一
梁山泊のあちこちに、替天行道と大書された旗が立った。この山寨の中心とも言うべき聚義庁には、もっとも大きな旗がはためいている。沙耶の部屋からも、替天行道の旗はよく見えた。
聚義庁には晁蓋や、呉用――あの日沙耶が呼ばれた部屋にいたひとりで、梁山泊内のあらゆる仕組みを管理する役を務めるらしい――が詰めており、沙耶の居場所はすでにそこにはない。
沙耶は、梁山泊に残ることを選んだ。
今は聚義庁を出て、養生所内の一室で暮らしている。兵やその家族が暮らす居住区は聚義庁の周囲に配されているのだが、歩くのにも難儀しているようでは、しばらくは養生所で生活する方が都合がいいだろうと取り計らってもらったのだ。
躰を治してから梁山泊を出たいと望むなら、それも考えると晁蓋は言ってくれたが、そちらは断った。健康な身になったとしても、もとより行くあてなどないのだから。
養生所に来て何日か経った頃、診察の時になって、
「立て」
安道全が言った。
突然の命令に、沙耶はきょとんとして安道全の顔を見る。安道全はもう一度繰り返した。
「その場に立ってみろ」
しかし、どうして唐突にそのようなことを言いつけてきたのか、その理由までは教えてくれない。沙耶はわけがわからないながらも、おそるおそる、かけていた椅子から腰を上げる。
立ち上がった沙耶を、安道全は随分と長い時間をかけて眺め回した。その無遠慮な視線に晒されていると、だんだんといたたまれない気持ちに苛まれてくる。
「そこに横になれ」
彼が指したのは、診察台だ。
戸惑いは隠せなかったが、医者の言うことである、大人しく命じられたとおりにした。沙耶が台の上に横たわるのに合わせて、安道全も立ち上がり、診察台のそばまでやって来る。そして――その手が、沙耶の着物の裾を豪快にまくり上げた。
沙耶は卒倒してしまうかと思った。卒倒はしなかったが、悲鳴は出た。
「おい、どうした?」
その悲鳴を聞きつけたのだろう、診察室の入口から小男が顔を覗かせた。
前歯が出ていて、鼠を彷彿とさせる容貌をしている。白勝という、沙耶も何度か面識のある男だった。晁蓋とともに山寨にやって来て、今はこの養生所で安道全の助手のようなことをしているのだ。
沙耶の恰好を見て、白勝はぎょっとしたようだった。
そんな白勝の様子を気にすることもなく、安道全は己の耳を手で覆って、非難がましく沙耶を見下ろす。
「何という声を上げるのだ、おまえは」
「……、……」
いまだ動悸の激しい胸を押さえ、沙耶はただかぶりを振った。あまりの衝撃に、まるで再び声を失ってしまいでもしたかのように、何も言うことができない。
「……念のために聞いておくけどよ、安道全」
沙耶と安道全をかわるがわる見て、どこまでを悟ったのか、白勝は若干くたびれたような声音で問う。
「何やってんだ?」
「骨の歪みを直す」
安道全は、まったく悪びれず答えた。
「歩く時に、妙な癖をつけたのだな。早いうちに気付いたからよかったが、下手にこれを放っておくと脚が曲がってしまうのだ。それに、」
「わかった、わかった」
白勝は手を振り、安道全の言葉を途中で遮った。
「でもな、治療するにしたって、やりようってもんがあるだろう」
「やりようとは、どういう意味だ、白勝? 私は、いつも最善の方法をとっている」
「……沙耶は女だぜ」
「そんなことは見ればわかる。それが、どうした」
訝しげな安道全は、白勝の言いたいこと、つまり沙耶が何故悲鳴を上げたのかだとかを、いまいち理解しきれていないふうだった。
裾を直しつつ二人のやりとりを聞いていた沙耶は、最初に安道全の診察を受けた時のことを思い返していた。あの時は、悲鳴を上げることすらできなかったのだけれども。
