名医と呼ぶには、若すぎる男だった。
 沙耶とは、ひと回りほどしか違わないように見える。養生所に連れてこられて、まずそのことに沙耶は驚いた。前任の医者の年齢を考えると、なおさらだ。
 診察室に入ってすぐのところで、沙耶は立ち竦んでいた。
 それ以上先へ進もうとすると、嘔吐を催すのである。かつての医師に躰を任せることはしばしばあったが、そうできたのは彼が年寄りだったからだ。額に、じっとりと脂汗が滲んでくるのがわかる。
 部屋には、医師と沙耶の他は誰もいない。養生所は長屋で、診察をする部屋だけでなく待合室のようなものもあり、王倫はそこで待っていた。
「何をしている?」
 いつまでも立ち尽くしている沙耶に、奥にいる医師が不機嫌そうに言い放った。
「そんなところに突っ立っていられても診察はできん。さっさとここに座れ」
 傲慢な口振りだった。
 それがことさら沙耶の心を挫いたが、病を治したいという気持ちはあった。この耐えがたい頭痛を治して、山寨に来た当初のように、心を落ち着けて過ごし朽ちていきたいという。
 躊躇しながらも、足を踏み出した。込み上げる吐き気を抑えて、何とか言われたとおりに医師の前にある椅子に腰を下ろす。
「……っ!」
 その途端、喉の奥から音にはならない悲鳴が迸った。
 何の前置きもなく、医師が両手でがしりと沙耶の頭を鷲掴みにしてきたのだ。沙耶が不自然なほどに躰を硬直させているにもかかわらず、それを気にとめる様子もない。そのまま平然と親指で瞼を引っ張ったり顔を覗き込んだりして、それからようやく手を離した。
「薬を飲んでいないな」
 沙耶ではなく卓の上の帳面に顔を向けながら、医師は言った。
 薬。吐き気をこらえるために口に手を押し当て、沙耶は困惑して視線を宙にさ迷わせた。もしかするとこの診察も、何度目かのものなのだろうか。沙耶が覚えていないだけで。
 医師は、ちらりと沙耶を見た。
「頭痛は気の病から来ているものだが、そういうものにも薬は効く。飲んでおくのだな」
 その言葉から、沙耶は推察が正しいことを何となく悟ったが、医師はそれに関しては一言も触れなかった。


「安道全は、やはり腕はいいようだな」
 王倫の呟きに似た言葉を聞きつけて、それまで窓の外を眺めていた沙耶は、そちらに目をやった。沙耶は身を起こしてはいるがいつものように寝台の上で、王倫はすぐそばの椅子に腰かけている。
 あの医師は、安道全という名なのか。頭の中で彼の発言の内容を何度か転がして、やっと得心がいった。
 たしかに、腕のいい医者なのだろう。診察から何日か経ったが、頭痛はもらった薬を飲めばすぐに治るようになったし、意識の断絶も減少していた。一日前二日前と過去の記憶を辿ることも、もう容易にできる。
 王倫はこの日、見るからに機嫌がよかった。何も覚えていないのだけれども、おそらく沙耶は王倫の前でも癇癪を起こしていただろうから、それがここしばらく治まっていることに安心しているのかもしれない。
「以前と比べると、顔色が随分いいではないか」
 節くれ立った指の背が、沙耶の頬を撫でた。
 こんなふうに沙耶に触れてくるようなことを、彼はよくする。
 それらの行為に対して、まったく嫌悪感を覚えないと言えば、嘘になった。しかし、王倫に己を委ねると決めたのは沙耶自身なのだ。かつて沙耶を蹂躙した数々の理不尽とは、明らかに違う。
 だから沙耶は目を閉じて、大人しくされるままになっていた。
 ほどなく王倫の手は離れ、沙耶は瞼を持ち上げた。そして何気なく王倫を見やり――彼の肩の向こうに薄汚れた布が落ちているのに気付いて、ぎょっとした。
