16

「幸子、樹里は……そうか、まだ帰っていないか。わかった」
 総一郎は蒼白い顔で自宅との通話を切った。固唾を呑んで成り行きを注視していた刑事たちが、それを皮切りに嘆ずる。
「そんな、何で樹里ちゃんが!」
「キラの能力と交換とは……犯人はいったい何を考えているんだ……」
 捜査本部に舞い戻った月は、事の仔細を余さず皆に伝えていた。LやSPKは例外として、月は十分な信頼を得て捜査本部での立場を築いている。誘拐犯の言い分は、第三者からしてみれば、根拠のないでたらめと無茶な要求でしかない。
 月も電話を終え、携帯を片手に持ったまま報告する。
樹里は学校を出て、帰り道が分かれるまでは友達と一緒だったそうだ。樹里の友達全員に確かめたが、その後で樹里とメールや電話をしたという者はいなかった。まずは通学路の近辺で目撃者を探すのが――父さん? 大丈夫か?」
「ああ……」
 総一郎は頷くも、虚ろな響きを伴う相槌だった。今に膝をついてしまってもおかしくはない。彼を支えているものは今、部下と息子への矜持のみだった。
 一方で、刑事たちはひそひそと言葉をかわす。
「月くん、何で樹里ちゃんの交友関係を完璧に把握してるんですかね」
「……まあ、今はそんなことを気にしている場合じゃないだろう」
「いや、気になりますって!」
 松田のしつこい囁きを無言で振り払って、相沢はこう提案した。
「局長、本庁に連絡しましょう。これはキラ事件とは訳が違います、正式に誘拐事件として扱うべきです」
「待ってください」
 すでに受話器に手を伸ばしている相沢を、月が即座に制する。
「犯人は僕がキラ事件の捜査員であり、かつては容疑者であったこと、第二のキラが捕まっていることまで知っていました。誘拐犯、あるいはその協力者が警察内部にいるのは間違いありません」
「不用意に情報を流しては、こちらの状況が筒抜けになるだけか。しかし、この人数で捜査ができるとは思えないが……」
「向こうは僕がキラだと決め付けてかかっている。そこから糸口を掴めないでしょうか」
「ううむ……」
 相沢は唸り、黙り込む。すると、他方から意見が上がった。
「月さんがしたように、取引に乗ったふりで犯人を誘き出すのも手ではありますね」
「あっ、N、また!」
 Nは松田の抗議など何の痛痒もなしに越境してくる。領域が分断されていても同じ室内だ、SPKもこの騒動を把握しているのは当然だった。
「弥は『能力を分ける』とメッセージビデオで言っていました。月さん、キラはそんな芸当ができるんですか?」
「……N、誘拐犯が掴んでいた情報は警察の上層部しか知らない」
 Nはこれまでもそうだったように、月がキラである前提で話を進めている。明らかな扇動だ。月はあるだけの自制心をかき集め、努めて静かな語調で続ける。
「第二のキラの拘束に至っては、この捜査本部内で留められていて、長官にさえ知らされていないんだ」
「そうなんですか」
「とぼけるなよ。僕がキラだと決めつけるために、おまえが誘拐事件を仕組んだんじゃないのか? 僕が疑われるのはまだ我慢できる、だが、妹まで巻き込むな!」
 抑制はあっけなく消し飛び、月はNに掴みかかった。SPKのメンバーがすぐさま駆けつけて間に入り、刑事たちは慌てて月を押さえる。
「罠だ、これはNの罠だ、Nが僕を陥れるために仕組んだ罠だ。SPKに情報を渡した途端に樹里が攫われるなんておかしいじゃないか、それが罠だという証拠」
「やめろ月くん! そんなことは証拠にはならない」
「Nだって、さすがにそこまでは……」
「そうですね、私ならそんな非合理な手段は取りません」
 ただし、私の知るもう一人ならやりかねない――Nが暗にほのめかした内容を察せられたのは、その場には二人しかいなかった。月には火に油を注ぐ発言でしかない。SPKに庇われて平然と立つNと、取り押さえられていても今にも飛びかからんばかりの月。
「誘拐犯は警察内部と通じている、これは間違いない」
 と、助け舟と言うにはどちらに対してもやや遅いタイミングで、離れた場所でティーカップを傾けるLが告げた。
「ここにいる捜査員の顔はすでに割れていると思っていいでしょう」
