15
日が暮れた頃になって、月は捜査本部を辞した。元々捜査は難航しており、議論は堂々巡りである。大学生の身分の月が帰宅したいと言い出したとて文句をつける者はいない。父の着替えや何やらを持ち帰るという理由もつければなおさらだ。
LやNの行動をなるべく見張っておきたいという気持ちもなくはないが、朝の樹里の言葉がある。それに今日はNに苛々させられどおしだったこともあって、月には癒しもとい休息が必要だった。
いそいそとホテルを出た瞬間、携帯電話の着信音が鳴り響いた。
捜査本部にいる間は常に電源を切っているため、このタイミングで着信があることは珍しくはない。しかし、着信画面に表示されている名前は珍しい。
樹里だ。
月の事情を十分に理解している樹里は、メールを送ってくることはあっても、電話は滅多にかけてこない。その樹里が、いつもなら月がホテルに詰めている時間帯に連絡してきた。月はすぐさま通話ボタンを押した。
「樹里? どうした?」
『――夜神月だな?』
樹里ではない。男の声。
月は己の心臓が一息に冷えていくのを感じた。携帯を持つ指先が強張る。デスノートに名前を書かれた者は、このような感覚でもって死に至るのかもしれない――もちろんノートは今も月の管理下にあって、そんなことはありえない。
「誰だ。樹里はどうした」
『おい、まずはこっちの質問に答えろよ。あんまりベタな台詞は言いたくないんだがな、おまえの妹がどうなってもいいのか?』
「……僕が夜神月だ。樹里をどうした?」
『そちらの質問はまだ許してないんだが。まあ、いいか』
電話の向こうでくぐもった声が笑う。
『夜神月、キラの能力を寄越せ。おまえの妹と交換だ』
「…………どういう意味だ……」
月は喉の奥から言葉を搾り出した。
樹里とノートを交換? 樹里はどうなった、無事なのか? なぜノートのことを知っている? それに、僕がキラだと……
『……ふうん。わからないか。じゃあ妹は不要だな。殺す』
「待ってくれ!」
月が声を張り上げると、行き交う人々が何事かとこちらを見やる。ここが歩道のただ中だということに今さら気が付いたが、月はそのまま続ける。
「樹里は無事なんだな? キラの能力を渡せば、無事に返すと?」
『同じことを言わせるなよ。俺はおまえの妹をいつでも殺せる。が、おまえが能力を渡せば殺しはしない。……ああ、周りに捜査員がいるのか? はい私がキラです、言うとおりに能力を渡しますとは、そりゃ言えないよなあ』
キラの能力。
いやに迂遠な物言いだ。そこに月は引っかかりを覚える。
『第二のキラはすでに警察に捕まってるよな。そいつに能力を分けさせるっていう建前ならどうだ? 能力を渡すのはあくまで第二のキラで、おまえはキラじゃないって言い訳がつくだろ?』
そうか――こいつは、デスノートのことを知っているわけじゃない。
確信した。
知っているのなら「ノート」と言うはずだ。ミサが待ち合わせを示した日記にそう書いたように、他の人間にはわからない符丁にもなる。
「能力を分け与える」とは、月がミサに送らせたビデオレターに出てくる言葉である。テレビで放送されたから、そこらの一般人でも知っている。第二のキラが捕まっていることは、当然ながら極秘事項だ。電話の主に捜査本部の情報が筒抜けになっているのは間違いない、しかし、警察が持たない情報までは掴まれていない……
いったい何者だ? SPKに情報を開示した途端となると、Nと何か関係が――
いや、そんなことは後回しでいい。
今は樹里だ。早く答えなければ、樹里が危ない。樹里の携帯電話からかけてきているということは、樹里の身柄は押さえられている。「殺す」というのもただの脅しではあるまい。
「……今すぐには無理だ」
月は慎重に切り出した。
相手がキラの能力を把握しきれていないなら、正直にすべてを白状するのは明らかな愚策だ。けれども、樹里を盾にされては無闇に突っぱねることはできない。
「時間がかかるんだ。すぐに人に渡せるようなものじゃない」
『適当なことを言うなよ。妹が死ぬぞ』
「三日だ。三日ほしい。時間さえもらえれば取引に応じる。でないと、誰が……殺されようとも、能力を渡すことはできない」
『…………』
沈黙。
月は息を詰め、目を閉じる。
