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 靴が砂を食み、微かな足跡を残す。
 照りつける眩い太陽。時に強く吹きつける風に、流れる砂粒が色をつけている。見渡す限りの砂の原、どこまでも続く青空と黄金の地平、そして延々と連なる……
「くそっ、エドガーの野郎め、何を考えてこんな辺鄙な場所に城なんぞ建てやがったんだ!」
 怨嗟の声だ。
 ケフカがこうも忌避するのならそれだけで十分な価値はある、と、サレナは歩を緩めることなく考えた。城を建てたのは現フィガロ国王ではないし、先王がこの地を選んだのにはもちろん何かしら別の理由があるのだろうが。
 誰しも慣れない砂漠の旅路を、その間中ケフカが騒いでいるものだから、彼の後ろに付き従っている二人はげんなりとした表情を隠せないでいる。当初はチョコボを手配する予定だったが、ケフカが「この高貴な私が畜生などに乗れますか!」と唾を飛ばすので、あえなく不採用となったのだ。
「もういやだー! ぼくちんもうこれ以上歩けないよ!」
「どうぞ、そのまま干からびてくださって一向に構いませんよ」
 ついに駄々をこね始めたケフカを補佐官としての建前もなく切り捨てたのは、サレナもまたこの砂漠の暑さに参っていたからにほかならない。
 意外なことに、ケフカはさらにごねはしなかった。サレナが相手にしなかったからか、座り込んだところ砂が思った以上に熱かったのか、代わりに部下に八つ当たりすることに決めたらしい。
「靴の砂!」
「ははーっ」
 跳ねるように立ち上がったケフカの砂まみれの靴を、一人がひれ伏さんばかりに跪いて拭っている。
 自分だけが先に行くわけにもいかず、サレナは足を止め、無言のままにその茶番劇を眺めやった。するとちょうど、もう一人の部下が手持ち無沙汰な様子でこちらをちらりと窺ったのと目が合う。
 しばしの沈黙。
「…………サ、」
「わたしは結構」
 サレナは素早く足を引いた。
 経緯はどうあれ、無事にフィガロ城の姿が見えてくると、ケフカは俄然気力を取り戻し、足取りも軽くなった。
「ケフカ様ではありませんか。本日はどういった……」
「どけ!」
 フィガロの門衛を突き飛ばし、強引に城に押し入ろうとする。
 易々と通すわけにもいかず、かと言って手荒な手段を取ることもできず、門衛は当惑しているようだ。サレナは彼らに向かい、懐から国書を取り出して見せた。その間にもケフカは城門をくぐっている。
「本日は、我が帝国の同盟国であるフィガロのお力を借りたくお願いに参りました。火急の用件ですので、すぐにでも国王陛下にお目通り願いたい」
「か、かしこまりました。では、こちらへ」
「案内は不要です」
 短く断り、サレナも城の中へと踏み入った。
 どういう構造をしているのか、石造りの城内の空気は、外と打って変わって涼やかだ。ケフカの背には、早足で歩けばすぐに追いつくことができた。
「最低限の手順くらいは、踏んでいただかないと困ります」
「手順?」
 隣に並んだサレナが鋭く囁いたのを、ケフカは鼻で笑い飛ばす。
「私がここまで来てやったんですよ。こいつらには十分すぎるほどでしょう!」
「……そうかもしれませんね」
 サレナは肩をすくめた。重ねて諌めなかったのは、あちらにしてみればサレナの対応もケフカのものとそう変わるまいと思ったからである。
 玉座では、フィガロ王が無礼な来客を待ち構えていた。
「これはこれは、帝国の魔導士殿が、遠路遥々このフィガロに何の御用かな?」
「娘を出せ! ここにいることはわかってるんだ」
 鷹揚に切り出したフィガロ王に、早速ケフカが噛みつく。……とことんまで手順を飛ばす男である。しかしそれでも、まだ年若い王が穏やかな笑みを崩すことはない。
「はて。娘なら、星の数ほどいるがなあ……どの娘のことだ?」
「我が帝国の兵士がひとり、任務中にこのフィガロで行方知れずとなっているのです」
 サレナがそう言い添えると、フィガロ王の視線が初めてこちらへと注がれた。
 ほんの一瞬だけ、その顔から笑みが消え去る。
