3
「離反?」ドマの後始末がようやく終わり、次なる戦地に赴く道すがらでもたらされた報せは、セリスの脱走だった。
「ほー……セリスがねえ。帝国を抜け出して、一体どうするつもりなのやら」
というのが、ケフカの第一声だ。癇癪のひとつやふたつ起こすかと思いきや、身構えていたサレナは拍子抜けした。
リターナーの本拠地を突き止め、これを壊滅させるという作戦も、結果として末端の人間を捕えるだけにとどまった。リターナーの要人は、すべてナルシェへ逃げ込んだという。
「我々は急ぎナルシェに向かい、氷漬けの幻獣を回収せよとのことです」
「ナルシェね、いいでしょう。日和見主義の連中に、たまには痛い目を見せてやるのもいい」
と、つい先日にも、指令書を読み上げるサレナにケフカは鷹揚に頷いていたものだ。それもこれも、レオを出し抜いてドマ占領の手柄をせしめたためか。鼻歌でも披露せんばかりで不気味なことこの上ないが、大人しくしてくれている分にはとりわけ問題はない。
ひとつ、サレナが気になるのは、セリス離反のいきさつである。
セリスは背信を告発され、サウスフィガロの間に合わせの牢で処刑されるのを待つ身であったのを逃げ出していた。直前にセリスの心情を知らされていた身としては、彼女を諭した言葉は結局は無為だったようだが、遅かれ早かれこうなっていたのかもしれないという思いはある。
しかし……セリスは将軍だ。
その彼女を、誰がどのような権限を以て、裁判も何もかもを省略して極刑に処することができるというのだろう。当てはまる人物は、ごく少数に限られてくる。皇帝ガストラ――将軍レオ――それと、もう一人――
もしこの推測が的を射ていたとして、動機は何なのか? ドマでレオを退けた時とは状況が違いすぎる。セリスを追放したところで、果たして彼に何の利があるのか。
思考がすぐに迷路の出口にさしかかることはあるまいと察し、サレナは考えるのをやめた。いない者のことでいくら頭を悩ませたとて、埒が明かない。
当初の作戦はとうに完了していたが、サレナは補佐官の任を解かれぬまま、ナルシェへ進軍することとなった。
「斥候からの報告によりますと、現在、氷漬けの幻獣は谷の上にあり、リターナーもそこに集まっている模様です。ナルシェのガードには、動きは見られません」
「フン、蝙蝠どもは、あくまで中立を貫くつもりですか」
「渓谷を進めば、隊列は縦に細くならざるをえません。挟撃を警戒すべきかと」
サレナが進言すると、ケフカは気怠るそうに先を促した。
「サレナ。具体的には?」
「まず、ナルシェを叩くのがよいかと愚考します」
「ではそうしましょう」
間を置かず、ごく軽く言ってのける。
ナルシェは中立国であり、建前上、指令書にも幻獣「回収」とあって「強奪」とまでは、ましてや「攻撃」などと明記されはしていない。それを、あまりにあっさりと判断を下されたので、逆にサレナの方が返事を躊躇った。言葉に詰まっていると、ケフカは胡乱気なまなざしを寄越す。
「何ですか、その顔は。あなたが言い出したことでしょうに」
「いえ――すぐに、部隊を編成させます」
「ええ、ええ、構いませんよ、あなたの好きなようにやるといい」
……とは言え、第一の目的は幻獣の回収だ。
ケフカが率いる本隊は幻獣のいる谷を目指して進軍し、その間にサレナがナルシェを襲撃、先手を打って、本隊が背後から攻撃されるのを防ぐという手筈となった。
サレナたちは雪に覆われた山間で、ナルシェのガードと睨み合った。
「サレナ大佐。本隊がナルシェの防衛線を突破しました」
「では予定どおり、後続を断ったのち家屋に火を放ちます」
報告を受け、部下に指示するサレナ。ところが、伝令役はすぐにその場を動こうとしない。
「本当に、いいのでしょうか? ナルシェは中立国で……」
言いさした兵の顔を、サレナはつと見やった。