「すまねえな」
白勝は溜息をつくと、沙耶に詫びた。
「悪気はねえんだよ、こいつ。……その方が、質が悪いかもしれねえけどよ」
「い、え、……あの、わ、たしの方こそ」
やっと、声が出た。つっかえつっかえ、言葉を繋ぐ。
悪気がないというのは本当だろう。安道全はただ治療をするつもりで、それを沙耶が騒ぎ立ててしまっただけなのだ。沙耶も、安道全がこういう人となりだと最初の診察で知っていたはずなのに、つい失念していて、度肝を抜かれてしまった。
「取り乱したりして、すみませんでした」
「まったくだ」
自分のしたことは棚に上げて、安道全は深々と頷いた。
「私は忙しい。余計な手間をかけさせるな。ほら、さっさと脚を見せろ」
……この人は、いまいちどころか、露ほども理解できていないのかもしれない。
沙耶はちょっと泣きたくなった。頼みの綱の白勝は、けれどもう一度安道全に話して聞かせる気は失せてしまったようで、気の毒そうに沙耶を見やっただけだった。
診察が終わって部屋に戻った後で、この一件を気にしてか、白勝が訪ねてきた。
「何か要るものはあるか?」
と、来るなりそんなことを問うてくる。
要るもの、と言われても……こうして住む場所は与えられている。養生所には料理人がいて、食事に困ることはまずない。着るものも、王倫にもらった着物が山ほど残っている。
などと思い巡らせていると、せっつかれた。
「おい、何とか言えよ。どうかしたか?」
「いえ……え、と……」
沙耶はしどろもどろに返す。この一年、喋らないでいるのに慣れきってしまったせいで、咄嗟に返事をすることが難しいのだ。
「特に、は……思いつきません」
「そうか? 毎日、退屈だろう」
そういう意味で聞かれていたのか――沙耶は、質問の意図を取り違えていたことにようやく気付いた。
しかし、気付いたからと言って、他の答えを用意できるでもない。何もすることがないのはこれまでもそうだったから、あれが欲しいこれが欲しいといった類のことには考え及ばなかった。
返答に困って視線をさ迷わせていると、ふと、卓の上に置いたままになっていた冊子が目にとまった。宋万にもらった、替天行道だ。
「あ……の、本、が」
「何だって?」
もごもご呟いたのを、白勝が聞き返した。沙耶は小さく咳ばらいをして、今度ははっきりと口にする。
「本が、ほしいです」
「本?」
「あの、こういう……」
替天行道を指すと、やっと通じたようだった。
「書のことか? へえ、おまえ、字が読めるのか」
「少しだけ、なら」
感心する白勝に、沙耶は身を縮こまらせた。何せ、知っている漢字を拾い読みするしかできないのだ。
白勝は快く引き受けてくれた。
「そんなもんでよけりゃ、いくらでも頼まれてやるよ。簡単な字しか知らねえってんなら、ついでに、読み書きも教えてやろうか」
思いがけない申し出だった。
教えてもらえるなら、それはとてもありがたいが、しかし素直に甘えてしまっていいものだろうか。
養生所にやって来る患者は多く、安道全だけではなく白勝だって、それなりに忙しいはずだ。沙耶が字を学びたいのは言ってみれば単なる暇潰しのためで、この国の識字率の低さを鑑みるに、差し迫って必要なものでもないと思う。
黙りこくっていると、白勝が眉を顰めた。
「だから、何とか言えって」
「あ、それは……」
急かされて、おずおずと口を開ける。どうにも、声に出して意思を伝えるという行為を忘れてしまいがちだ。
「助かります、けど……お忙しいのに、いいんですか?」
「よくなきゃ言わねえよ」
「は、はい」
「けど、そうだな。始終ってわけにゃいかねえ。俺の手が空かねえ時は、没面目にでも頼めばいいさ」
……没面目?