 両国間で同盟が結ばれているということを考慮しても、他国の軍人が断りなく自国に入り込んでいたとなれば大問題となる。けれども、力関係は圧倒的に帝国の側に分があり、フィガロは帝国の振る舞いに抗議できる立場にない。サレナはあえて率直に事実を述べることで、それを強調したのだった。
 つまり、大人しく白状しろと遠回しに重圧をかけたのだが、王の表情が変わったのを見るに正しく汲んでくれたのだろう。
「――あなたは?」
「失礼いたしました。国王陛下にはお初にお目にかかります。ガストラ帝国軍、サレナ大佐です」
「フィガロ国王、エドガーです」
 エドガーは優雅な所作でサレナの前に立った。
「いや、それにしても、帝国軍にあなたのような美しい方がいらっしゃったとは」
 にこやかに嘯くエドガー。
 サレナの眉が僅かに上がる。よもや、世辞などで誤魔化すつもりではあるまいな。
「件の兵が、この城に入ったのを見た者がおります。……下手に隠し立てなさると、我々も相応の手段を取らざるをえません」
「隠し立てなどと、とんでもない。ただ、他のご婦人のことを思い出すのが難しいだけですよ。なぜなら今、私の瞳には、あなたしか映っていないのだから……」
 甘やかに囁き、エドガーはサレナの右手を掬うようにして取った。
 緩やかな笑みの曲線を描いているかたちのよい唇が、サレナの手の甲に触れる。そんなはぐらかし方をされたのは初めてだったので、サレナはのけぞりそうになった。実際には、半歩後退りする程度にとどまったが。
 ――と、それとほぼ同時に、ケフカがエドガーの手を容赦なく叩き落とした。
「帰りますよ! サレナ!」
「は……」
 サレナが返事をするよりも早く、強引にサレナの手を引いていく。肩が外れそうなほどの力で引っ張られては、サレナはよろめきながらも彼の後を追うほかない。
 突然の暴挙にも変わらぬ微笑を保ったまま、エドガーは臣下に言いつけた。
「――客人のお帰りだ。お見送りして差し上げろ」
「ケッ、せいぜいフィガロが潰されないように祈ってるんだな!」
「お気遣いには及びません、とのことです。失礼いたします」
 建前だけでも取り繕うべく、ケフカの吐いた呪詛を「翻訳」する。
 ほとんど引きずられるように、サレナはケフカの後に続いて退室した。ケフカは肩をいからせ、大股で廊下を突き進む。彼に掴まれている手は握り潰されんばかりで、指先の感覚がなくなりつつあった。
「ケフカ。手を離してください」
「うるさい。少しは大人しくしていろ!」
「しています。フィガロ王にはまだ尋も――交渉、の余地があったと思いますが」
「フンッ、そんなことを言って……まったく、あなたの気の多さにほとほと呆れますね!」
「何を言っているのか理解できません」
「あなたほど馬鹿な女は見たことがない!」
 何と答えても語気の荒い言葉しか返って来ないので、サレナは諦めて口を噤んだ。
 城外では部下の二人が待機していたが、サレナとケフカの姿を見てぎょっと目を丸くする。同盟国の王相手に交渉に向かった上官二人が数分足らずで手を繋いで飛び出してきたら、誰でもそんな反応をするだろう。
「あの女たらしめ! 相変わらず腹の立つ!」
 ケフカは喚き散らしながらサレナの手の甲を部下の背中に押し付け、その軍服でごしごし拭い始めた。哀れな部下は救いを求めるようにサレナを見る。
「あの……じ、自分は、何をされているのでしょうか……」
「すぐに飽きるでしょうから、好きにさせておきなさい」
 自らもされるがままになりながら、サレナは部下を突き放した。
 しかし、フィガロ王にはうまく乗せられてしまったような……体よく追い返されてしまったのではないか。ケフカの気が済んだようなのを見計らって手の自由を取り返し、それから尋ねてみる。
「これからどうなさるおつもりです。まさか、本当に帰国するのではないでしょう」
 フィガロ王のあの口振りからして、魔導の少女と関わりがあるのは明らかだが、どうにも腹の底の読めない男だった。粘ったところで、彼女の居場所を聞き出すのは難しかったかもしれない。