「ええっ! それじゃ、どう捜査するにしても詰みじゃないですか!」
 松田は叫んでから、総一郎の幽鬼のごとき佇まいと月の好青年らしからぬ形相に気が付いて、しまったと口を塞いだ。にわかに立ちこめた気まずい空気にも、Lは我関せずと紅茶をかき混ぜながら言う。
「人員の件は、あくまでキラ事件の応援として要請しましょう。いくらかの目くらましにはなるはずです。こちらの動きを掴まれるということは、逆を言えば、陽動や偽装がやりやすくなる。内通者が誰にせよ、取れる手立てはあります」
「……わかった。取り乱してすまない」
 Lの話を聞くうちに、月の激昂は治まっていた。刑事たちは慎重に様子を窺いながら、抗うのをやめた月の肩からおそるおそる手を放す。皆を見渡す月の表情からは、ひとまず剣呑さは消え去っている。
「僕は予定どおり家に帰るよ。幸い明日は土曜だ。母には、樹里は友達の家に泊まるとでもごまかしておく」
「月、母さんには私から話そう」
 総一郎が口を挟む。彼は先の騒動にも鈍い反応をしていたが、息子の申し出にようやく父としての立ち居振る舞いを思い出したのだった。しかし月は受け入れなかった。
「僕たちはなるべく普段どおりを心がけ、目立つ行動は避けなければならない。Lが言っているのはそういうことだ」
「だが、おまえにそんな役目を……」
「構わないよ。それに、僕なら多少強引にごまかしても母さんは不自然に思わない。樹里の世話を焼くのはいつも僕の役目だからね」
「そ……そうか……」
 そうまで言えば総一郎は引き下がった。刑事たちからも異議はない。
 LやNが月に誰かをつけようと言い出しても無理なく断れる、完璧な主張だ。月は己の策に溺れて、この発言が堂々のシスコン宣言になっており周りが微妙に引き気味なことにまでは気が回らなかった。


 先ほど樹里から外泊すると連絡があり、急なことなので母に叱られないよう取りなしてほしいと頼まれた――月が披露した言い訳は、日頃の素行のよさもあって、すんなりと母を丸め込むことができた。
「そういえば、お父さんから樹里はいるかって電話があったけど……」
「ああ、それが樹里のやつ、僕に電話する前に間違えて父さんにかけたみたいでさ」
「そうなの。だからお父さん、あんなに慌ててたのね。樹里の友達って、まさか男の子」
「ない。絶対にない。そんなことがあるわけがないよ」
「……はあ、そうよねえ。あの子ったらいつまでもお兄ちゃんにくっついて、そろそろ彼氏くらい作ってもいいのに」
「何を言ってるんだ母さん、樹里にはまだ早いだろ」
「ライトがこれだものね。あんまり樹里を甘やかしちゃ駄目よ」
 母の小言もそこそこに自室に引き上げた月は、いつもの習慣でドアに鍵をかけ、椅子に座った。けれどもすぐに立ち上がり、うろうろと落ち着きなく歩き回る。
 月が家に帰ってきた理由は父に説いたとおりだが、もうひとつある。憎らしいNや邪魔なL、その他の誰にも煩わされずに一人きりでじっくり考えたかった。
 ――樹里と引き換えにデスノートを渡すべきかどうか。
 いや、駄目だ。
 冷静になった今でも、誘拐犯と通じているのはSPKだという説を月は捨てきれない。デスノートの秘密がNに伝われば連鎖して兄妹の無実はひっくり返り、二人とも死刑台に送られる。仮にSPKとは無縁の、単独犯による誘拐だとしても危険性は変わらなかった。犯人は取引を終えたら、まずは足がつかないように月と樹里を殺そうとするだろう。
 どう転んでも分が悪すぎる。しかし、樹里を見捨てるという選択肢だけはありえない。くそっ、どうすれば……
 出口のない思考の迷路。ふと、目の端を何かがちらついた気がして顔を上げた。縦に裂けた瞳孔と目が合う。まるきり出来の悪い骸骨みたいな巨体が月を見下ろしている。
 レム!?
 驚愕を咄嗟に皮膚の下に押し込めた。なぜここにいる? 樹里はどうした? すぐにでも問い詰めたい衝動を堪える。レムは月たち兄妹の明確な敵だ。月もまたキラであり、レムが見えていると明かすわけにはいかない。
 レムは腕を伸ばし、太く鋭い指先で月の手の甲に触れた。乾いた感触。――デスノートの切れ端!