無言のまま首を傾げた沙耶は、また悪い癖が出ていることに気付き、慌てて尋ねた。
「没面目って……」
「焦挺だよ。ときどき安道全の手伝いにくる、やたらでかい奴がいるだろう」
焦挺――あの、巨漢の。顔を合わせたことはあるが、彼が養生所を手伝っているとは知らなかった。
白勝は髭のない顎に手をやって、書か、と独りごちた。
「呉用殿のところに行きゃ、山ほどあるだろうな。まあ、呉用殿じゃなくても誰かしら持っているか。明日にでも、持ってきてやるよ」
「ありがとうございます、白勝さん」
感謝を述べ、頭を下げる。
そして床から白勝へと目線を戻すと、彼は面食らったような顔をして、まじまじと沙耶を見つめていた。
「あの、何か……?」
「いや、ちょっと、驚いただけだ」
「……おどろく、ですか」
今の沙耶の言動に、何か人を驚かすような要素があっただろうか。首を捻っていると、きまりわるそうにぼやかれた。
「あんたみてえなお嬢さんから、そんなふうに呼ばれるとは、誰も思わねえだろう」
「そんなふう……」
ごく普通に、さんづけで呼んだだけなのだが。現代の日本と古代の中国では、そのあたりの常識も変わってくるのかもしれない。
「わ、たしの、住んでいた……国、では、目上の方には、さんをつけて、呼ぶのですが……」
弁解の途中で、沙耶は何度か咳き込んだ。長く喋るのは、まだ少し辛い。
「ふうん。どこの生まれだ? 西夏や遼って顔じゃねえよな」
……何と、答えたものか。
言葉に詰まり、うつむく。日本と言って通じるかどうか。いや、仮に通じたとしても、今の二国の間がどういう状態なのかわからないし、下手を言えば後々厄介な事態に陥ることも十分にありうるのだ。
またもや黙してしまう沙耶に、白勝は頭をがしがしかいた。
「言いたくねえなら、無理にゃ聞かねえよ」
「あ……はい、すみません。白勝、先生」
「先生?」
白勝は目を丸くして、沙耶を見返す。
「俺は、医者じゃねえんだぜ」
「でも、いつも、お世話になっています」
本来は、どう呼ぶのが適切なのだろう。今のところ「先生」しか思いつかない。
一度は否定した白勝だったが、重ねて訂正しようとはしなかった。
「そうかい。じゃあ、好きに呼んでくれ」
「はい、先生」
「先生、先生ねえ……」
それから暇を告げるまで、白勝は落ち着かない様子でしきりと呟いていた。
翌日も、沙耶のもとに訪いがあった。
こうも次々と人が訪ねてくるなど、以前の生活を思うと、何とも妙な気分だ。沙耶が戸を開けると、そこには山のように大きな躰をした男が立っていた。太い腕いっぱいに、何冊もの書物を抱えている。書物の他に、棒のようなものもあった。
「――失礼いたします、沙耶殿」
焦挺である。
出迎えた沙耶に対して、彼はいかつい巨躯に似合わぬ丁寧な口調で告げた。
「本日は白勝殿がご不在でして、代わりに私がご用を承りました」
「こんなに……あの、ありがとうございます」
「はい、そのようにお伝えいたします」
「あ、白勝先生にも、もちろんですが。焦挺、様、も、わざわざ、ありがとうございました」
「様」というのは、沙耶が一晩かけて考えた、自身にとっても周囲にとっても違和感がないだろう敬称だった。使い慣れないことは慣れないが、少なくとも沙耶からしてみれば、「殿」をつけて呼ぶよりはやりやすい。
「いえ――」
焦挺は何かに驚いたようにちょっと目を見張って、しかしすぐにその表情を打ち消した。
ひとまず、荷は卓の上に置いてもらう。すると、焦挺は沙耶に向き直り、こんなことを言い出した。
「沙耶殿。これから二刻ほど、お時間をいただけますか」
「構いません、けど」
二刻がどれくらいの時間を指すのかはわからなかったが、深く考えずに了承する。とにかく暇を持て余している身なのである。けれど、どういう用件なのだろうか。悪い癖が出て、つい口をつぐんだまま焦挺を見やった。
沙耶の視線を受けて、焦挺はその意を汲み取ったようだ。
「何でも沙耶殿は、読み書きを学ばれたいのだとか。ご都合がよろしければ、今からお教えいたしますが、いかがでしょう」
白勝が、早くも話をとおしておいてくれたのだろう。
しかし、昨日の今日である。予想だにしていなかった焦挺の言葉に、沙耶は驚いた。あまりに驚きすぎて、声で伝えるどころか、身振りで意思を示すのも忘れてしまった。
「……沙耶殿?」