「ふん……魔導アーマーは?」
「セリス将軍の部隊から借用できます。お使いになりますか」
「ええ、そうしましょう」
 ケフカの表情からは、先刻までの激昂の感情は抜け落ち、僅かほどの痕跡も見当たらなかった。虚ろとすら言い表わせるような瞳に、今度は嗜虐の色が灯る。その口の端が、引き攣るように持ち上がった。
「鼠は炙り出すに限る……」
 部下の二人がヒッと息を呑みたじろぐ。
 この男の狂気に中てられたのか――サレナは顔色を変えることも身動ぐこともしなかった。
 此度の任務では、一時のものとは言え、ケフカはサレナの上官に当たる。ケフカがどんな決定を下そうともサレナに口出しをする権限はない。だから彼がそう言うのであれば、
「ご随意に」
 サレナの応えはこうと決まっているのだ。


 朝を迎えたばかりの砂漠の只中、煙を上げる殺人兵器が、悪趣味なオブジェのように佇立している。サレナは傍らでそれを見上げ、呟いた。
「……どうやら、逃げられたようですね」
 夜明け前の襲撃は無為に終わった。
 火をかけられたフィガロ城は、砂の海に潜行することでその被害を防いだに違いない。フィガロ王は、やはり匿っていた魔導の少女を連れて逃げ去ってしまった。
 そちらの方角に目をやれば、遠くに小さく、砂漠には稀な鮮やかな緑を見つけた。ほんの幾秒かのことで、すぐに見失ってしまったから、ただの錯覚だったのだろうか。
「役立たずどもが……!」
 ケフカは地団駄を踏んでいる。
「追いますか?」
「……いいえ」
 思いがけず冷静な返答があり、サレナはおやと思った。
「袋の中へ追いやるまではしてやったんです。口を閉めるのは、セリス将軍の仕事ですよ」
 確かに、彼らの行き先はおおよその見当がついており、こうなった場合の手筈をセリスと打ち合わせ、あらかじめ整えてある。それにしたって、レオに張り合って手柄を立てることにこだわるケフカらしからぬ台詞であった。
「ここはもういい。ドマへ行きます」
「ドマ? 我々の任務は魔導の少女を連れ戻し、次にリターナーの本拠地を叩くことでは?」
「知らん! いい子ちゃんのレオに、みすみす手柄を与えてたまるか!」
「…………では、わたしはここで御役御免だとい」
「あなたは私と一緒に来るんですよ! 何度言えばわかるんです!」
 皆まで言わせずにケフカが大声で喚く。
 ケフカはやはりケフカであった。フィガロ王を動かしたことで、この特務は完了していると言っていいが……少し考えて、サレナは補佐官の務めを果たすことにした。
「承知いたしました、すぐに出航の準備をさせます。――あなたには、これの処分を任せます。その後は、サウスフィガロのセリス将軍の部隊と合流なさい」
 後半は、部下へ向けた命令である。これ、というのは半壊している魔導アーマーのことで、もはや兵器としての用途はなさずとも、捨て置いて帝国の技術を漏洩させるのは防ぐべきだ。
「はっ。……あの、サレナ大佐」
「何か?」
 すでに部下に背を向けていたサレナは、首を巡らした。サレナの温度のない視線に射抜かれて部下はたじろいだ様子を見せるも、おどおどと口を開く。
「あの、遺……中の者は、どうすれば……」
「処分は、任せます。同じことを二度も言わせぬように」
 サレナは返答を待たずにさっさと歩き出した。
 レオは有能な将だ。ドマへの到着が遅れれば、ケフカの癇癪を浴びせられる羽目になるだろう。心中でドマまで向かう算段をしながらケフカの前までやって来たときに、彼が肩を震わせていることに気付く。
 笑っているのである。
「ふふ。うふふふふ……」
「どうしました。暑さで気でも違いましたか」
 サレナが冷視しても、それは一向に収まる気配がない。呆れたサレナが歩みを再開しようとした、まさにそのタイミングで、ケフカが言った。
「私はあなたのそんなところが好きですよ、サレナ
 突飛な言動はいつものことだが、さすがに面食らう。
 再び足を止めさせられることとなったサレナはケフカを見やった。その瞳の奥に何が揺らいでいるのか――
