慮もなしに、それぞれ捜索を開始した。
月と父がミサとの間柄を問いただしている間、樹里はしきりにちらちらと部屋の中を気にしていた。大人の男が年頃の少女の部屋をくまなく探っているのだ、キラとかそういうのは関係なしに、不安に思うのは当然だろう。
それは保護者たる二人も同じで、月は流河が妹の部屋で妙なことをやらかしはしないか気がかりで視線を外せないし、父は逆に極力目を向けないように努めている。三者三様に気を取られ、問答は一向に進展しなかった。
「――あっ!」
不意に、樹里が大きな声を上げた。
「あ、あの、流河さん。その引き出しは、ちょっと……」
ちょうど箪笥の引き出しに手をかけたところだった流河が振り返る。
「どうしました? ここを見られると何か不都合でも?」
「不都合っていうか……えっと、」
樹里は俯き、もじもじして黙り込んでしまった。
「樹里、我慢しなさい。事件を解決するためには必要なことなんだ」
「でっ、でもお……」
泣きそうになっている樹里。それを嗜める父も、言葉に反して表情が穏やかでない。父娘のやりとりをよそに、流河は躊躇なく引き出しを開けた。
ああっ!と樹里が悲鳴じみた声を漏らす。
引き出しの中には、いくつもの布製品が綺麗に畳まれて収納されていた。淡い色調の生地にレースやリボンの飾りがついた――見るからに女性下着が。
……沈黙が満ちる。
完全に空気が凍り付いていた。
そんな中で、あのう、と松田がおずおずと片手を挙げる。
「女性の捜査官を呼んではどうでしょうか……? さくらTVの件で、協力してくれる人もいるってわかりましたし、伊出さんに頼んでは……」
「そ、そうだな、うむ、それがいいかもしれん」
父は何度も頷きながら、あやすように樹里の背中を叩いた。樹里はかわいそうなくらい真っ赤になった顔を手で覆っている。
そして流河は、やおら引き出しに手を突っ込んだ。
樹里は今度はひえっと呼気にも似た声にならない叫びを上げた。流河がどこ吹く風で中の一枚を摘まみ上げると、丸まっていたのが重力に従ってぴらっと広がり形状と柄まであらわになった。ブフォッとリュークが吹き出す。
気が付いたときには月は流河の頬に渾身の拳を叩き込んでいた。
「流河!」
流河は派手に吹っ飛び、壁に激突した。家具や小物が薙ぎ倒されるやかましい騒音、樹里の悲鳴、父や松田のうろたえる声……
「おい、人の妹の下着を見るどころか手に取るとはどういうことだ!」
「……痛いです」
流河はしかし、堪えているふうではない。月は大股で彼に歩み寄り、その胸倉を掴み上げる。
「今、手に取る必要があったか? なかったよな?」
「いえ、あの下に何か隠してあるのかと……」
「そんなわけないだろ! あったとしても、女性捜査官に任せるって話になったよな!?」
「そうでしたか? 私は自分の目で確かめないと気が済まない性質なので……」
「ふざけるなよ!!」
流河がのらりくらりとかわすのを責め立てていると、
「お、お兄ちゃん、やめて、もういいよっ……」
「おい月、気持ちはわかるがよしなさい!」
樹里が背中に縋ってきた。さらに父まで加わってきて、三人で流河に鈴生りになる。
「はい、ストップ、ストップ! 今、捜査官を手配しましたからねー! 我々は下で待っていましょう!」
電話をかけ終えた松田が、声を張り上げながらそれぞれを引き剥がしにかかった。全員に寄って集って止められたら、月も引き下がるしかない。しぶしぶ流河から手を放す。
まず父が半泣きの樹里を慰めながら階下へ下りていき、松田が「もー、今のは竜崎が悪いですよ」、ぶつぶつ言いながらその後に続いていった。
「おい流河、何をしてるんだ、早く来い」
月はまだ座り込んでいる流河に、冷え冷えとした言葉を投げつける。
これ以上の狼藉を許すわけにはいかない、兄として殿を務めなければ。月が睨みを利かせている中、流河はのっそり立ち上がり……
「月くん」
「何だ?」
応えた瞬間――顎に下段からの蹴りを喰らい、月は床にひっくり返った。反転した視界の中、四つん這いみたいな体勢の流河がのたまう。
「一回は一回です」
大喧嘩になった。