 血の匂い。ぼろのような死体。沙耶を打ちすえる怒声。何も見えない暗闇。その奥から微かに聞こえる、すすり泣く声。
沙耶?」
 心臓が、早鐘を打っていた。息がうまくできなくなって、沙耶は空気を深く肺に吸い込んだ。吐き出す。
 泣き声も、連中の荒らげられた声も聞こえない。明るい部屋の中。彼女が泣いていた暗がりの中ではない、沙耶の部屋だ。沙耶が自身で選び取った場所。
沙耶。どうした?」
 王倫が沙耶の肩を掴み、顔を近付けてくる。ほとんど寝台に身を乗り出しているので、彼の躰で遮られて、ぼろきれはもう見えない。
沙耶
 再び、王倫が沙耶の名を呼んだ。
 どうしてだか、沙耶はこの島に来たばかりの頃、王倫に自分の名を教えた時のことを思い出した。
 今でこそ王倫は違和感なく沙耶の名を呼ぶが、日本人の名前にはやはり馴染みがないのだろう、紙に書いてみせても見当外れの音を口にする王倫に、正しい読みを伝えるのにあれこれ苦心したのだ。
 目を閉じて、もう一度、沙耶は深く息をした。
 それでもう、平静を取り戻していた。王倫に、何でもないと言う代わりに首を振ってみせる。彼はそれで納得したふうでもなかったが、そうかと頷いた。
「少し、長居をしすぎたかな。今日はもう休め、沙耶
 王倫は沙耶を横たわらせ、寝具を肩まで引き上げて被せた。がさがさした手のひらが、沙耶の頭を撫でる。
「また明日にでも、養生所に行こう。薬もそろそろ切れる頃だろう」
 そう言って部屋を出ていった王倫は目もくれなかったが、あのぼろきれは、床の上にまだ転がっていた。




 宋万は、養生所に訪いを入れた。
 養生所は常に病人や怪我人で溢れているというような印象があったのだが、偶然そういう時間帯に居合わせたのか、中に人の姿はなかった。病棟に行けば寝ている患者くらいはもちろんいるだろうが、診察を待っている者はひとりもいない。
 安道全はすぐに奥から出てきた。喜びに顔を輝かせている。
「どうした? 打ち身か、骨折か。いや、病か?」
 ――医術のこととなると、馬鹿になる男なのだ。
 林冲が以前、苦笑いしながらそう語っていたことがあった。なるほど、と、この姿を見て改めて納得する。安道全が、薛永という薬師を勝手に山寨に招き入れてひと騒動起こしたことも、宋万は聞き及んでいた。
「いや、実は、診察をしてもらいに来たのではない。安道全先生に聞きたいことがあるのだ」
 言うと、安道全は途端に顰め面になった。
「何だ、つまらん」
「そう言ってくれるな、先生」
「何が聞きたい。さっさと用件を言って、帰れ」
 あからさまな態度の変化に宋万はむっとなったが、言い返すことはしなかった。悪態も許さざるをえないほどの、優秀な医師ではあるのだ。
「では聞くが。あの娘、具合はどうだった」
「娘? ああ、王倫殿の妾のことか」
 安道全は僅かに眉を動かした。
「どうだと言われても、どうにもならんね。ああいう気の病は、本人に気力がなければ治らない」
「そうか……」
 溜息とともに、相槌を打つ。
 宋万が娘を拾ってきたのは、去年の秋頃のことだ。
 梁山湖の近くに盗賊が巣食った。賊は、近隣の村や街道を行く旅人を襲っては金や食糧を奪っていたので、放置することはできず、宋万が兵を連れて打ち払いにいった。……そう言うと聞こえはいいが、自分たちとて、民の蓄えを掠めとりはする。山寨の五千人が食っていくためには仕方がないことで、要するに、その取り分を確保するために賊を討ったようなものだ。
