五
夜中に、飛び起きた。全身に汗をかいている。頭の中に夢で聞いた嫌な声が響いた気がして、沙耶は髪をかきむしった。感情は消えてしまったはずなのに、恐怖や焦躁や、不快な気持ちだけはなくならない。
激しい頭痛がした。枕もとに置いてあるはずの薬を、手探りで探す。
官軍が、梁山湖の近くまで来ているらしい。
詳しいことを王倫は語らなかったが、そのためか、最近は沙耶のところへ顔を出さない。昼夜、沙耶はひとりでいる。読むことのできない本一冊で気を紛らわすのも、限界だった。
外は雨が降っているようだった。夜明け近くになって、沙耶はようやくうとうとし始める。
鉦の音がして、沙耶は再び目を覚ました。
島じゅうに響き渡っているような、大きな音だった。警報だ、と沙耶は思った。
しばらくして、鉦は止んだ。
――近々、騒ぎが起こるかもしれない。
宋万が言っていたのは、これのことなのか。
雨はもう止んでいて、外が騒がしいのはここまで伝わってくる。騒乱と呼べるほどのものではない。しかし外の様子は、いつまで経っても静まらなかった。
寝具にくるまっているうちに、また眠ってしまったらしい。気付けば、太陽は中天に近い位置にあった。
太鼓の音が聞こえている。音源は近い。聚義庁を出てすぐのところは、石畳があって、ちょっとした広場のようになっている。太鼓はそこで打ち鳴らされているようだった。
心配するな、と宋万は言っていた。王倫も、非常事態ならさすがに何か告げに来るだろう。忙しい頭領の立場でも、部下を寄越すくらいはできるだろうし。
頭ではさまざまに考えたが、けれどその音を聞いているとどうにも心が落ち着かなくなって、沙耶は寝床から這い出た。
おぼつかない足取りで部屋を出る。太鼓の音のする、聚義庁の外へと沙耶は向かっていた。
胸の奥がざわざわしている。何をするために歩いているのか、何が自分をこうもかき立てているのか、わからない。わからないまま、壁に肩を擦りつけるようにして、何度も転びそうになりながら歩き続けた。
聚義庁を出た。
広場には何千人という兵が集まっていた。太鼓の音はもうしない。みんな、しんとしていた。彼らの前では、宋万が朗々と何ごとかを述べている。
久しぶりに耳にする、宋万の声。
「王倫殿は、もはや同志ではない」
沙耶からは後ろ姿しか見えないが、そう言ったのは確かに、宋万だった。
「よって、われらが打ち倒した。志のために、やらねばならぬことだった」
宋万の隣の男が、言葉を継ぐ。これは、杜遷の声か。
あちこちから小さな声があがり、やがてそれはどよめきとなり、広場全体に広がっていった。
「王倫殿の首をこれへ!」
ぐらぐらと、眩暈がした。
雨あがりの空はどこまでも青い。沙耶はそこに立ち尽くして、高く掲げられた槍の先に刺さった男の首を、ただ見上げていた。
気が付くと、寝台に寝かされていた。沙耶の部屋だ。
窓から斜光が差し込んでいる。
瞼の裏によぎる、王倫の首。……あれは、夢だったのだろうか。一瞬、そう考えた。一瞬だけだ。
寝具の下に隠してある、替天行道のことを思う。何となく、察していたことではあった。宋万や林冲が、反乱を企てているのではないか、と。
王倫は死んだ。
では、沙耶はどうなるのだろう。ここで衣食住すべての面倒を見てもらっていたのは、王倫がそう手配したからで、その王倫はもういない。それに沙耶の立場は、今となっては反乱を起こされて死んだ頭領の妾である。
わたしも、やっぱり殺されるんだろうか。
不思議な安堵感が、沙耶を包み込んでいた。
やっとだ。これで、やっと死ねる。
帰る家はない。故郷は何百年先にある。家族も、親しい友人も、平凡だがあたたかかった暮らしも、おそらく先に待っていただろうささやかな幸福のある未来も、持っていたものはすべて、永遠に失くした。
あまつさえ、あんな連中に好き勝手に踏みにじられて、いまだその苦しみに寝台の上をのた打ち回る日々を送っている。この先で幸せや喜びを感じることはなくてもせめて、老いるのを穏やかに待っていたいという願いも、叶えられない。
こんな世界で、もう一秒だって、生きていたくはなかった。
だから、王倫には何も伝えなかった。見殺しにしたようなものだ、沙耶がようやくの死を迎えるために。
沙耶は仰向けになって、じっと天井を見上げた。
そうしていると、最初にここで目を覚ました時のように、今にも王倫が戸を開けて入ってくるような錯覚に陥った。沙耶と名を呼ぶ声が、頬に触れてくる指の感触が、胸の中の温かさが思い起こされた。
愛していたのでは、なかった。
――王倫が死んだ。
沙耶は今度は声に出して、そう呟いてみた。しかし吐息のようなそれは空気をほんの少し震わせただけで、音にはならぬままどこかに消えてしまった。
焦挺が、巨体を屈めて杜遷に耳打ちをしている。