意を決したような表情を浮かべる、まだ幼さの残った面立ち。実直な意見も、それをありのまま上官に伝える蛮勇さも、その年若さからくるものだろうか。高い地位と低い評判のため、サレナに真っ向から異論を述べる者は少ない。
「叩くのなら、徹底的に叩き潰すべきです。住民に手心なぞを加えてもなりません」
じっと彼に目を向けていた時間はいかほどだったか、しばらくしてサレナの口からは白い息と、裏腹に雪よりも冷たい声音が吐き出された。
「そして、もしあなたが心からそう思うのなら、あなたは立案の際にその見解を述べねばならなかった。それができる立場にないのだとしても、今になってわたしにそう告げるくらいなら。違いますか?」
「違いません、大佐」
「よろしい。それでは、職務を全うなさい」
サレナは新兵から視線を外し、それきり興味を失くしてただナルシェを見据えた。
新兵が立ち去った後は、ざくざくと雪を割る皆の足踏みの音だけが響いていた。降る雪がなくとも、積もった雪の上では立っているだけで身体が冷えきってしまう。どんよりとした灰色の空は、しかしもうしばらくは持ちこたえてくれそうだ。
ふと、違和感を覚えた。
ナルシェは蒸気機関の街だ。ゆえに、街は常に蒸気に包まれ、暖められている。にもかかわらず――
蒸気が上がっていない。
「蒸気機関が止められているのでしょう。住民の退避が完了しているためではないでしょうか」
部下の一人を呼びつけ意見を尋ねると、どうしてそんな些事を問われるのかわからないといった顔だった。けれども、サレナの違和感は膨れ上がるばかりだ。
……突然に大軍に攻め入られた街で、とうに住民の退避が完了している?
おかしいと感じることは他にもある。そもそも始めから、街が混乱している様子がないのだ。ガードたちだって、大軍を前にした小隊という雰囲気が少しもない。
「本隊は、すでに交戦に入っている頃合いですね?」
「進軍に問題がなければ、ですが。今のところそのような報告は入っておりません、大佐」
サレナは首を巡らした。
もちろんこの場から谷の上を視界に入れることは叶わないが……渓谷が静けさに包まれていることは感じ取れる。雪崩の恐れがあるから、そう派手な魔法は使えないのだろう。
――魔法が使えない。
「谷の上へ向かいます」
すべてを悟った瞬間、サレナは即座に身を翻した。驚いて追いかけてくる部下に、次々と指示を出す。
「至急、足の速い者を選抜なさい。残りは動かずとも結構。ナルシェを攻めることはありません、このままここでガードと向かい合っていればよろしい」
「サレナ大佐、それはどういう……」
「連中にしてやられたということです」
これは、陽動だ。
挟撃の気配を匂わせ、部隊の一部をここに引きつけておく。兵力の分断。そして、帝国軍の一番の強みである魔法を封じる。それはこの雪国の特性を利用したものと、加えて、おそらくは――
雪深い道を進むのは困難かと思われたものの、本隊によって道が踏み固められていたことが幸いした。本隊が費やしたであろう時間よりも遥かに早く、山道を駆け抜ける。
そのうちに、雪に埋もれた魔導アーマーの残骸が目につくようになり、そして。
「ケフカ!」
雪の白と岩の灰にまみれた景色の中に、狂ったように色鮮やかなシルエットを見つけたとき、サレナは剣を抜いていた。同時にクイック――魔法による加速。
耳障りな金属音が高らかに鳴る。
今まさにケフカめがけて振り下ろされんとしていた刃を弾き飛ばし、すぐさま転じて斬りかかる。クイックと併用すれば、その軌跡は凡人には視認できない。
「カイエン、受けては駄目だ! 避けろ!」
サレナの切り返しを刀で受けようとしていた男が、声に反応して身をかわす。
剣はあえなく虚空を切った。切っ先が僅かに岩肌に触れると、たちまちに岩の表面を分厚い氷が喰らい尽くしていく。一撃を放つ際に、剣に魔力を流し込んでおいたのだ。