「わたしは――」
「あなたは、私のことが嫌いでしょう」
 先回りして、そう続けられる。
 何が面白いのやら、ケフカの笑みはますます深まってゆく。出端を挫かれたような気分になり、サレナは低い声で、一言だけ応じた。
「……よく、おわかりで」



「ドマは篭城の構えを見せている。しかるに我々は――」
 レオは陣に突然やって来たケフカに嫌な顔ひとつ見せなかった。むしろ幕舎に招いて、地図を前に丁寧に戦況を伝えたほどだ。堅実な策を打ち立てているレオに、しかしケフカは今にも唾を吐きかけんばかりだった。
「いい子ぶりっこのレオ将軍は、戦法まで模範的なようですねえ。まだろっこしい……俺なら一夜で片付けてやるがな!」
「何と謗られようと、ここで非道な行いを為すことは許さんぞ。ケフカ」
 ケフカの挑発にも、レオは冷静に応対していた。
 ところが数日して、皇帝より、レオに急遽帰還するようにとの命が下った。
 ガストラ皇帝は、自ら戦を指揮した経験は皆無であるとは言え、僅かな年数で帝国をここまで大きくさせた傑物である。この場面で大将を戦場から呼び戻すことが、戦況にどのような影響を及ぼすのかわからぬではあるまい。とすると、本国でよほどのことが起きたのか、もしくは――
 レオであれば、少々不当な扱いを受けたところで、その忠誠心にはいささかの揺るぎもないだろう。対して、ケフカは自分がすべての中心になりたくて仕方ない、むずかる子供と変わらない。
 皇帝の伝書鳥が運んできた言伝を知ったとき、サレナは思わずケフカに視線をやったが、レオの帰還に機嫌をよくするさまが見て取れただけで、解を得るには至らなかった。
 サレナは陣を離れるレオを見送りに行った。
「それでは将軍、どうか道中お気をつけて」
「うむ。後のことは任せたぞ、サレナ大佐。くれぐれも、早まった真似だけはせぬように」
 具体的に告げられずとも、ケフカのことを指しているのは間違いなかった。もっともそう言われても、サレナはケフカの補佐の任をいまだ解かれてはいないから、どうにもしようがないのだが。
「はい。ケフカ殿には、そのように忠言させていただきます」
 と、答えたサレナの内心を悟ったのかどうか、レオは苦笑を漏らす。
「まあ、君がいるなら、彼も常よりは大人しくしていることだろう」
 奇しくも先日のセリスと同じことを言う。あのときは特に異論を唱えることもしなかったが……誰しもにいつまでも誤解をされたままではたまらない。「レオ将軍」サレナはレオの名を呼び、抗議の口火を切った。
「わたしは、陛下と御国のためでしたらこの一命を捧げ奉る所存ではありますが、奴のために貞操までを差し出すつもりはありません」
 レオは、己よりも十は下かという歳の娘相手に、明らかに鼻白んだ顔をした。
「……それは、もちろんだ」
「ご理解いただきまして重畳です」
 丁重に礼をするサレナ
 そうやってレオを送り出してから陣へ戻ると、何やら騒がしい。
 陣の奥からケフカが駆けてくる。何事ですか、と問いかけたところで、「待て、ケフカ!」別の男の声が被さった。道着姿の巨漢が、ケフカを追いこちらへ向かってきている。
「待てと言われて待つ者がいますか! サレナ、後はあなたが何とかするんですよ!」
 ケフカは好きに言い捨てて、向こうへ逃げていった。あんな仰々しい衣装を引きずっていながら、よくああも敏捷な動きができるものである、と妙に感心する。
「……まったく、どこが大人しいのやら」
 こぼして、残されたサレナは巨漢の前に立ちふさがった。
 いかつい体つき、短く刈られた金髪。どこかで、つい最近に見かけた面貌のような気がするが――ドマの顔立ちではない。侵入者を自由に走り回らせるなど、見張りは一体何をしているのか。サレナの目が細まる。
「旅の者と見受けます。ここを帝国軍陣地と知っての狼藉ですか」
「どいてくれ! ケフカをこのまま野放しにしてはおけない!」
 男が焦れたように叫ぶ。
 その言葉にサレナはちょっと瞬き、それから頷いた。
「ええ、そうですね。それには同感です。……しかし」
