四
季節は一巡し、山寨での二度目の秋が訪れようとしていた。宋万は夕刻、兵たちの調練の後に沙耶のところへやって来るのが、習慣のようになっていた。そして、その日一日に起きた出来事を教えてくれるのだ。
最初の訪問の時と同様に、宋万は部屋には足を踏み入れず、いつも廊下に直に座る。
沙耶はある日、思いきって部屋に入って椅子にかけるように勧めてみたが、
「王倫殿が、いい顔をされないだろう」
と言って、断られた。
その不可解な断り文句に沙耶が面食らっていると、宋万はばつが悪そうに続けた。
「まあ、妾のところに俺が通っているということにだって、いい顔はされないだろうが」
めかけ。まさか、愛人とかそういう意味の、妾だろうか?
妾というのがどうやら自分を指している単語らしいことに、沙耶はたっぷり時間をかけてから気が付いた。沙耶が王倫の愛人だから、こうして話をするのはともかく、部屋に入るまでするのは気が引ける、と。
沙耶は、驚くやら呆れるやらだった。王倫と沙耶は、親子ほどにも歳が離れているというのに、一体、何を考えているのだか。
しかし、彼が勘違いをするのも仕方がないのかもしれない。
こうして部屋を与えられ、すべての面倒を王倫が見ている。形だけを挙げるなら、囲われているも同然の状況だ。当初は沙耶だって、王倫の目的はそれだと思い込んでいたのだ。
「王倫殿は、俺が来ていることはご存知ないのだろう。一度、きちんと話を通しておいた方がいいかもしれんな。妙な誤解を受けて、俺が責めを負うならまだいいが、おまえに怒りの矛先が向かぬとも言いきれん」
そう言ってから、宋万はふと思いついたように洩らした。
「おまえ、名は何というのだろうな。いまさらだが」
沙耶は首を傾げて、宋万を見返した。そうか、どうりで、沙耶のことを「おい」だとか「おまえ」だとしか呼ばないわけだ。妾の誤解といい、王倫は、周囲の者に沙耶のことを何も話していないのだろうか?
名前を教えるのは構わないが、あいにく、声はいまだ取り戻せていなかった。いつかのように、沙耶がそのことを仕草で示してみせると、宋万は片手を振った。
「ああ、わかっている。ただ、今、そう思っただけだ」
前に使った習字の道具は、王倫がどこかに片付けてしまって、手もとにない。指で、宙に字を書いてみる。
「俺は字が読めんのだ」
困り果てたように眉尻を下げる宋万を、沙耶は意外な思いで見つめた。彼は、三十かそれくらいの年齢だろう。
沙耶が本を読めないと知った時、王倫はそう驚いたようでもなかった。読めないのが、普通なのかもしれない。現代の日本では考えられないことだ。
中国の宋王朝。西暦までを、沙耶は思い出せなかった。どんな時代なのか、どんな文化があるのかも、よくは知らない。けれど、知りたいとは思い始めている。
……移り変わる景色と同様に、沙耶の心にも、少しずつの変化が起きていた。
「書見でも、させてみてはどうですか。王倫殿」
珍しく沙耶を王倫と一緒に診察室に通した安道全は、そのような提案をしてきた。
沙耶の話である。自分のことが話に挙がっているにもかかわらず、聞いているのだかいないのだかわからぬ様子の沙耶を、王倫は見やった。境遇のためか、沙耶は表情が乏しい。
「こやつは、字が読めぬ」
「では、習字から始めるのでもいい。まあ、何だっていいのですが、とにかく一日を寝たきりで過ごすのはよくありません」
安道全は王倫に顔を向けず、言いながらずっと帳面に何かを書きつけていた。
この男のことが、王倫は好きではなかった。
腕はよくても、自分勝手が過ぎるのだ。山寨の人間には受け入れられているから甘んじているが、規律とは、そんな些細なものを発端にして乱れたりする。そういうことに、王倫は敏感だった。代わりの医者さえいれば、さっさと獄舎に放り込んでやるのだが。
安道全から沙耶に視線を戻すと、彼女はじっと王倫を見上げていた。何か伝えたいことがある時の、沙耶の眼だった。
「……考えておく」
そう一言だけ返して、王倫は沙耶を促し、診察室を出た。安道全は、二人に目もくれなかった。
銀を握らせている護衛が五人、いつものように王倫に付き従っている。沙耶はしきりに護衛の者を気にする素振りを見せながら、王倫の腕にしがみつくようにしていた。
ささくれ立っていた胸のうちが充足感で満たされていくのを、王倫ははっきりと感じた。
聚義庁を目指し、坂道をゆっくりと登る。怪我のために幾月も引きこもっていたせいか、沙耶の歩みはひどく遅かった。長い距離になると、人の手を借りないと歩けない。
つい、と着物の袖を引かれる。沙耶だ。見下ろすと、沙耶は養生所の方を目で示してみせた。
「今の、習字の話か」
沙耶が頷く。
