二
養生所のそばに、練兵所はあった。怪我を負った兵を運び込みやすいように、隣接してあるのだろう。練兵所はとても広大で、学校のグラウンドを思わせた。何百人もの兵が、そこで剣や槍を手に訓練を行っている。
ひとりできょろきょろと中を見回していると、声をかけられた。
「おう、沙耶ではないか」
「――晁蓋様」
晁蓋が、軽く片手を挙げている。ぎこちなく杖を操り、沙耶は晁蓋のいる方へ歩み寄った。
「このようなところまで、どうした?」
晁蓋は気さくにそう尋ねてくれたが、ちょうど話をしているところに割って入る形になってしまったのだろうか、彼の後ろには林冲と、もうひとり、知らない誰かが控えるように立っている。
沙耶の視線の行方にすぐに気が付き、晁蓋は二人を振り返った。
「ああ、林冲は知っているな。それと、公孫勝だ」
「あの、沙耶です」
慌てて頭を下げたが、晁蓋の紹介があっても、二人は何も言わなかった。それどころか林冲など、不機嫌そうにむっつりとしている。二人を前にして、沙耶は息苦しささえ感じた。
おどおどと、続ける。
「……お邪魔、でしたでしょうか」
「そう思うなら、入ってくるな。ここは、女が気軽に出入りしてよい場所ではない」
林冲がぴしゃりと言った。
「晁蓋殿、私はこれで」
そして、晁蓋に向き直り礼をすると、さっさと立ち去ってしまう。
沙耶は、林冲の背を呆然と見送るしかなかった。やがて、その姿が雑兵の間に紛れて消えてしまってから、はたと晁蓋を振り返る。
「も、申し訳ありません。わたし、勝手に入ってしまって……」
「そんなことを気にするな。おまえも、梁山泊の同志の一員なのだ」
晁蓋はただ、苦笑を見せた。それから、そうだな、と言葉を継ぐ。
「調練の最中には、なるべく近寄らぬ方がいい。怪我をするかもしれん。林冲も、それが言いたかったのだろうよ」
……そうだろうか。
あれが、沙耶を案じての態度とはとても思えない。しかし晁蓋がそう言ったのは、真に沙耶を心配してのことだろう。沙耶は素直に頷くだけにとどめた。
「私も失礼します、晁蓋殿。兵の選抜がまだ残っておりますので」
静かな口調で、公孫勝が言った。
公孫勝は痩せていて、肌が病的に白い男だった。よく観察すると、瞳の色も薄い。その顔に何の感情も浮かんでいないのも相俟って、不気味な印象を受ける。
「三百だったか。集まりそうか? 公孫勝」
「そうですね。時間はかかるでしょうが、無理ではない、と思います。想定していたよりも、兵の精度が高い」
「ほう。杜遷や宋万は、優秀な将校であったということかな」
晁蓋の口から知った名が出てきたので、聞いていた沙耶はどきりとした。
公孫勝は答えず、ただ、笑みのかたちに唇の端を持ち上げる。そうすると、暗く不気味な雰囲気がいっそう強くなった。そのまま黙礼し、林冲とは正反対の方向へ去っていく。
公孫勝が行ってしまうと、晁蓋が問うてきた。
「寝ていなくて、大丈夫なのか?」
「はい。最近は、外に出ることも多いのです。安道全先生も、好きにしてよいとおっしゃってくださいました」
「安道全か。養生所での暮らしはどうだ」
「え、と……皆さん、よくしてくださいます」
「そうか? 安道全に、泣かされたと聞いたぞ」
言われて、沙耶はぎょっとし、うろたえた。
「泣っ、きは、していませんが、その……」
困って言葉を詰まらせている沙耶を、晁蓋は愉快そうに見ている。つい、拗ねたような声が出た。
「……白勝先生ですか?」
「それは言えぬなあ。後で、私が責められる」
晁蓋は白い歯を見せて笑った。覇気みなぎる人物であるのが、こういう時は、少年のような表情になる。ひとしきり笑い終えた後で、晁蓋は言った。
「すまぬが、もう行かねばならぬ。練兵所を見て回りたいなら、誰かつけさせよう」
「あ、いえ、お気遣いなく」
林冲の叱責を受けた後では、練兵所に留まるつもりはなくなっていた。暇を告げると晁蓋はそうかと頷いて、調練をしている兵の方へ歩いて行った。
――晁蓋がいなくなった途端に、沙耶は落ち着かない気持ちになった。