「おっそーい!」
サレナの背後でケフカが喚いた。
「ぼくちんを待たせるなんて、サレナちゃんも随分エラくなったもんだねえ~っ」
「それは申し訳ございません、お待ちいただいているとは露ほども存じ上げなかったもので」
どうやら憎まれ口を叩く程度の余裕はあるらしい。
眼前の男は、こちらから距離を取って刀を構えなおしている。どこかで見た顔だと思えば、先日のドマの生き残りである。
「なるほど……帝国に刃向かったなら、リターナーに加わるほか道はないのでしょうね」
そして男の向こうには、寄る辺を失くした幼子のように立ち尽くしている少女の姿。けれど彼女は抜き身の剣をその手に握り、サレナをしっかりと見つめ返した。
「セリス将軍、あなたも」
「サレナ大佐……」
セリスの唇から、先に放たれたものと同じ声がこぼれた。
魔封剣。兵力の少ない彼らがこうして勝負に出たのは、セリスの力によるところが大きいはずだ。彼女が敵対するとなればケフカは思うように魔法を使えず、そして魔法を封じ込められたならこちらの戦力は大きく削がれる。
率いてきた兵たちが負傷兵を回収しているのを横目で見て取り、サレナは剣を以て彼らと対峙したまま、ケフカの他には届かぬように鋭利に囁く。
「ナルシェのガードは抑えてあります。麓まで退けば、どうとでもなりましょう」
告げながら、口元を歪めたくなった。抑えられているのは果たしてどちらなのだか。
「これで勝ったと思うなよ……!」
ケフカは歯噛みし、けれども大人しく転移魔法の詠唱を始める。すぐに眩い光が辺りを包んだ。
「サレナ大佐!」
眩む視界の果てから、縋るようなセリスの声。
「あなたはどうして、帝国に従うんだ。帝国を、憎んではいないのか……?」
「わたしにあなたの信念を肯定しろと言うのですか?」
サレナは冷然と問い返した。
何故セリスがそのようなものを望むのか、理解に苦しむ。それに、何故その対象がわたしなのだろう、とも思う。ともに数少ない女軍人だったから? それともサレナの生い立ちが、彼女の琴線に触れたのだろうか。
「貫きとおしたいものがあるのなら、他の一切を捨て去ることを割り切りなさい――わたしはあなたにそう教えたはずですよ。セリス」
「サレナ……!」
セリスの声が遠ざかっていく。
光は急速に収束し、代わりに、目の前に真っ黒な穴が口を開ける。呑み込まれる。
瞬きをすると、そこはもう谷の上ではなく、ただ開けた雪景色が広がっていた。サレナの部隊が展開している場所から、そう離れてもいないようだ。僅かに溜息がこぼれる。
まずは、怪我人をどうにかしなければならない。ことを理解している兵たちはすでに銘々に動き始めていた。
「まったく、あの裏切り者がこんなところにいるとは。おかげでとんだ無駄足だ!」
裾の雪を払いながら、ケフカがぶつくさ言っている。いつの間に自身の傷を魔法で癒したのか、あるいは最初から負傷などしていなかったのか、ピンピンしているようだ。
これだけの彼我の兵力差があって、結果はこちらが被害を被ったのみ。損害こそ少なくとも、大敗には違いない。作戦を練り直すにしても兵の士気は大いに下がっているだろうから、ここは大人しく撤退するのが得策か。
「……わたしの読みの浅さが敗因です。申し訳ありませんでした」
サレナの謝罪を受け、ケフカは鼻に皺を寄せた。
「戦力が分断できなければ、奴らはそれこそ挟撃を試みたでしょうよ」
と、あえなく切って捨てられてしまう。
しかし、ケフカは臍を曲げるでもなく激昂するでもない。内心で訝しむサレナに、ケフカは今度は笑いかけ、媚びるような、穏やかな声を作って言った。
「安心なさい、サレナ。あなたには、あなたの望むまま、武勲を立てさせてさしあげましょう。まあ、それにはここで氷漬けの幻獣を手に入れるのが、一番でしたがね」
「それは……」
何とも返しようがなく、サレナは言い淀む。