やはりか――王倫は、己の腕に絡められている沙耶の白い手に手のひらを重ね、そっと握った。沙耶は変わった。医者にかかる前は、書物になど興味も示さなかったのに。
宋万が足繁く沙耶のもとへ通っていることも、手の者からの報告で知っている。男女の仲になりそうな気配がないのでひとまずは放っておいたが、いい加減に釘を刺しておかねばなるまい。
知らず指に力がこもったのか、沙耶が僅かに眉を歪める。
苛立ちを隠さずに、言い捨てた。
「要らぬな。おまえには、必要ない」
「…………」
沙耶は、重ねて意思を主張しはしなかった。
それでいい。軽く頷いて、また前を向く。
今の生活に、王倫は大いに満足していた。
山寨の兵はちょうどよい人数を保っており、ここでの自給と、政府に目をつけられない程度の略奪とで、十分にやっていける。軍律を厳しくし、逆らう者は容赦なく処断してきたので、不平不満を大きな声で言う者はいない。最近は豹子頭のせいで騒ぐ者も出てきたが、いずれあの男の暗殺が成功すれば、また黙するだろう。
梁山湖に世直しの砦を築いてから、もう十年ほどになる。官軍と事を構える気など、とうに失せていた。王倫の国は、すでにここにあるのだから。
ただ、今はうまく不満を抑え込んではいるが、旧友の朱貴や、杜遷と宋万が山寨のありように倦んでいるのに、王倫は気付いている。彼らの心が、己から離れつつあるということも。
五十名いる側近は銀で雇っているだけで、王倫に心服しているのではない。兵たちは王倫を仰ぐが、そこにはあくまで一兵卒と頭領という立場の隔たりがあるし、何より王倫は謀反人や間諜の存在を常に疑っている。
五千人の上に君臨しながら、そのうちの誰よりも孤独だった。
沙耶と出会って、王倫は初めてそう自覚した。傷だらけのやせ細った娘に縋るような眼で見上げられ、歪んだ喜悦が胸を満たした、あの日に。
最初は本当に妾にするつもりでいたが、女を抱くのは他ですませた。そうすると、沙耶は徐々に王倫に依存しきるようになった。男に脅え、それなのに王倫に縋りつく姿を見ると、気持ちがよかった。
だから、沙耶の変化は、王倫にとって少しも望ましいものではない。いくら癇癪に辟易していたとは言え、医者には診せずに、耐えるべきだった。
王倫の片腕には、寄りかかる沙耶の躰の重みと、温もりがある。
もし沙耶がこのまま立ち直り、ひとりで生きていけるようになるくらいなら、いっそ殺してしまうか。
そう、王倫は思う。沙耶はいつまでもあの眼をしていなければならなかった。そして、瞳に王倫だけを映していればいい。そうでないと、意味がない。満たされない。
沙耶は哀れで、か弱く、王倫なしには生きられない娘であればよいのだ。
やって来た宋万は、沙耶が戸を開けて迎えるなり、出し抜けに告げた。
「俺は、ここにはもう来ないことにする」
いつもより、少し強い口調だった。
「王倫殿が、俺のことを知られたのだ。話をしているだけだということは、わかっていただけたが」
沙耶は僅かに間を置いて、それから頷いた。王倫が、宋万のことを知ればそれを許さないだろうということは、予測がついていた。ただ何となく、宋万がこうやって言い出したのは、それだけが理由ではないように思えた。本当に、何となくだが。
しばらく、二人の間に沈黙が落ちた。
宋万は廊下に立ったままだった。このことを伝えに来ただけなのかもしれない。しかし、まだ何か言いたそうにしているのに気付いて、沙耶は待った。
やがて、宋万は口を開いた。
「おまえは、王倫殿をどう思っているのだ?」
どう、とは。
沙耶は、戸惑って宋万を見た。宋万も困ったような表情になった。
「つまりだな。女が男に特別に抱くような情を、持っているのかということだ」
「…………」
頷くことも首を横に振ることもせず、沙耶はうつむく。
愛しては、いない。
そういう感情は、もうどこかに消えてしまった。まだ残っていたとしても、それはその残り滓のようなものなのだ。残り滓だけ抱えて、沙耶はこうして生きている。
沙耶がいつまでも答えないでいると、宋万は懐から、一冊の冊子を取り出した。
「これを読んでみろ、沙耶」
沙耶は、ぱちぱちと瞬きをした。
何度も読み返したのか、紙の端は擦り切れて、破れかかっている。冊子の表紙には、「替天行道」と記されていた。躊躇いがちに受け取ると、宋万は続けた。
「俺は字が読めないが、代わりに林冲に読んでもらった。繰り返し読み聞かせてもらったので、もう暗誦できるほどだ。だから、おまえにやろう」
林冲。その名を耳にした時、沙耶はわけのわからぬ胸騒ぎを覚えた。
「近々、ちょっとした騒ぎが起こるかもしれない。しかし、その時は、何も心配するな。おまえの身に危険が及ぶようなことには決してならないと、約束する」
そこまで言うと、宋万は踵を返して、行ってしまった。