元頭領の妾という立場であったにもかかわらず、梁山泊内をうろつく沙耶に厳しい視線を投げかけてくる者はいない。晁蓋の計らいか、あるいは、もともと沙耶の顔を知っている者が少ないためでもあるだろう。これに関しては、今は王倫の狭量さに感謝している。
しかしそれでも、自分がひどく場違いな異邦人であるという気分は拭えなかった。生まれた世界がこことは異なる沙耶は、事実、そのとおり異邦人なのだけれども。
養生所に、戻ろう。そう思い、方向転換をしようとした時、まだ扱い慣れていない杖の先が滑った。
あっと思った時にはすでに手遅れで、バランスを崩し、前に倒れる――と、誰かに二の腕を掴まれ、力任せに引き上げられた。勢い余って後ろによろめいた沙耶の背中が、その誰かの躰にぶつかる。
振り仰ぐと、沙耶を助けた長身の男と視線が交わった。
「杜遷、様」
沙耶が杖をつき直すと、杜遷は手を放した。眉を顰めて沙耶を見下ろす。
「ここで、何をしている?」
「あ、の……申し訳、ありません」
「いや、謝る必要はないが」
杜遷は、しきりに萎縮する沙耶を、しばらく目を細めて眺めていた。
「宋万か?」
端的に問われて、沙耶はびっくりした。
「宋万を探しているのではないのか」
ただ目を白黒させているばかりの沙耶に、杜遷は繰り返して問うた。
沙耶はすぐには返答の言葉を思いつけず、代わりに首肯で返したが、杜遷は沙耶の言葉をじっと待っているような様子を変えない。それで、まごつきつつも、何とか言った。
「いえ……あの、そうです。こちらに、いらっしゃるのではないかと思って」
「先までは、兵の調練をしていたのだがな」
杜遷はぐるりと辺りを見て、また沙耶に目線を戻した。
「どこぞで棒でも振っているのだろう。致死軍にしてやられたのが、よほど堪えたとみえる」
「何か、あったのですか?」
尋ねたが、答えはない。やにわに杜遷は踵を返し、歩き出した。
……ついて来い、ということなのだろうか。しばらくその場にぽかんと立ち尽くしてしまったが、それから沙耶は杜遷の後を追いかけた。彼の歩調はゆっくりとしたもので、ついて行くのは難しくなかった。
すぐ近くの、小さな建物に入る。狭い部屋の中には、卓や椅子が雑に並んでいる。まばらに兵の姿があった。休憩所のようなところなのだろう。杜遷は入るなり椅子のひとつを掴み、沙耶に向けた。
沙耶は、目を瞬かせた。
「あの……」
「かけていろ」
「……あ、はい、ありがとうございます」
杖を卓に立てかけて、腰を下ろす。実のところ立っているのが辛くなり始めていたので、助かった。
「それで、致死軍の話だったな」
杜遷が話を再開した。もしかすると、沙耶のためにわざわざ場所を移したのだろうか。ふと思ったが、尋ねてみることもできず、沙耶はとにかく話に耳を傾ける。
公孫勝が統率する、致死軍という少数の人員で構成された部隊がある。その致死軍に、宋万と杜遷の軍が手も足も出なかった出来事が、つい最近にあった。それ以来、宋万は壮絶な鍛錬を己に課しているらしい。
杜遷自身も忸怩たる思いがあるのか、語る声音には苦々しいものが混じっていた。
「……そう、だったのですか。知りませんでした」
「宋万は、おまえには、よいところを見せたいのだろう。知らされておらぬとて、気落ちすることはないと思う」
「いえ、宋万様は……」
こちらを気遣うような台詞を杜遷は口にしたが、沙耶はうつむいた。
「宋万様とは、あれから、一度もお会いしていないのです。晁蓋様方がいらっしゃった日から」
あの日、大勢の前であんなふうに晁蓋に当たり散らしてしまったことを、沙耶はいまさらながらに恥じていた。養生所に移ってから、宋万は一度も顔を見せに来てくれない。きっとあの醜態のために、宋万は沙耶を見限ってしまったに違いなかった。
「……まだ拗ねているのか。困ったやつだ」
杜遷が、呟いた。
「すねる……ですか」
「そうか。それも、無茶な鍛錬に打ちこんでいる理由のひとつかもしれぬな」
沙耶が首を傾げたのには応えずに、杜遷は独り言を続けている。それの意味するところがよくわからない沙耶は、ただ黙って杜遷の顔を眺めているほかない。
「わかった。近いうちに、何とかしよう」
ややあって、杜遷は頷いた。