船着き場近くの、一の木戸の前である。宋万は何とはなしに、その様子を見ていた。王倫を処断し、林冲の同志である七名を山寨に招き入れた。長い間待ち構えていたものがようやく通り過ぎて、少し気が抜けているのかもしれない。
だから、杜遷が焦挺を伴ってこちらへやって来たのにも、すぐに反応することができなかった。
「宋万」
「……何だ?」
若干の間を置いて宋万が言葉を返すと、杜遷は後ろに控えている焦挺に目配せをする。焦挺が一歩、前に出た。
「王倫の妾が聚義庁の入り口で倒れていたと、先ほど報告がありました」
宋万は驚いた。
あの娘は、まったくと言っていいほど居室から出てこない。例外なのは養生所に通う時くらいで、それだっていつも王倫が付き添っていたのだ。多少の騒ぎが起きてもひとりで出歩きはしまいと、そう踏んでいたのだが。
しかし、倒れていたとは……
「王倫の、首を見たのかな」
「おそらくはな」
独り言だったのだが、杜遷が応じて頷いた。
「それで、娘はどうした?」
「発見した者に、部屋まで運ばせました。そのまま、部屋の前で見張らせています」
意識を取り戻したらまた暴れるかもしれない、と焦挺は言っているのだった。
「林冲は、娘の処遇について何か言っていたか、宋万?」
「いや、聞いていない」
杜遷とは長い付き合いだし、焦挺は杜遷が目をかけている若者で、宋万も弟のように思っている男だ。それに、二人とは王倫誅殺のことで意思を通わせていた。あの娘について思うところを、ある程度は打ち明けてある。
「おい、荷はすべて運び入れたぞ」
その時、林冲が三人のところにやって来た。先ほど山寨入りした同志のひとりである、晁蓋も一緒である。晁蓋は、七名の中でひときわ存在感を放つ人物だった。こうして向かい合って立つだけで、圧倒されるような気分になる。
「そろそろ聚義庁へ向かおう。夕刻までには、兵に今の状況を伝えたい」
それまでに最低限決めておきたいことを、今から聚義庁で話し合う予定だった。とりあえず、宋万は林冲に従った。
会議の結果、晁蓋らがこの山寨へ加わるのではなく、林冲や晁蓋らの一党に山寨の人間が加わる、という形を取ることになった。宋万ら以外の主だった者も、みんな新しい山寨に加わることを希望した。
七名の中から頭領に選ばれたのは、やはり晁蓋だった。
ひとまずの話し合いが終わり、みんなが席を立ち始めると、宋万は晁蓋のもとへ向かった。林冲や、他の何人かは晁蓋のそばにまだ残っていたが、構わずに話しかける。
「晁蓋殿。お伝えしておきたいことがあるのですが」
「何だ、宋万?」
「王倫が囲っていた娘のことです」
晁蓋は穏やかな表情をしているが、気が漲っているのをひしひしと感じる。宋万は気圧されぬように肚に力を入れた。ひととおり、娘のことについて説明する。
「ひどく取り乱すかもしれません。王倫が討たれたことを知れば、われらに敵意を向けやるやも」
「ふむ。それで、宋万はその娘をどうしたいのだ」
逆に聞かれるとは思わなかったので、宋万は少なからずうろたえた。
替天行道を渡したのは、宋万が抱いている、そして王倫がすでに失くしている志というものを少しでも知っておいてほしかったからだ。けれど、志など関係なしに、娘は宋万を恨んでいるかもしれない。あれだけ語ったのに、王倫のことについては何も伝えなかった。秋が近付いたので、娘から遠ざかりもした。
もし恨まれているとしたら、いや、それでも――
「山寨へ連れてきたのは、俺です。できる限り、守ってやりたい」
「宋万、おまえの言い方では、その女に惚れているように聞こえるぞ」
林冲が、横から宋万の肩を叩いた。その揶揄を含んだ口調に、宋万はかっとなった。
「違う。俺はただ」
「ほう、何が違うのだ」
「あまりからかうな、林冲」
二人の間に割って入った晁蓋は、苦笑いを零している。
「わかった、宋万。その娘を不当に扱うことはしないと約束しよう。たとえ、われらを恨んでいてもだ」
「晁蓋殿。ありがとうございます」
ほっとして、息を吐いた。
後の問題は、あの娘が王倫の死について、何を思うかだった。
夜半に、焦挺という男が迎えにきた。
いつか会った巨漢である。沙耶は言われるまま、大人しく焦挺について行った。
しばらく廊下を歩き、聚義庁の中の一室に通される。広い部屋だ。真ん中に大きな卓があり、それを十数人ほどの男たちが囲んでいる。その中で沙耶が顔を知っている者は、宋万と杜遷、それに林冲だけだった。
見知らぬひとりが、沙耶に歩み寄ってきた。
「私は晁蓋という。新しく、この山寨の頭領となった」
新しい頭領。やはり、王倫は死んだのか。
晁蓋と向き合って、沙耶の心は自分でも驚くほどに凪いでいた。落ち着いた心持ちで、死刑宣告を待った。
「この山寨は、今日から梁山泊と呼ばれる。ひと月の間、出入りは自由だ。梁山泊で暮らすか、ここを出てどこかの城郭で暮らすか、好きな方を選ぶといい」
……今、この男は、何と言ったのだ?