 腰に佩いた剣をすらりと抜く。陽光を受けて輝く白刃の切っ先を、まっすぐに男に向けた。
「戦場で、臨時とは言え大将の首を取らせるわけにはいきませんので」
「……くっ!」
 男は唇を引き結び、拳を構える。得物を持つ相手に徒手空拳でかかってくるつもりとは、よほど腕に覚えがあるのか。
 だが、サレナは躊躇わず踏み込んだ。一閃。鋭い軌跡を描く剣先を、男は紙一重でかわす。勢いを殺さず横に払うと、今度は手甲で受けられた。瞬時の隙を、男は見逃さない。
 バックステップ。サレナは大きく後ろに跳んだ。切り返しの男の一撃は、重く、けれど驚くほど素早いものだった。十分すぎるほどの間合いを取り、剣の柄を握り直す。男が素手であると、舐めてかかっていれば避けられなかっただろう。見張りの兵は、すでにのされてしまったのかもしれない。
 不意に、男の視線がサレナから逸れた。
「あの野郎――本当に毒を!」
「……毒ですって?」
 男が目を向けている先には、陣の傍らを流れている川があった。清らかなせせらぎであったはずのそれは、どす黒く濁ったものに成り果てている。
 俺なら、一夜で片付けてやる――
 サレナは即座に理解した。ケフカが、川に毒を流したのだ。
 平野にあるドマ城は、レテ川から水を引いて、飲み水を始めとする生活用水のすべてを賄っている。水責め、レオがあえて取らなかった戦法のひとつがそれだ。もちろんすべての水路を押さえるのはそう容易ではないだろうが、毒を使えば、よりたやすく事は成る。
 サレナは舌打ちをこらえた。レオがいなくなった途端にこれである。
 手を打たなければならないことは様々にある――まずは、この男を捕らえてからだ。川に気を取られて隙を作っている、今! 地を蹴った。ハッと男がサレナが迫っているのに気付く。が、遅い。
 剣光を閃かせた刹那、獣の咆哮が轟いた。
 突如として現れた巨躯の犬に飛びかかられ、サレナはたまらず怯んだ。同時に、肩に衝撃。利き腕が痺れたようになり、剣を取り落としていた。左手を這わせてみれば、サレナの右腕から、柄のついた刃が生えている。
 投げナイフだ。その軌道を辿れば……黒装束の男。これまでどこぞに潜んでいたのか、仲間がいたのだ。
「すまない、助かった……!」
「構わん。退くぞ」
 黒装束が何かを放ると、たちまちそれから煙が吹き出し、サレナの視界を遮る。煙幕はすぐに薄れたが、彼らが逃げ去るにはこと足りたようで、煙が晴れた頃には、そこには道着の男も黒装束も犬の姿もなかった。
サレナ大佐!」
 今頃になって、ようやく他の兵が駆けつけてくる。
「申し訳ありません、侵入者が……すぐに追手を」
「捨て置きなさい」
 サレナは一蹴した。
「それよりも、あの道化が川に毒を流しました。川の水には触れぬよう、全軍に通達。並行して、飲み水と食糧の確保。それから、急ぎドマに使者を送りなさい」
「使者、ですか――」
「レオ将軍は戦をしに来たのであって、屍の始末をしに来たのではないでしょう。それにドマ城には、我が軍の捕虜もいると聞き及びましたが」
「……かしこまりました! ただちに!」
 兵が飛んでいったのを見送ってから、サレナはナイフを乱暴に引き抜き、地面に叩きつけた。
 傷口からは血が噴き出したが、手を翳して呪文を唱えれば止まった。刃に毒を塗られてはいないようだ。疼痛をこらえて地に落ちた剣を拾い上げ、佩きなおす。魔導の力が弱いサレナでは、完全に傷を癒すまでは叶わない。
 陣の外れで、ケフカの姿を見つけた。
「ああ、サレナ。先ほどは面倒をかけましたね」
 いつも浮かれ騒いでいるか怒り狂っているかのどちらかであることが多いケフカにしては、いやに理性的で凪いだ面持ちだった。これでまともな格好でもしていたなら、今まさに卑劣な手段で大勢の人間の命を奪った男だとは――兵にはああ命じたが、そもそも人の足で川の流れに追いつけるはずがないのだ――とても思えないだろう。
「あの忌々しいレオもいないのです。どうですか、これから二人でオーケストラでも聴きにいきませんか」