ケフカはサレナが皆まで告げるのを待たず――もっとも初めから、こちらがどう応じようと意に介するつもりはなかっただろうが――まるで演劇の一幕のように、マントを捌いて大仰に天を仰いだ。
「でも、それよりも、もーっと面白いことを思いついたよ! ヒヒヒッ」
雪原をひとり、道化師が踊り狂う。
楽しげな表情の下で壊れた何かが蠢いているのを、サレナはただ黙って見ているよりほかなかった。
「……花言葉、ですか」
「ああ、薔薇ひとつを挙げても様々だ。赤い薔薇は愛情、白は尊敬……と」
講釈の途中で、セリスは口を閉じた。多弁が過ぎたと思ったからだ。
後から振り返っても、どうして彼女とそのような話をするに至ったのか、その顛末までをセリスは思い出せない。サレナがセリスへの所用を済ませに、珍しく魔導研究所の温室にまで足を運んだ。歳は違えど、二人ともに女の身でありながら軍の要職に就いている。兵の前では軍人らしく厳格に振る舞いながらも、本来のセリスは決してそうではない。それらの事実のいずれもが、セリスを常より饒舌にさせたのかもしれなかった。
セリスは決まりの悪さを誤魔化すために、口早にサレナに問いかけた。
「サレナ大佐は、花は好きだろうか?」
「いいえ、特には」
サレナの返答はいつもながらすげない。それも予想したとおりの答えであったため、思わず苦笑してしまう。
「すまない、すっかり引き止めてしまったな」
「いえ、お気になさらずに」
一礼し、温室を出ていくサレナ。セリスも薔薇の手入れに戻ろうとして、しかし思いとどまった。視界の隅で、サレナが立ち止まったのを捉えたからだ。
サレナは温室の入口にある、鉢植えにじっと視線を注いでいる。
「サレナ大佐?」
声をかけると、サレナはセリスに向き直った。
「この百合の色は、シド博士が品種改良したものですか?」
「いや、多少は手を加えてあるとは思うが、それは自然の色だ。黒百合だな」
「そうでしたか。そのような種があるのですね」
先ほどの素っ気ない言葉もそうだったように、彼女がこうして特定の何かにわかりやすく興味を示すことなど滅多にない。自然と、セリスの声にも好奇の色が混じる。
「大佐は百合が好きなのか」
「いえ。ただ――故郷によく咲いていた花でしたので」
サレナの祖国は、とうにない。
帝国の侵略を受け、滅んだからだ。その当時セリスはまだ将軍ではなく、軍に属してすらいなかった。故郷を失い、流れ着いたかつての敵国で、取り立てられ今の地位までのし上がったサレナ。
「何を意味する花なのですか」
セリスの心に無自覚に浮かび上がった、彼女への憐れみ。まるでその感情がはっきりとした形を成すのを妨げるような、本当に狙い澄ましたかに思える完璧なタイミングで、サレナが問うた。
セリスは目を瞬かせ、彼女を見返した。
「……何を、とは」
「花言葉です。薔薇の花言葉が花弁の色によって違うなら、百合にも同じことが言えるのではないでしょうか」
――意外だ。
先の話は、サレナなら記憶の隅に置くことすら厭ってもおかしくないと思っていたのに。サレナのまっすぐな――ともすれば冷ややかささえ感じられるほどのまなざしが、セリスを貫いている。
この年上の部下の疑問に何とか答えてやりたくなって、セリスは必死に記憶を探った。そう、黒百合、覚えている。相反する二つの言葉が、何だか印象に残っていたのだ。
「ああ、確か、」
「セリス」
呼ばれて、セリスははたと現実へ意識を戻した。潜んでいる物陰から頭を出して周囲を窺っていたロックが、こちらを振り返っている。
「見張りが向こうへ行ったみたいだ。今のうちに進もう」
「ええ……」
ロックは通路のあちら側にいる仲間たちに合図を送る。身を屈めていたセリスは立ち上がり、彼の後に続いた。
ナルシェから無事に帝国軍を打ち払えはしたものの、魔導の力を暴走させてしまったティナを救うため、一行は帝国へ乗り込んだのだった。