「うわっ……!?」
 さもたった今レムに気付いたかのように、月は大げさに仰け反って床に転んでみせた。レムはすばやく屈み、巨大な手で月の口を覆う。
「私は死神のレム。私がおまえに危害を加えることはない。騒がずに落ち着いて聞け」
 月は額に汗を滲ませながら、ゆっくりと頷いた。それを見て、言葉を継ぐレム。
「夜神樹里はキラだ。おまえが第二のキラ、弥海砂を自由にすると約束するなら、夜神樹里の居場所を教える。私と取引をしよう。夜神月」
「…………」
 馬鹿か、いきなり手のうちをすべて晒してどうする。
 僕が「キラは必ず捕まえるべき」という思想の持ち主だったら……いいや、レムの頭の程度は予想の範囲……なら、こいつを僕がどう利用するかが……
 すさまじく思索を巡らす月のさまをどう捉えたのか、「大声は出すなよ。いいな?」レムはそっと手を外す。
「し、死神だって……? 弥海砂はやはり第二のキラ……そして、樹里がキラ……」
 月はうわ言のように呟きながら椅子にすがって身体を起こすと、どうにかそこにかけるという演技をして、改めてレムと向き合った。
「それが本当なら……そうか、死神を見せ合うとはそのとおりの意味だったんだな。弥はおまえの力で殺人を行っていた。樹里も……」
「ああ、そうだ。ミサには私が死神の能力を与えた。夜神樹里に能力を与えたのは、私とは別の死神だがね。……私の言うことを信じるんだな?」
「信じるしかないだろう。君のようなモノの存在を目の当たりにしたんだ。樹里がキラの正体だとは、信じたくないが……」
 レムは、頭を抱える月をじっと観察している。衝撃の事実に打ちのめされているふりで十分な間を溜めてから、月は目を上げた。
樹里がキラだというなら、樹里の死神はどうしたんだ」
「一口に死神と言っても、いろんなヤツがいる。私はミサにはちょっとした思い入れがあるが、大抵の死神は人間に興味や執着を持たない」
「つまり、僕のもとに来たのは弥のためなんだな? 弥が第二のキラだという物証は上がっている。死刑も時間の問題。キラがいなくなれば、警察は弥を生かしておく理由はない。弥を生かすには樹里を助けるしかない……」
「……私の真意がどうであれ、私とおまえで、夜神樹里を助けるという目的は一致するはずだ。違うか?」
「では、なぜ僕に? 取引を持ちかけるなら父でもよかったはず、いや、警察への発言権を考えれば父さんの方が……それ以前にレム、君が直接樹里を助ければ済む話だ」
「死神にも厳しい掟があってね。死神の能力の行使と付与以外で、人間の生死を左右するような真似は許されていない。こうしておまえに助力を求めるのもギリギリだろう」
 助力だって?
 いざ面と向かって話をして月がレムに抱いたのは、強い不信感だけだった。
 デスノートのことを「死神の能力」とぼかして語り、死神の目についてもつまびらかにしない。レムが樹里を助ければ、好意を持つ人間の寿命を延ばすことに繋がり、代わりにレムが死んでしまうという事情も。
 ……結局レムは、そこまでして樹里を助けるつもりはないわけだ。
「おまえを選んだ理由は簡単だ」
 冷えきった月の内心を知りもせずレムは言う。
「ミサはもう能力を失って、私は今は夜神樹里に憑いている。私はしばらくこの家でおまえたち家族を見ていた。そして夜神月、おまえならキラの正体を知っても夜神樹里を助けるだろうと、そう思った。……父親の方は、あまり家に帰ってこなかったからね、よく知らないんだ」
「そういうことか。ああ、僕はキラを追ってはいるが、法で裁けない犯罪者に対して思うところがないわけではない。キラは犯罪者しか殺さない、誤って事故を起こした者や情状酌量の余地のある者までは裁いていない……キラは殺人者だが、僕の理想の体現者でもあったんだ。そんなキラが樹里だというのなら、キラはこの先も決して道を踏み外すことなく正しい世界を築いてくれると信じられる」
「……そういった難しい話じゃないんだが。まあ、納得したならいい」
「死神の能力はどうやって人を――いや、これは聞かない方がいいんだろうな。レム、今の質問は忘れてくれ」
 さて、茶番はこのくらいにしておこう。
 月はひたとレムを見据え、誠実さに満ち満ちた口調で力強く訴えた。
「僕は樹里を捕まえはしない。そして、弥が一刻も早く解放されるように力を尽くす。キラが捕まらず、弥も能力を失っているなら、弥の監視は徐々に解かれるだろう。これが僕にできる精一杯だ。どうだ?」
「……いいだろう」
 レムからの否やはなく、そうして告げられたのは、捜査本部からも夜神家からもほど遠くない場所だった。三日後には月と取引をしようというのだ、犯人の拠点であると見て間違いない。
「場所だけを特定しても他の者に怪しまれる。拠点を割り出すのに不自然でない情報があるといいんだが」
「誘拐には内田組という組織が関わっている。組長の名前は内田狩須。誘拐の指示をしていたのはミハエル・ケールという。樹里と同じ年齢の人間だ」
樹里と同じ? まだ子供じゃないか――」
 欧米人の少年。脳裏をよぎったのは、ふてぶてしい態度のNだった。
 Mihael……M?