沙耶は信じられぬ思いで、晁蓋の顔を食い入るように見つめた。自分の耳が、おかしくなったのかと思った。理解するにつれ口の中が渇く。なぜ、どうして。そんな言葉ばかりが頭の中を占めていった。握りしめた両手が、ぶるぶると震えている。
わたしを殺すのではないのか。王倫にしたように、わたしの首を刎ねてくれるのでは。
「どうした?」
沙耶の様子に気付いてか、晁蓋が眉を顰める。晁蓋殿、と宋万が口を挟んだ。
「その娘は、声が出ぬのです」
「そうなのか。では――」
「……ぁ」
わななく唇の隙間から、音が洩れた。
一年ぶりに聞くそれはか細く掠れきって、とても沙耶の声だとは思えなかった。本当に微かで消え入りそうだったにもかかわらず、晁蓋は口にした言葉を途中で止め、宋万もその他の者も、沙耶を注視した。
「わ、わ、たし、わた、しを」
舌が重くて、うまく動かない。何度もつかえた。
「わたしを、こ、殺さないんです、か」
晁蓋は一瞬驚いた顔をして、しかしその後はっきりと告げた。
「殺さぬ」
「殺して!!」
思わず、沙耶は叫んでいた。晁蓋の足もとに這いつくばり、床に額をこすりつける。
「殺してください! わたしはっ、あ、あの時、あのまま、死んでしまいたかった! だから、お願い!」
喚き散らした。
好きな方を選べだと? こんな世界に沙耶の居場所などあるわけがない。山寨にも他のところにも、どこにだっていたくない。沙耶は帰りたいのだ。あのありふれた毎日に戻りたい。それができないなら、死にたかった。
もし一年前、沙耶が山の中に放り出された時に最初に会ったのがこの男だったなら、あるいは沙耶は、新しい人生を歩もうと決意できたのかもしれない。この時代で、この国で、生きていくことを選べたのかもしれない。でも、違った。もう遅すぎる。いまさら、そんな優しさなんか欲しくなかった。
誰も言葉を発しない。
ややあって、沈黙を破ったのは晁蓋だった。
「そうか。おまえも、この国の理不尽に苦しめられたひとりなのだな」
晁蓋はいつの間にか、沙耶のそばに膝をついていた。沙耶の肩を押し、頭を上げさせる。
「名は、何というのだ?」
やおら目線を上げると、晁蓋の向こうに、打ちのめされた顔で立っている宋万を見つけた。どうして彼がそんな表情をしているのか、わからなかった。沙耶は宋万を見つめながら、そっと、吐く息に音を乗せる。
「沙耶……」
「沙耶。沙耶か」
何度か、晁蓋は口の中で沙耶の名を呟いた。そして、肩に置いたままの手に、ぐっと力をこめた。
「おそらく私は、おまえの悲憤の半分も真に解せぬであろう。そして、取り除いてもやれぬ。すまぬと思う。おまえは、自分ひとりの力でそれを乗り越えてゆかねばならぬ」
晁蓋の深いまなざしを、沙耶は受け止める。一言一言が、心にしみ入ってくるようだった。
「十年か二十年、いや、それ以上の年月がかかるやもしれぬ。しかしわれらは必ず、おまえを苦しめた理不尽の存在しない国を作ろう。その日まで、生きよ。生きるのだ」
なんて、残酷な人だろうか。
沙耶の苦悩の一部を知って、なお、生きろと言う。どんなに辛くとも、人はそれを受け入れて生きていくしかないのだと。
晁蓋はもう一度繰り返した。
「生きよ」
途端、沙耶の瞳から涙がとめどなく零れ落ちた。わっと声を上げて、沙耶はその場に泣き伏した。
随意春芳歇
――花なんか、勝手に散ってしまえ