「宋万に会ったら、適当に機嫌でも取ってやってくれ。これ以上、警備の任務を押しつけられてはかなわん」
「はあ……」
やっぱり、よくわからない。
杜遷に言われたことを何度も頭の中で繰り返し考えていると、彼は杖を取り、沙耶に差し出した。
「養生所まで、戻るところだったのだろう。送る」
驚いて、杜遷を見上げる。
「え、あの、送っていただくほどの距離では……」
「そう言うな。また転ばれても困る」
そのことをを持ち出されると、先ほどは助けてもらった手前、断りにくい。結局、押し切られてしまった。
診察のたびに、安道全とは押し問答をする。
「おい、もたもたするな」
安道全はずばずばとものを言う。最初はそれに遠慮がちに応じていた沙耶も、だんだんと言葉を選ぶことがなくなってきた。
「あの、前の診察で、施術していただいたばかりです。なので、今日は、必要ないかと……」
「おまえは、馬鹿だな」
「ば、馬鹿って」
「馬鹿だろう。施術するかどうかは医師が決めることで、おまえが決めることではない」
言って、安道全は顎で診察台を指す。
とうとう反論を思いつけなかった沙耶は、仕方なしに診察台の上に乗った。足の治療を何とか回避しようとしているのだが、いつも言い負かされてしまう。
「まったく。おまえがごねるせいで、時間を無駄にした」
「……先生が、もう少し、デリカシーというものを持ってくださればいいんです」
小声でぼやく。さすがに、世話になっている身で堂々と言い返したりはできない。
「何をわけのわからないことを言っている」
安道全は顔を顰めた。もちろん、通じないことをわかって言っているのだ。
不平を洩らしはしたが、安道全に、沙耶に対する一切の気遣いがないということは、逆に考えればまったく女として扱われていないということで、その点では安心できる人物だった。……と言っても、治療のためならどんなとんでもない行動にも出るので、少しも気を抜けないのだが。
診察を終えて部屋から出ると、待合室のところに、焦挺がいた。竹筒を二つ持っている。
「焦挺。先生のお手伝いに来たの?」
尋ねてから気付いたが、もう日も暮れていて、待合室に患者の姿はない。焦挺が手伝いに来るのは兵の調練が休みの日だけで、来るならもっと早いうちのはずだ。怪我や病気をしているようにも見えない。
「いや、沙耶、おまえに用がある」
「わたしに?」
「今から、出られるか?」
沙耶は後ろを振り返り、診察室を覗いた。戸が開いていたので、今の会話は聞こえているだろうが、沙耶は中の安道全に声をかけた。
「安先生、焦挺と出かけてきても、よろしいでしょうか?」
「好きにしろ」
安道全は、沙耶がひとりで練兵所へ出かけた時とまったく同じ返事をした。その後で、先日にはなかった言葉を付け足す。
「それと、いちいち私の許可を取らなくていい」
「あ……はい。わかりました」
一礼して、沙耶は焦挺とともに養生所を出た。
梁山泊の夜は暗い。日本のように、街灯なども何もないからだ。ただ、月明かりがあった。月の光がこんなにも明るいということを、沙耶は初めて知ったかもしれない。しかし杖をついて歩くのには困らずとも、東屋で勉強はできまい。
「何の用事なの? 焦挺」
「ああ。杜遷殿に聞いたが、おまえ、宋万殿に会いに行ったんだってな。俺に言ってくれりゃあよかったのに」
「うん……」
沙耶は、曖昧に頷いた。
「今の時間なら、練兵所にいる」
「……宋万様、が?」
急に、気後れするような気持ちになった。
宋万に会いたいという思いはある。そのために、先日は練兵所まで赴いた。けれど、こうしていざ実際に会えるとなると、よくわからなくなった。おそらく、会って、目の前で拒絶されてしまうのが怖いのだ。だから、焦挺に頼めば話は早いとわかっていても、ついぞ言い出せなかった。
練兵所に着いた。
大きな体格をした二人が、棒を持って向かい合っている。林冲と、――宋万だ。宋万が踏み込み、林冲がそれを突き倒した。立ち上がった宋万が、もう一度棒を構える。林冲が動く。次の瞬間には、宋万の躰はまた吹き飛んでいた。鍛錬と言うには一方的すぎる。
「焦挺、お止めできないの」
「なぜだ?」