 盗賊どもは女も攫っていたようで、ほとんどが嬲られすでに殺された後だったが、ひとりだけ生き残っている娘がいた。よほど痛めつけられたのだろう、もう虫の息で、その場に捨て置くのも躊躇われて連れ帰ったのだ。
 王倫は死にかけの娘のどこが気に入ったのか、妾にした。
 そのことを、とやかく言うつもりはない。連れ帰ってはみたものの、どう扱うかまではよく考えていなかったし、囲われてそれなりに可愛がられるのなら、娘も幸せになれるだろうと思った。
 ただ、娘のことは心のどこかにずっと引っかかっていて、林冲の歓迎の宴が開かれたあの夜から、その気持ちはいっそう強くなっていた。
「少し待っていろ」
 安道全が、そう言って奥に引っ込んだ。
 やがて再び姿を現すなり、宋万に何かの包みを押し付けてくる。宋万は訝りながらもそれを受け取った。
「何だ、これは?」
「気持ちを明るくさせる。それと、よく眠れるようになる。そういう薬だ」
「俺には、必要ないが」
「誰がおまえにやると言った。薛永が来たので、薬方所も充実した。あの娘も、これで少しはよくなる」
「俺が届けるのか?」
「別に、誰でもいい。ただ先ほど報せが来て、私は明日から朱貴殿の奥方を診にいくことになった」
 朱貴の妻は、不治の病だった。ことによっては、安道全は朱貴の店に何日も留まることになる。
「……わかった、渡しておこう」
 素直に、頷いていた。
 彼が言うような事情があるにしたって、宋万は山寨の副頭目の地位にいて、こんな、小者にさせれば済むような使いを頼まれる筋はない。しかし安道全は、患者かそうでない者かという点でしか、人を見ないのだろう。そのことがわかってきた宋万は、もう怒る気も失せていた。
 それに、ちょうどいい口実が手に入ったという思いもある。娘に会いにいくのに、都合のいい理由が。
 ――民を襲うのだけは、やめるべきだ。
 林冲の声が、耳の奥に蘇った。
 世直しの旗を掲げてはいるが、王倫は役所を襲わせることは決してない。今は雌伏の時だと言う。官軍に対抗できる力を蓄える時だと。違和感や不審感を抱くことがあっても、これまではその王倫の言葉を信じてやってきた。
 だが、天下無双の林冲の槍を腐らせる王倫を見て、宋万は次第に目を覚ましつつあった。食うために盗賊を働いている俺は、あの賊どもと何が違うのだ、同じではないのか。そんなふうに思えて、ただ、腹立たしい。
 だから、娘が気にかかる。
 民を救うために立ち上がって、いまだ何もできないでいる。そんな自分が、娘をひとり助けた……たったひとりだが、あの娘が立ち直ってくれれば、宋万の胸の中にある、今はもう曇ってしまった何かを取り戻せるような、そんな気がするのだ。




 幻覚を、しばしば見るようになった。
 それだけではない。男にのしかかられる悪夢にうなされ、飛び起きる。ひとりの部屋で、すすり泣きや怒鳴り声を聞いた気がし、身を竦める。そういうことが多くなった。
 少し前まで毎日は飛び去っていくようだったのに、今では、ひどく長いと感じる。
 日がな一日何もせずにぼんやりしているだけなのだから、正常な感覚には違いない。そう感じることもできなかったあの頃は、それだけ正体を失っていたのだろう。正常さを取り戻しつつあることは沙耶が快復に向かっているという証なのかもしれなかったが、沙耶にとっては拷問に近しいものだった。ただ穏やかに死んでいけるなら、沙耶はそれでもう十分なのに、そんなささやかな望みさえ叶わないというのか……
 不意に、男の声がした。王倫の声ではない。
 寝具の中から、沙耶は動かなかった。目を閉じたまま、じっとしていた。無視して、何も考えないようにしていれば、いずれは過ぎ去っていくだろう。