今になって、どうしてあんなことを思い出したのだろう。セリスはロックの背中を見つめながら考える。もしかしたら床の冷たい感触が、彼女のまなざしが伝える温度に似ていたからかもしれない。
魔導工場の入り組んだ廊下を早足で進んでいると、階下から人の話し声が聞こえてきた。
さっと体を伏せ、手すりの隙間から下を窺う。
厳しい口調で何やら兵に言いつけているのは、何とサレナだった。もっともここは皇帝のお膝元なのだから、巡り合わせなどとは到底呼べないだろうが――視察にでも訪れたのだろうか。ここからでは会話の内容まではよく聞き取れない。
「……なあ、セリス。あいつも魔導士なのか?」
ロックが声を潜め、そう尋ねてきた。
「いいえ――彼女が特別そうだというわけではないの。帝国兵の多くはここで魔導の力を注入される。でも魔導士に比べると、僅かなものよ」
「それじゃ、あのときは……」
とロックが首を捻っているのは、ナルシェでサレナの剣技を見たからだろう。
「サレナは、そう、器用というのかしら。魔力を剣に流し込むことで、攻撃の威力をずっと高める……普通なら、すぐに武器の方が壊れてしまうものだけど、サレナはその調整に長けているのね」
サレナが持つ魔力自体は平均か、それをいくらか下回るかという程度だ。それでも、実戦に持ち込めるまでにこの技の練度を高めているのはサレナのみである。魔法と剣を同時に扱える者がまず少ないからだ。
そんな話をしている間に、階下からの声は聞こえなくなっていた。
「急いだ方がいいわ。サレナがここにいるということは、間違いなくケフカも一緒に来ているだろうから」
ケフカの名を出した途端、げんなりするロック。
「どんな奴なんだよ、サレナって」
「……忍耐強いひとではあると思う」
正直、ケフカとサレナの関係はよくわからない。
ケフカはサレナに妙に執着し、一方で、サレナは自らケフカに関わろうとすることはない。しかし二人を見ていると、当人たちにしかわかりえない何かを共有しているように感じることも、セリスにはあったのだ。
階段を下りる。
人の気配には十分に注意していたつもりだったが、ここは魔導工場だ。コンベアーやクレーンや、たくさんの機械音に紛れてしまったのかもしれない。
丁字の通路の突き当たりで、サレナと鉢合わせした。
セリスは危うく声を上げてしまうところだった。どこか、隠れる場所を――いや、そもそも互いに真正面から向き合っているのだ。今さらどう隠れるというのか。
「どうされました、サレナ大佐」
姿は見えないが、サレナの後に従っていたのだろう、通路の奥から兵士の声がする。それを契機に、ロックが素早くセリスの前に出た。利き手はすでにナイフの柄を握っている。
しかしサレナは、後ろを振り向いてこう言った。
「いえ、大きな鼠がいたものですから」
「鼠っ!? ――あ、も、申し訳ありません」
「……構いません。せいぜい、手を噛まれぬように気を付けなさい」
平然と告げて、サレナはまた歩き出した。
ロックが急ぎセリスの手を引き、脇にあった木箱の陰に押し込める。サレナに続く、鼠に怯えた様子の兵士は、ついに二人には気付かなかったようだ。
二人は、サレナたちが立ち去ってからも、じっと息を殺して身を潜めていた。
「行った、みたいだな」
張り詰めていたものを吐き出すように、ロックが呟いた。そして、セリスを見やる。
「あいつ……サレナは、どうして俺たちを見逃したんだ?」
「……わからない。私には、もう……」
セリスは彼の、見えない解答を求める視線を受け止めることができず、俯いた。
わからない。サレナが何を考えているのか。
ずっと、セリスは、サレナは自分と同じ苦しみを抱えているのではと考えていた。力で弱者を捻じ伏せるだけの日々。他に選びようがなかった。他の生き方を知らなかった。彼女もまた、そうなのではないかと。