呼びかけられ、あたふたと頷く。
「あ……は、はい、そうしていただけるの、でしたら」
焦挺は、挙動不審の沙耶の態度に気を悪くするふうでもなく続けた。
「では、行きましょう」
「……どこに、ですか?」
「少し歩きますが、練兵所の向こうに東屋があります。書見は、そちらで行いましょう」
字を習うのに、わざわざ外でやると言う。
事情がよく呑み込めず、沙耶は束の間、ぼんやりと焦挺を見上げていた。ややあって、声に出して理由を尋ねることに思い至ったが、
「沙耶殿の部屋に私が長居しては、よくないでしょうから」
と、先回りをされた。
「そう……ですか」
そういえば、昨日の白勝は、戸のところで立ち話をするだけだった。
それは沙耶への気遣いでもあるだろうし、この国の貞操観念が沙耶の生まれよりも厳しいという背景からくるものでもあるだろう。宋万も、決して部屋の中に入ろうとしなかった……
「これを」
もの思いに沈みかけた沙耶の意識を、焦挺の声が引き戻した。目の前に棒が差しだされる。よく見れば、それは杖だった。
「安道全先生が、歩く時は杖を使うようにと。外出の許可もいただきました」
杖を受け取るついでに昨日の診察のことも思い出して、沙耶は憂鬱な気分に襲われた。
焦挺の案内で、東屋に向かった。
外の日差しは柔らかく、風が涼しい。沙耶の足取りは相変わらずおぼつかないが、平坦な道とちょうどよい気候のおかげで、歩くのはさほど苦ではなかった。白勝は沙耶のことをどういうふうに伝えたのか、焦挺は道すがら、この国のことや、最低限身につけておくべき礼儀作法などを、こまごまと教えてくれた。
「あの、焦挺様」
「はい。何でしょうか、沙耶殿」
焦挺は、従者のようなもの言いをする。
先ほどからずっと気にかかっていたのは、それだった。沙耶は息を吐き、吸うと、切り出した。
「もっと、ふつうに話していただけませんか。そんなに畏まった言い方をしていただかなくても、わたしの方が年下で、教えを乞う立場です。高い身分でも、ありません」
何とか、一息で言えた。
焦挺がするように、まるでかしずくみたいに扱われると、ただただ居心地の悪さが先に立つのだ。沙耶はほとんどお情けで梁山泊に置いてもらっている身だというのに。
「それから、わたしのことは……沙耶と、呼んでください」
と、最後に付け加えたのは、ついでだ。「殿」という敬称には、やはり慣れない。
すべて吐き出し終えてから、沙耶は、自分がとてつもなく尊大な態度に出てしまったように思えてきた。こわごわと、焦挺を窺う。武骨な顔つきからは、あまり感情が読みとれない。
しばしの沈黙の後、
「わかった」
焦挺は頷いて、がらりと口調を変えた。
「沙耶がそう言うなら、そうしよう」
「あ、ありがとうございます」
焦挺の返答にほっとした沙耶だったが、彼はさらにこうも告げた。
「ただし、沙耶も同じようにしてくれ。俺だって、焦挺様などと呼ばれるような、そんな立派な身分じゃない」
「…………」
今度は、沙耶が押し黙る番だった。
「それから、そのすぐに黙り込む癖も、なおした方がいいな」
焦挺はずけずけ続けた。
言い方はこうだが、語調がのんびりとしている分、威圧感はない。それで、沙耶も言い返そうと口を開くことができた。
「癖、は、努力しますが……同じように喋るのは、難しい、です」
「その難しいことを、俺に要求したのか、おまえは?」
そこを突かれると、ぐうの音も出ない。
「…………」
「また黙る」
「……がんばってみま、る」
噛んだ。
弾かれたように、焦挺は大口を開けて笑い出した。思わず沙耶は声を尖らす。
「焦挺」
「すまん」
謝りつつも、焦挺はまだ笑っていた。
笑い続ける焦挺を見て、沙耶は、不思議な感覚を味わった。王倫以外の人間と、並んで外を歩いている。焦挺のような体躯の大きな男と、平気で言葉を交わしている。昨日も、白勝とは普通に話せていたし、……まあ、安道全は、あれだったけれども。
新しい、人との関わりの中にいる。それが、何だか不思議だった。
宋万のおかげで、慣れることができたのかもしれない。沙耶が傷を負ってから、随分と時が経ったということもある――不意に、沙耶はあれらの苦痛の日々が、自分の中で過去の出来事になりつつあることに気付いた。
この世界に来てから、沙耶のうちにある何かはずっと時を止めていた。それがようやく、動き出している。