 それはただの逢瀬の誘いにも聞こえた。ここが平野の真ん中でも、さらに戦地でもなければ、だ。
 ヒヒッと引き攣れた笑い声につれて、穏やかな表情を貼り付けている仮面にヒビが入り、その下から次第に狂気の素顔が現れる。
「何百もの悲鳴が奏でる音楽は、さぞや聴きごたえがあるでしょうよ……」
 この男は一刻も早く死ぬべきだ。
 サレナの手は、知らず剣の柄を押さえていた。
 いや……サレナは長く息を吐きながら、ゆっくりと手を降ろす。先日、あの船の上で当人が口にしたように、サレナは今、ケフカを殺すわけにはいかない。
 あのときセリスに説いた言葉を、胸中で繰り返す。必要なのは、他を切り捨てること、そしてそれを割り切ることだ。
「――サレナ
 呼び声に、サレナは現実に引き戻された。
 先まではどこか夢うつつのようでもあったケフカが、今はひたとこちらを見据えている。そのまなざしにも声音にも、明らかな怒気がはらまれていた。
「……何か?」
「何か、ではありません! どうしたんですか、その傷は」
「あなたの置き土産からありがたく頂戴いたしました」
 ケフカは皮肉には応じなかった。
 ずかずかと近寄って来たかと思うと、サレナの腕を容赦なく掴む。サレナは苦痛の呻きを呑み込んだ。加減なしに触れられた創傷に強烈な痛みが走り――スッと跡形もなく消失する。
 帝国随一の魔導士の、完璧な治癒の魔法であった。
 切り裂かれた軍服の隙間からは、凝固した血がこびりついてはいるものの、滑らかな肌が覗いている。サレナは傷のあった箇所と、眼前のケフカの顔を見比べた。一体、何のつもりなのか。
「うっ……」
 口を開きかけたサレナは、今度こそ呻き声を上げた。
 咄嗟にケフカの手を振り払い、距離を取る。サレナが押さえている手のひらの下、先まで刃の痕があった肌には、ケフカの鋭く伸びた赤い爪が引っかいた、新たな傷が作られていた。
 ケフカはふんと鼻を鳴らした。そのまま背中を向ける。
「他の男がつけた痕などを、見せないでいただきたいものですね! まったく、不愉快です!」
「何を……馬鹿なことを言わないでください」
 抗言にも、ケフカは振り返らない。ケフカが行ってしまった後、置き去られたサレナははたともう一度ケアルを唱えたが、サレナのそれはやはり傷を完治させるには至らなかった。


 その後、侵入者たちとドマの生き残りが陣中で暴れ回るといった騒ぎがありはしたが、帝国軍は無事にドマに入城した。ドマを落としての最初の仕事は、数多の死骸を片付けることだった。
 ひとまずの始末をつけた頃には、すっかり夜も更けていた。
 城壁に上がったサレナは、清浄な空気を肺に吸い込んだ。亡者が住まう城の中はおびただしい死臭がこもっていたが、ようやくそれから解放されたのだ。
 眼下に広がる夜の平野。満ちる静けさ。頭上では、満天の星が輝いている。城で虐殺が行われたばかりとは思えぬ美しい光景だ。
サレナ!」
 そこに風情――屍の山が築かれた夜に、そのようなものが本当に存在するのかはさておき――をぶち壊す、招かれざる客が現れ、サレナは束の間の休息の終わりを受け入れた。
「何でしょうか、ケフカ」
「ご挨拶ですね! あなたはまた私から勝手に離れて……一体何をしていたんです!」
「……星を見ていました」
「ほしぃ?」
 サレナが正直に答えると、ケフカは馬鹿にしきった口調で言った。
「そんなものを見て、何が面白いんだか!」
「面白いですよ」
 せせら笑いを浴びせられながら、天を仰ぐ。
「この地上でどんな騒乱があろうと、あの瞬きは変わりません。大地のすべてを手中に収める者があったとしても、星々は決して誰のものにもならない……そう考えると、面白いでしょう」
「どうだかね」
 視線を戻せば、ケフカは肩をすくめてみせた。
「見ていなさい、サレナ。幻獣の、三闘神の力を手に入れれば……星だろうと何だろうと、すべて手に入れてみせますよ」
 不遜極まりない言葉を吐き、辺りに高らかな笑い声を響かせるケフカ。しばしそのさまを眺めやり、サレナはふと、吐息めいた笑みを漏らした。
 嘲笑であった。