それらの幻想はすべて、サレナ自身によって打ち砕かれてしまった。なのに、何故、今になって――
力なく首を振るセリスの肩に、ロックは優しく手を置いた。
「すまない、セリス。今は、ティナを助けることだけを考えよう」
「……ええ。そうね」
ある日、セリスがサレナの執務室を訪ねると、床が砂まみれになっていた。サレナの部下たちと、さらに部屋の主であるサレナが、床に膝をついて掃除をしている。
その異様な光景に、セリスの足は扉を開けたところで止まった。
「セリス将軍」
サレナの副官が、真っ先にセリスに気付いて飛んできた。
「足をお運びいただいたところ申し訳ございません。現在、ご覧のような有様でして」
「いや、それは、いいのだが……これは一体?」
そのとき、もう一人の来訪者があった。
「おやおや、いい格好ですねえ、サレナ!」
ケフカである。
セリスを押しのけてずかずかと執務室に踏み入ったケフカは、まっすぐにサレナのもとまで行き、彼女の真ん前で立ち止まった。サレナを見下ろし、言い放つ。
「私の美貌の前にひれ伏すことができる僥倖に、涙を流して喜ぶといいでしょう!」
「…………非常に光栄です」
「そうですか、そうでしょうね!」
無表情でおざなりを言うサレナの前で、ケフカは仰け反って高笑いをしている。セリスが呆れ返ってそれを見ていると、
「実は、ケフカの野……ケフカ様から、サレナ大佐宛てに花が届いたのです。それが、大佐が触れた途端に……」
大量の花束がすべて砂塵と化したのだ、と副官が耳打つ。
セリスは頭痛を覚えた。
打ち明けると、サレナに花を贈ってはどうかとケフカに提言したのは、セリスだ。ケフカがサレナに付き纏っているらしいという噂は以前から耳にしていたが、それが近頃ますます不穏な――ケフカがサレナを足蹴にしている姿を見ただとか、ケフカがサレナに敵将の首を贈った(手渡しで)だとか――ものになってきたので、さすがにそれはどうなんだと危ぶんだセリスが、女性への真っ当なアプローチの仕方として、そのようにアドバイスしたのだ。
「ハイハイ、あなたの嗜好はわかりましたよ。まったく、これっぽっちも興味ありませんがね。しかし、いかにも少女趣味というか……いつまでも夢を見ているものではありませんよ、セリス」
「ち、違う。私は、あくまで一般論として――とにかく、サレナは百合が好きなようだから。確かに伝えたぞ」
などというやりとりを経て。
しかし、結果はどうだ。これでは恥のかき損ではないか。しかも花をこんなふうに粗末に扱って。
「ケフカ、ちょっと来なさい」
セリスはいつもの軍人然とした喋り方も忘れ、ケフカを廊下へ連れ出した。
「あれは何なの、ケフカ」
引っ張られるから嫌々ついてきたという体を隠しもしないケフカに、セリスは憤慨して苦情を述べる。ところが、ケフカはセリスの怒りの原因に思い至らないようで、とぼけた言葉を返してきた。
「セリス、あなたが言ったのですよ。サレナは百合が好きなのでしょう?」
「まあ……そう断言していたのではないけど、おそらくそうだと思う。でも、私は花を贈れとは言っても、花の死骸を贈れとは言っていないわ」
「だって、いらないでしょう。対象はひとつでいいんですよ」
「……どういう意味?」
ケフカがわけのわからないことを言い出したので、セリスは面食らってケフカを見つめた。ケフカは、笑っている。皮膚を歪め、唇の端を吊り上げて、確かに笑顔であるのに――何故、背筋が寒くなるのだろう。
「サレナが感情を向けるのは、向けていいのは、私だけです。好意であろうと、憎悪であろうとね」
「あなた……サレナのことが好きなのよね?」
思わず問うと、ケフカは目を見張った。そのさまは、まるで、未知の言語を耳にしたかのようだった。セリスはたまらなく不安になる。私は、立ち入ってはならない場所に安易に踏み込んでしまったのだろうか?