取り残された沙耶は、のろのろと、手にした冊子に目を落とした。表紙の字を指でなぞる。先日の名前の一件で、宋万は沙耶が字を読めると勘違いしたのだろう。
替天、行道。
替える……替わる? 天を、天に替わる、替わって……天に替わって、道を行う。
ページをめくってみると、やはり漢字だらけだった。学校の授業で国語は得意科目だったが、漢文を、それも白文を辞書なしで読むのは骨が折れそうだ。
だが、宋万はもう訪ねてはこない。長い夜を越すのに、この冊子はいくらか役に立ってくれるだろう。
夕日は沈み始め、部屋の中は薄暗さを増している。隅の暗がりから、すすり泣きが今にも聞こえてきそうだった。
沙耶は寝台に戻り、灯台に灯油を足して明かりを点けた。そして、替天行道のページを繰り始めた。
のちに、林冲と会った。
もっと正確に言うと、見かけた、という程度だが。養生所での診察を終えたところ、待合室で王倫と会話しているのを見かけたのである。話は終わっていたようで、沙耶に気付いた王倫は、すぐに立ち上がった。
その時、目が合った。
林冲の顔はすぐに背けられたが、僅かな瞬間視線が交差しただけでもハッとなるほど、苛烈な眼をしていた。
替天行道は、王倫に隠れて、遅々としてだが読み進めている。隠しているのは、安道全からの提案へのあのすげない返事を考えると、取り上げられてしまうこともありえそうだったからだ。
冊子は薄く、文章の量はそれほど多くない。何度か全体に目を通したが、知っている単語だけ拾ってみると、どうも王倫がよく口にするような世直しについて語ってあるようだった。
宋万は、あの本をどこで手に入れたのだろう。王倫に渡された? そうではないように、沙耶には思える。
林冲。また、胸騒ぎを覚えた。
はっきりとそう聞いたわけではないが、宋万は王倫に不満を抱いているようだった。詳しい事情は知らない。ただ王倫は、役人と結託して利を得ている商人ばかりを兵に襲わせて、肝心の役所自体には手を出そうとしないのだと言う。役所さえ襲わなければ、官軍は攻めてこない。十分に山寨を大きくしてから世直しを決行すべきだというのが、王倫の方針らしい。
宋万ともうひとりの副頭目である杜遷、彼も、同じように考えているのかはわからないが――あの時の、疲れたような眼を思い出した。凱旋のようなのに、勝利に興奮した様子のない兵士たち。あれはみんな、憎き役人ではなく守るべき民を襲ったということに、嫌気が差していたのだろうか。
聚義庁までの道すがら、ちらりとだけ、王倫は林冲のことを口にした。
「豹子頭か。血の気の多い男だな。腕に比べて、頭の方はいささか愚鈍なのやもしれぬ」
愚鈍?
とても、そうは見えなかった。王倫は、あの眼を見なかったのか。気付かなかったのか? あれは、あの眼は――
世直しを説く、替天行道の本。内容を宋万に読み聞かせたという林冲。何か激しいものを宿している彼の眼。林冲に心酔しているようだった宋万。役所は襲わせない王倫。宋万が、王倫に対して抱いている不満。最後に会った時の宋万の言葉。
パズルのピースが、ひとつひとつ嵌っていくようだった。
「どうした、沙耶? 何か、気にかかることがあるのか」
部屋に戻ってからも深刻な顔をしていたのかもしれない、王倫が尋ねてきた。
もし、沙耶の危惧が的中しているのだとしたら。だが、確証は何ひとつない。
沙耶は少し考えて、首を横に振った。
「そうか。ならば、いいのだが」
王倫は沙耶を寝台に抱え上げた。王倫自身は寝台の縁に腰を下ろし、そのまま沙耶の肩を胸に抱いた。そうされるのはあまりないことで、沙耶はびくりと躰を震わせたが、嫌がって身をよじるようなことは、やはりしなかった。
王倫を、愛しているのではない。
自分が薄情だとは、沙耶は思わなかった。王倫だって、沙耶を愛してはいないのだ。
今やしっかりとものを考えられるようになった沙耶は、王倫の抱えている孤独にも薄々感付いていた。己の持つ何が彼にそうさせるのかまではわからないが、王倫が沙耶に向ける感情は、きっと籠の中の鳥を愛でるのに似たようなものなのだろう。
沙耶が王倫の思いどおりにならなかったり王倫以外の者に懐いたりすれば、あっさりと捨てられる、その程度のもの。沙耶はただ、王倫の優越を満たす無力な存在であればいい。だから、王倫は山寨にいる誰にも沙耶の名を教えないし、コミュニケーションの手段となる文字の読み書きを学ばせることもしない。他の者と親しいやりとりを交わすことも許さない。
沙耶は、それで構わなかった。沙耶と王倫は、たまたま、望むものと与えるものが一致したから、こうしてともに過ごしているのだ。沙耶の望むものは、穏やかに死に向かっていく静かな生活。いや、苦しみばかりが募るいまでは、もはや死ぬことだけが望みだ。
そしてその死は、もう間もなく、やって来る気がする。