 Lの次はMじゃないのか、と言っていたのは松田だったか。嫌な符号だ。無論それだけで決め付けることはできない。だが、やはりという思いが強かった。――だとしたら、厄介ごとをいっぺんに解決できる。
 月は浮かんだ不遜な笑みを、すぐさま人好きのするものに整えて死神に向けた。
「そこまでわかれば十分だ、レム。助かるよ」


 翌日、月は捜査本部を訪れた。
 本部のシステムから警察のデータベースにアクセスし、内田組の情報を引き出す。あとは、あたかも調査の末に絞り込んだかのように皆に提示する。
 警察と繋がりを持つのだから、犯人は個人ではなく組織である可能性が高い。そして構成員は日本人だ。白昼から樹里を攫うなど、海外の人間がやったのではあまりに目立ちすぎる。ひとまず関東圏で勢力を伸ばしつつある組織に絞り、そのうち内憂を抱えているものや他と抗争中のものは除外して……適当な理由も一緒に並べ立てると、捜査員たちは月の話を頭から信じ込んだ。
「すごいぞ月くん。短時間でよくここまで」
「今日のうちにこの廃墟に内田組の者が出入りするのを確認したら、犯人からの連絡を待たずに突入しよう」
「ああ、現場に派遣する捜査員を……」
 Lは刑事たちが段取りをつけているのをじっと観察しており、Nは話を聞いてはいるようだがプレイマットの上で何やら模型を組み立てている。この二人が余計な横槍を入れないかを月は懸念していたが、どうやら杞憂だった。
「父さん。少し考えたんだが……」
「どうした、月?」
 突破口が見えたことで、総一郎は昨日よりも溌剌としている。月はレムがこの会話に耳をそばだてているのをちらと確認し、続きを口にした。
「弥のことだ。一度解放して、様子を見るのはどうだろう」
「……ふむ。何か考えがあるのか?」
「そういうわけじゃないんだ。ただ、樹里が今どんな辛い思いをしているかと考えると……こんなことを言うべきじゃないとはわかっている。しかし、このまま彼女を拘束し続けるのはあまりにも……」
 月が沈痛な面持ちで告げると、捜査員たちも次々に同意した。
「無理もないよ。月くんはまだ大学生なんだ。弥もかなり衰弱しているし……」
「もう尋問で情報を引き出すのは難しいだろうな。キラの能力が人から人へ渡るものだとすると、泳がせた方が何かわかるかもしれない」
 議論を交わすうち、皆の視線がLに集まる。弥海砂の身柄を拘束するという強硬策を取ったのも続行しているのも、すべてLの決断である。
「確かに、弥に関しては別の手立てに移るべき時期かもしれません。樹里さんを救出した後でまた考えましょう」
「ああ、それで構わない」
 今はこれ以上の結論は出せまい。レムに聞かせてやるには十分だ。月はまじろぎもしないレムにもう一度だけ目をくれ、それからもう彼女を見ることはなかった。
「月くんの調査能力を疑うわけではありませんが、空振りもありえます。私と茂木さん、本庁からの増援の半数は、犯人と取引する前提で動きます」
「半数? それでは増援の意味がないぞ。突入にも人数が必要だ」
「では、SPKの手を借りてはどうですか」
 Lの提言に、今度はNに注目が集まった。
「……わかりました。共同捜査ですから。レスター指揮官、細かいことは任せます」
 樹里救出にあたり、捜査班は二分されることになった。Lなら月に張り付いて一挙手一投足を見張りたがるものだと思っていたが、そうはならなかった。月にとっては都合のいい状況だ。しかし、何か狙いがあるのか?……
 Lもニアも、誘拐犯の正体には察しがついている。
 メロだ。
 夜神月がキラだと証明するには、殺しの手段を見せてもらうのが一番だ。こうも攻撃的な手を打ってくるのは予想できなかったものの、メロの行動はLの思考と方向性は合致している。であれば、メロにはなるべく干渉しないでおきたい。
 それがLの真意である。Lはこれまでずっと月を監視していたが、とうとう尻尾は掴めなかった。別の手立てに移るべきなのは、弥ではなく月に対してだ。すぐそばで観察するよりも、事件の全体を俯瞰したい。一方で、月の動きは把握しておかなくてはならない。その役目を果たせる位置にはニアがいる。ニアもまた、Lとメロの思惑を理解し、そのとおりに動こうとしていた。
 ――そしてこの誘拐事件において、月を信頼しきっている日本警察と違い、二人はやけに月の要領がいいことに違和感を覚えていた。とは言え、キラの能力は人捜しができるようなものではない。
(それほど推理力が卓越しているということか。Lに匹敵する……となると、やはりキラは夜神月しか……)
(この手際のよさ、まさか妹に発信機でも仕込んでいるのか……? 夜神月、万が一キラではなかったとしても、この男は悪なのでは……)
 月はキラ容疑のみならず別方向の疑いまで深めてしまっていた。