……大丈夫だ。デスノートのことは何も掴まれちゃいない。あたかもキラの能力を知っているかのような口ぶりで、はったりを並べているのはあちらの方だ。僕がこう言えば、応じるほかないはずだ……
樹里……くそっ……
危機に陥った樹里が今どんな思いをしているのか、考えるだけで月は腸がちぎれそうだった。永遠にも思える時間の後――
『わかった』
と、短く返事があった。電話越しに悟られぬように、月はほっと息を吐く。
『取引は三日後だ。場所と時間はまた連絡する』
「待て、樹里の無事を確かめさせてくれ!」
月がすべて言い終える前に、通話は切れていた。
暑くもないのに、全身に汗をかいている。重石をつけられているみたいに身体が重い。呆然と通話終了の文字を見つめていたら、携帯電話が小刻みに震え始めた。メールの着信画面に切り替わる。送り主は樹里だ。
メールを開くと、画像が添付されている。小さな画面の中、荒い画質でも違えようがない。後ろ手に縛られ、縮こまっている樹里。
「樹里……!」
地面に根を張っていた足が不意に動くようになり、月は即座に身を翻してホテルに駆け込んだ。
メロは用済みになった携帯電話を放り投げた。椅子にもたれ、取り出した板チョコをかじる。傍らに控えていた男が携帯を受け止め、おそるおそる問うた。
「本当にこれでいいんだな、メロ。これで、キラの能力が手に入るんだな?」
「はっ、今さら何だ? 俺が今まで間違ったことがあったか?」
メロが鼻で笑うと、「メロの言うとおりだ」、彼の向かいにかけていた男が膝を打つ。
「メロがいなきゃ俺たちの組はここまで大きくはなれなかった。だが、いくら組を大きくしてシマを広げても、キラがいたんじゃ意味がねえ。キラは殺す。それには、キラの殺しの手段を手に入れるのが一番だ」
組長が言うと、それまで弱気な様子を見せていた舎弟たちも、口々に迎合し始める。メロにおもねってくる者も何人かいたが、メロはそれを無視して身を起こした。
「メロ、どうした?」
「手は打った。あとは三日後だ。その前に、あの女に聞きたいことがある」
「ああ、好きにしろ。奥の部屋に転がしてある」
教えられた部屋に足を向けると、その言葉のとおり、縛り上げられた夜神樹里がぐったりと床に横たわっていた。
取引には夜神樹里が鍵となるため、再三に渡って傷付けるなと言い含めている。しかし樹里の服はやけによれているではないか。よく見ると、口の端に血が滲んでいる。
「おい、何をやった?」
「何もしちゃいねえよ。あんまり暴れるからちょっと黙らせただけだ」
「馬鹿か、おまえは」
メロは見張りの構成員を鋭く睨めつけ、板チョコを音を立てて噛み砕いた。
「弾みで殺しでもしたらどうする? いいか、余計なことはするな。おまえらはただ俺の言うとおりに動けばいい」
「あ、ああ、わかった。悪かったよ」
組長のお気に入りであり、ひいては組の支柱となっているメロに逆らう者は一人もいない。見張りを追い出して、メロは樹里の前に膝をついた。
「……夜神月は取引に応じるとさ」
閉じられていた樹里の瞼がぴくと動いた。瞼が持ち上がり、開いた瞳がメロへ向けられる。だが、まなざしは茫洋としていて焦点が合っていない。大きな両の目から涙があふれ、とめどなくこぼれ落ちては腫れた頬を濡らしていく。
メロはそれを見ても、痛ましいとは感じなかった。
ここまで来るのにメロは何でもやった。ニアに勝つのに手段など選んでいられない。どんな手を使ってでも、ニアよりも先にキラの正体を暴く。他人を踏みつけるのも己の手を汚すのも、覚悟はとうに決めていた。
「夜神月が家で不審な行動を取ったことはなかったか? そうだな、たとえば……ニュースや新聞を見たときだ」
「…………」
「弥海砂とはどうやって知り合った?」
何を問いかけても、彼女は反応を示さない。
「チッ……」
思わず舌打ちが漏れた。夜神樹里はどうやら自失状態にあるらしい。だから丁重に扱えと言ったのに、あの馬鹿どもは……
メロは不正にFBIの情報を盗み出し、SPKには密かにパイプを繋いで、日本警察の情報を入手していた。加えて、独自に調査して判明したこともある。Lが流河旱樹と名乗って夜神月に近付いていたこと、第二のキラ・弥海砂がキラにメッセージを送った直後に接触したのが夜神兄妹であること。
キラは夜神月。では、どうやってそれを証明するのか。