 声が再び聞こえる。その後、さらにもう一度。
 どうにも、幻聴ではないようだ。沙耶はようやく、そう考え始めた。誰だろう。王倫であるはずはなかった。彼なら、一度の訪いで部屋に入ってくる。
 宋万――
 閃いた。酒宴の日の、あの男の声に似ている。
 沙耶は床から出た。戸までくらいなら、ひとりでも歩くことはできる。
 のろい歩みで、そろそろと戸に近付いた。伸ばした右手が震えたが、それでもその手で戸を開けたのは、あの晩の気遣わしげな声も、名とともに思い出したからだ。
 戸の先に立っていたのは、やはり宋万だった。
 想定していたのに、宋万の大柄な躰を目にした瞬間、沙耶は後ずさってしまう。宋万は開いた距離に、一瞬、何とも言えない表情になった。彼が手に抱えている包みが、沙耶に向けて差し出される。
「これを届けに来ただけだ。安道全先生に頼まれて」
 沙耶は困った。受け取るには、腕の長さが足りない。ならば歩み寄ればいいのだろうが、足は床に根を張ったようになって、動かなかった。その場に突っ立っていることしかできない。
 すると何を思ったのか、宋万は一歩、後ろに下がった。
「俺はこの部屋には入らん。放るから、受け取れよ」
 無造作に放り投げられたそれは、綺麗に弧を描いて、反射的に受け止めようとした沙耶の腕の中にぽすんと納まる。軽い。中身は、薬か何かだろうか。包みをしげしげと眺めていると、今度は宋万はその場に胡坐をかいて座り込んだ。
「……?」
 わけがわからず、沙耶は目を瞬かせて彼を見下ろした。
 宋万は沙耶を仰ぎ、言う。
「どうだ。少し、話をしないか。俺が怖いなら、戸を閉めておいてもいい」
 話? ますます理解できない。
 途方に暮れて返答しかねていると、宋万は勝手に語り始めた。毎日どういった鍛錬をしているとか兵のひとりがどんなことをやらかしたとか、正直に言ってしまえばどうでもいい話だった。
 本当に、話をするだけのつもりらしい。
 彼の様子を窺いながら、沙耶は寝台の端に腰かける。宋万はそれに気付くとにこりと笑って、また話を続けた。
 安道全の話を聞いた。変わり者で性格は狷介だが、やって来てすぐに何十人もの病人を診て、それでみんなたちまちよくなったものだから、山寨の人々には歓迎されているらしい。安道全とともに入山した、林冲という男の話も聞いた。よほどその男に傾倒しているのか、語る宋万の口振りはやや熱っぽかった。槍の達人で、入山早々、十六人の兵をいっぺんに相手にしてあっという間に打ち倒したり、つい先日も建国の英雄の子孫と見事な立ち合いをしたのだという。武術のことはよくわからないが、彼の話を聞くのは面白かったし、王倫以外の者が語る言葉は新鮮だった。
 どのくらい経っただろうか、語り始めた時と同じくらい突然に、宋万は立ち上がった。
「邪魔をしたな。迷惑でなければ、また来る」
 そう言って、じっと沙耶を見つめる。
 また来てもいいかと聞かれているのだと、沙耶にはわかった。
 彼が――と言うより、男という生き物そのものが、沙耶は怖かった。今も彼の立ち上がる動作に一瞬心臓が凍りついたし、こうして向かい合っていると逃げ出したい衝動に駆られてしまう。
 しかし、話を聞いている間は余計なことを考えずにすんだ。幻聴も、幻覚もなかった。宋万が沙耶に何を求めているのかはわからないが、彼の提案は沙耶にとってありがたい、魅力的なものだ。気を紛らわすものを、沙耶は今もっとも必要としている。王倫とて、立場もあってそう頻繁に通ってくるわけではないのだ。
 沙耶は悩んだ後、やがて小さく首肯した。肯定以外の答えを、持ってはいなかった。