「ええ。ええ、もちろん」
セリスの胸中をよそに、ケフカは弾むような声音で頷いて、再び笑みを浮かべる。あの、薄ら寒い笑みを。
「私は、この世に生まれてから一度とて、これほど、誰かひとりを想ったことはありませんよ」
ケフカが口にした恋慕の言葉は、けれど呪詛のそれのように、セリスには聞こえたのだった。
――あのとき、恋情とも呪いともつかない言葉を吐き、異質な笑みを湛えていた男の顔が、今は怒りの色もあらわに、語気を荒らげてセリスを責め立てている。
今日は、昔のことをよく思い出す。久方ぶりにこの地へやって来たからだろうか。セリスは戦争以外の目的でこの大陸を出たことがなく、また、こんなに長らく帝都ベクタを離れていたのは初めてのことだった。
「おい、この裏切り者が! 聞いているのか!」
「ケフカ。リターナーどもは飛空艇でこの大陸に乗り込んだようです。であれば、退路も空でしょう」
ケフカが張り上げる怒声を、サレナの冷静な声が遮った。
「エアフォースの出撃準備は整っております。ご指揮を」
「チッ、こいつは牢にでも繋いでおけ! サウスフィガロでしてやったみたいに、鎖で吊るしてな!」
床の上にかなぐり捨てるみたいに、ケフカはセリスの身体を放った。
セリスは全身をしたたかに床に打ちつけ、転がり、そして朦朧とした頭で考える。サウスフィガロで? 何故、あの場にいなかったケフカがそんな仔細までを……這ったまま首を巡らすと、サレナが僅かに眉を顰めているのが目に入った。
ケフカは乱雑に靴音を響かせ、向こうに行ってしまった。サレナに見逃された甲斐もなく、魔導研究所の奥、辿り着いた先でケフカに見つかり、身を挺して皆を逃がしたセリスには、それを追う力など少しも残っていない。
みんなは、無事に逃げてくれるだろうか。
「ご安心を、セリス将軍」
サレナがセリスの傍らに立ち、言った。セリスは口を歪めたが、それが笑みの形になったかはわからなかった。
「将軍? 私はもう……」
「いいえ、セリス将軍、あなたはいまだ将軍ですよ。ガストラ様は、あなたのことをいたく気に入っておられるようです」
セリスは目を閉じた。
そんな地位など、どうでもよかった。ロック……彼が最後にセリスに向けた、疑いのまなざし。この先、それは何度だってセリスの心を打ちのめすだろう。
たとえ助かったって、ここから逃げ出すことが叶ったって、リターナーにはセリスの居場所はもはやない。ましてや自ら捨て去ったこの帝国に、そんなものが存在しようはずもなかった。
「私は……これから、どうすればいいの……」
「優先順位をお決めになることです」
誰に問うでもなく呟いた言葉に、まさか返事があるとは思わず、セリスは驚いてサレナを見上げた。彼女はセリスが知る頃と何ら変わらない、冷めた双眸でセリスを見下ろしている。
「ただひとつを決めたなら、他のことごとくはお捨てなさい。あなたがたった今、すべてを投げ打って彼らを救ったように」
サレナのその――奇妙とでも言い表すべきか――理論は、セリスの胸のうちを深くかき乱した。
この国で、また命じられるままに破壊と侵略を繰り返すなんて……ロック。もう一度、会いたい。自分が彼らにどう思われていようとも、リターナーの誰かと戦うなんて考えられない。
セリスは萎える手足に力を入れて起き上がろうとしたが、それすらもうまくいかなかった。代わりに、ひたとサレナを振り仰ぐ。サレナはセリスに手を貸すこともセリスを引っ立てることもせず、静かにただそこに立っていた。
――彼女は何を選び、何を捨てたのか。
「サレナ」
温度のない、感情の色も見当たらない瞳の中に、セリスの姿が映し出されている。
「あなたのただひとつは何なの」
「ガストラ様の、ひいては帝国繁栄のお役に立つことです」
サレナはかつてと一言一句違えずにそう告げた。