単純な話だ。目の前で殺しをさせればいい。夜神樹里を使って誘き出せば、容易に事は運ぶだろう。まずは適当な人間を殺させ、そのうえで能力を奪う。
キラの正体を暴き、かつキラの能力を手に入れて絶対的な一番になる。
もしキラが夜神月でないのなら、今度は兄妹を人質にして日本警察に弥海砂の身柄を要求してもいい。いずれにせよ、キラの能力はメロの手中に収まるだろう。
メロはこの舞台を整えるためだけに、悪事に手を染め、人を殺し、今の組織に潜り込んだ。組の人間は組織を大きくするための計画だと信じ込んでいるが、事をなした後で彼らがどうなろうと知ったことではない。
立ち上がり、チョコレートの最後の欠片を口に放り込む。
足元に転がる夜神樹里を見下ろした。樹里は虚ろな表情で声もなく泣き続けている。いや、何やらしきりにぶつぶつと呟いている。
「お兄ちゃん、早く迎えに来て……樹里をひとりにしないで……お兄ちゃん……おにいちゃん……」
ないな、と思った。
SPKのハル・リドナーがもたらした情報のひとつ、弥海砂の「キラは夜神樹里」という証言――ひとまず頭の隅に追いやっていたのだが、確定だ。この女はキラではありえない。この無様な女が、Lの追跡をかわし続けているキラであるはずがない。
「キラを踏み台にして、俺はニアに勝つ。一番になる。……あんたはそうやって這いつくばって見ているといいさ」
この声がもはや彼女に届くことはないとわかっていて、メロはあえてそう告げた後、その場を立ち去った。
――樹里がひとり取り残された部屋に、ククッと薄気味悪い笑い声が響く。
たとえメロや他の誰かが樹里とともにいたとしても、その声を捉えることも、姿を認めることもできない。死神リュークとレム。
「あいつら、すっかり兄貴の方をキラだと信じ込んでるぞ。肝心のキラはこうやって捕まってるのにな。面白ッ」
ライトがキラってのは、ある意味間違っちゃいないんだがな――という言葉を、リュークは呑み込んだ。レムにはキラの正体を黙っていた方が面白くなりそうだからだ。代わりに、どうしても笑い声が漏れ出てしまう。
笑うリュークには構わず、レムはじっと樹里を見つめていた。
「夜神樹里」
高い背をかがめ、樹里の耳元に顔を寄せる。
「夜神樹里、聞こえるか」
「お兄ちゃん、お兄ちゃん……」
いくら呼びかけようと、樹里の口からは兄を求める声しか出てこない。
「無駄だと思うぞ。ジュリがこうなるとなかなか戻らないからな」
「…………」
レムは、樹里が求めるなら脱出の手助けをしてやってもいいと思っていた。
このまま樹里が捕まっているか、最悪殺されでもしたなら、キラの裁きが止まり、ミサの命が危うくなる。樹里を助けるのに人を殺せばミサの寿命を延ばすことに繋がってレムは死んでしまうため、そこまではできないが、ルールを多少破って手を貸すくらいはしよう、と。
しかし、樹里がこの様子では……
ミサを救うには樹里を頼るしかなかった。
夜神樹里の、キラの存在がミサの処刑を先延ばしにしてくれているのは確かだ。だが、それでミサが自由になるわけではない。夜神樹里にはミサを助けられない。
……夜神樹里は、もう駄目だ。
そう判断して、レムは白い飛膜を広げた。
「ん? あっ、おいレム、どこに行くんだ?」
リュークの問を振り切り、壁をすり抜けて外に出ると、空へと羽ばたく。
飛び立ったレムはまっすぐに目的地を目指した。
樹里が連れ去られる間、周囲をよく観察していたため、この場所がどのあたりかは大まかに把握している。死神界の穴を使うまでもない。
やがて目当ての建物に辿りつく。
またも壁をすり抜けて侵入し、ちょうどよくその人間を見つけた。部屋に一人しかいないことを確かめ、長大な指先に摘んだ紙片を、人間の手に触れさせる。
「う、うわっ……!?」
人間にとっては、異形の怪物が突然目の前に現れたかのように見えただろう。悲鳴を上げ、仰け反った勢いで尻もちをつく。レムはすばやく人間の口を塞いだ。
「私は死神のレム。私がおまえに危害を加えることはない。いいな、落ち着いて聞け。夜神樹里はキラだ。私は夜神樹里がどこに捕らえられているか知っている。おまえが第二のキラ、弥海砂を自由にすると約束するなら、夜神樹里の居場所を教える」
驚きに固まっている人間を見下ろし、レムは言った。
「私と取引をしよう。夜神月」