ひどく驚いた声を、焦挺は上げた。沙耶はじれったくなった。
「だって、宋万様が……」
「強くなるためだ、沙耶」
「でも、何も、あんなになるまで」
はらはらしながら、二人の方を見やる。林冲の持つ棒が、宋万の腹を突いた。宋万がくずおれる。その場に嘔吐したようだ。それでも、宋万は立ち上がった。
「どうして……」
「男だからさ。男なら、誰でも強くなりたいと思う」
沙耶は口をつぐみ、眉を顰めた。見上げると、焦挺は林冲と宋万の立ち合いを眺めている。その表情は誇らしげでもあり、羨んでいるようでもあった。
「……男の人の考えることって、よくわからない」
そう零すと、焦挺は苦笑した。
焦挺と沙耶に気付いたらしい、棒を担いだ林冲がこちらへやって来た。宋万は立ち合いをしていた場所に座り込み、肩で息をしている。軍袍を脱いだ上半身は汗まみれだ。
「遅れたぞ、焦挺」
林冲の呼吸は、少しも乱れていない。
ふと、林冲の視線が沙耶を捉えた。その時、沙耶は、林冲の表情に何か激しいものがよぎるのを見た。ほんの一瞬だ。林冲は沙耶に一瞥だけくれ、去っていた。
林冲が行ってしまうと、焦挺は持っていた竹筒を沙耶に手渡した。
「鍛錬が終わったら、宋万殿と話をするといい」
そう言って、宋万のいる方へ向かう。
今度は、焦挺と宋万が取っ組み合いを始めた。あの立ち合いを見た上で、さらに組打ちをしようという焦挺にも驚いたが、それを受ける宋万にも、沙耶は驚くやら呆れるやらだった。
宋万も大柄だが、焦挺の方がもっと躰が大きい。しかし焦挺との鍛錬では、宋万にも分があった。そうであっても、何度も投げ飛ばされる宋万を見るのは、気が気でない。
そのうち、二人の鍛錬も終わった。それは数十分の間だったようにも思うし、何時間も経ったようにも思えた。
焦挺がこちらに向かって手招きをしたので、沙耶は二人のところへ歩いていった。駆け寄れないのが、もどかしい。沙耶が辿り着くと、焦挺は沙耶が抱えている竹筒をひとつ抜き取り、中身をあおった。水でも入れていたのか。
大の字に倒れていた宋万は、沙耶が近付くと、起き上がった。
「あの……」
膝をついて、竹筒を手渡す。
会いたいと思っていた。伝えたいことも、たくさんあったような気がする。なのに今、言うべき言葉が見つからない。
宋万は地面に座り込んで、動かなかった。竹筒は受け取ったが、中の水を飲もうとはしない。視線は、沙耶から逸らされている。沙耶は悲しくなった。
「あの、……沙耶と、申します」
宋万の顔が、沙耶に向けられた。
いつだったか、宋万に名を聞かれたことがあった。あの時は、教えることができなかったけれど。
「やっと、お伝えできました」
「沙耶……」
宋万は沙耶の名を呟き、うつむいた。
「おまえは、俺を恨んでいるのではないか?」
「うらむ?」
唖然とした。恨むなんて、そんなことがあるはずがない。宋万の存在に、どれほど助けられたことか。
うつむいたまま、宋万は続ける。
「おまえは、死にたかったと言った。生き延びたくなどなかったと」
「……はい」
沙耶は静かに頷いた。宋万が会いに来てくれなくなったのは、やはり、あの時のことが原因なのか。
「おまえを拾って、この山寨に連れてきたのは、俺なのだ」
「宋万様、が? 王倫、じゃ、なくて……」
王倫は、そんなこと一言も言わなかった。だから、沙耶はてっきり――
戸惑いつつも、沙耶はようやく、腑に落ちた。
そういうことだったのか。あの日、沙耶は晁蓋に当たり散らしただけなのではなかった。己の命を救ってくれた人の前で、死にたいなどと言ってしまったのだ。
「宋万様。わたしは」
沙耶はぎゅっと眉根を寄せた。
「わたしは、確かに一時は、ずっと死ぬことだけを考えていました。でも、今は、違います。この梁山泊で、もう一度、生きてみようという気持ちでいます」
堰を切ったように、言葉があふれた。宋万はもう、うなだれてはいない。心のうちを吐露する沙耶をじっと見つめている。
やがて、宋万は小さく笑った。
「……そうか」
「はい」
やはり宋万は、うなだれているよりも、闊達としている姿の方が似合う。それを見て、沙耶はそんなことを思った。