ある時から、ぱたりと診察に呼ばれなくなった。
 すでに頭痛を覚えなくなって久しい。沙耶の病は完治して、もう何の問題もないということなのかもしれなかった。であれば、養生所を出ていかなくてはならないと思うのだが、特にそのような指示を受けるのでもない。それに杖は変わらずついているし、薬だっていまだ定期的に届けられているのだ。
 気になって、朝、いつものように薬を持ってきてくれた白勝に尋ねてみた。
「安道全? ああ、もうおまえにゃ飽きちまったんだろうな」
「飽き……」
 二の句が継げなかった。
 白勝はさらりと口にしたが、何とも聞き過ごしがたい言葉である。
「何せ怪我人と病人にしか興味ねえからよ、あいつは。安道全に愛想を尽かされたってことは、それだけ病がよくなったってことだ。喜んでいいぜ」
 ……と言われても、飽きただの愛想を尽かされただの微妙な言い回しをされてしまっては、素直に喜べない。むしろ、ちょっとばかりショックを受けた。
 そんなやりとりがあったことを、東屋での勉強の合間に焦挺に話すと、大笑いされた。
「それは、あの先生らしい」
「でも、飽きたっていうのは、あんまりだと思う……」
 発言の主は白勝だけれども、安道全に同じことを尋ねれば、やはり似たような答えが返ってくる気がする。
「まあ、あれほどの医術を身につけるとなると、そのくらいでなければ難しいのかもな」
 ようやく笑いをおさめた焦挺は、今度は感心したふうに言った。その声音には、沙耶にもはっきりと感じ取れるほどの尊敬の念が込められている。
 確かに、安道全は素晴らしく腕のよい医者であるのだろう。しかし、それ以外の部分では、手放しで褒めることのできない言動も多い。それなのに焦挺は、今日この時ばかりではなく、安道全のことが話に挙がると決まってこういう反応をするのだ。
「焦挺は、いつも先生の味方をするのね」
 つい、駄々をこねるみたいな物言いになってしまう。対して、焦挺はのんびりと返した。
「そりゃあ、あの人は俺の恩人だからなあ」
「……恩人?」
 向かい合って座っていてもなお高い位置にある焦挺の顔を、沙耶は瞬きをしながら見上げた。
 宋万や杜遷よりも下の地位であるとは言え、焦挺は、小隊をひとつ任されている身だ。にもかかわらず暇を見つけては養生所の下働きをしているのを、ずっと不思議に思ってはいたのだが……
「焦挺も、先生にどこか治していただいたの?」
「俺ではなく、母がな」
 焦挺は沙耶から視線を外し、遠くの方を見やった。
 二人のいる東屋からは、梁山湖の水面が望めた。焦挺が見つめる先では、冬の気配が近付くにつれてますます透きとおってきた湖水が、昼の日差しを受けて輝いている。
「病は手遅れだったが、母が苦しまずに逝けたのは、安道全先生のおかげだ。どうしようもない不孝者だった俺が、最期に孝行できたのも」
 沙耶は、つまらない愚痴を言った自分が急に恥ずかしくなった。
「あのっ……焦挺。ごめん、なさい……」
「うん? 何がだ?」
 焦挺の方はというと、大して気にとめはしなかったようで、身を縮こまらせる沙耶を見て不思議そうに首を捻っている。その後で、それはそうと、と話を他へ向けた。
「病が治ったのなら、養生所を出るのか?」
「あ、たぶん、そうなる……の、かな」
「養生所にいてもらった方が、俺としては助かるんだがなあ」
「どうして?」
「あそこだと、何かと出入りする機会があるだろう。練兵所にも近いから、いつでも沙耶に会いにいける」
 そうやって臆面もなく言ってのけるものだから、沙耶としては、どう返事をしていいのかわからなくなってしまう。沙耶は一時中断となっていた読書を再開するふりで顔の高さまで本を持ち上げ、焦挺の目から隠れるようにした。


 とにかく、改めて身の振り方を考えるべき時期が来たということだ。
 焦挺と別れ養生所に帰ってきた沙耶は、待合室を覗いてみた。白勝は大抵そこで事務仕事をしており、手が空いている時は沙耶の勉強を見てくれたりもする。
 今後のことについて彼に相談したかったのだが、間が悪いことに、今は留守にしているようだった。待合室には、診察の順を待つ患者の姿だけがまばらにある。
 いないのなら仕方がないと自室に戻ろうとしたところで、患者らしい男がさらにひとり、入ってきた。
 杖をついている沙耶は、誰かと行き違うのにも一苦労をする。道を空けるために一旦足を止めると、男も沙耶の前で立ち止まり、沙耶を見下ろしてきた。
「……安道全は?」
「えっ? あ、奥、で、診察中、だと……」
 見知らぬ男と言葉を交わす時には、いまだに緊張が走る。それでも、何とか返答をすることはできた。
 沙耶のぎこちなさに気付かなかったのか、気付いたところで何とも思わなかったのか、男は特に表情を変えなかった。男の顔や首のところどころには、あばたにも似た火傷の水泡がある。火傷の治療に来たのだろうか。
 やって来た患者に白勝が問診票のようなものを渡しているのを、沙耶は見たことがあった。世話になっている身だ、そのくらいの手伝いはしてしかるべきだろう。
 奥へ行って探してみると、ちょうどよく、白勝がいつも仕事をしている卓の上にそれらしき紙の束を見つけた。杖を卓に立てかけて代わりに紙を手にし、男のもとへと戻る。
「治療を受けにいらしたのでしたら、こちらに、症状などを書いていただければ」
 そう言って紙を差し出しても、男は受け取らなかった。ただ、眉を顰めた顔に、ほんの僅かな困惑が浮かんでいる。
 沙耶はすぐにぴんと来た。
「わたしが、代わりに書いた方が、よろしいですか」
「そうしてくれ」
「はい。では……」
 問診票は白紙だった。裏返しもしてみたが、何の字も記されていない。この時代、「替天行道」を見るに本を刷る技術は存在しているようだが、こういった消耗品に手軽に印字できる技術はないのかもしれない。
 とりあえず、名前と怪我の具合を聞いておけば、こと足りるはずだ。
「お名前は、何とおっしゃるのですか?」
「湯隆だ」
 告げられた名を書きつけようとし、沙耶はぴたりと手を止めた。そのまま固まってしまう。
 そんな沙耶の挙動に、彼は訝しげに目を眇めた。
「……何だ?」
「あ、の、そのお名前は……どのような、字を、書くのでしょうか」
 代筆を引き受けておいて、字の書けない当人に問うことではない。
 一応、身近な人間の名の書き方は、手習いの時間に教えてもらってはいる。しかし初めて聞く名に漢字を当てはめるのは、沙耶にはまだ難しかったのだ。
 情けないのと困ったのとで沙耶がおろおろしていると、「貸せ」と紙を取り上げられた。
「自分の名くらいは、書ける」
「……お手数、おかけします」
 うなだれるしかない。
「そ、れで、今日は……」
「鉄を足に落としてしまった」
 問診票を沙耶に返してから、湯隆は己の着物の裾を少し持ち上げてみせた。
 ハッと息を呑む。
 彼は右の靴を履いていなかった、いや、履けないのだろう。赤黒く染まったつま先が、潰れたようになってしまっている。素人目に見ても、こんなところで問答をしているどころではない怪我だった。
「すぐ診察室にっ――」
 泡を食って急かしかけたが、果たしてこれ以上、彼に立って歩かせてもよいものか。それに、対処する沙耶が動転していてはまずい。一呼吸を置いて、待合室の椅子を示す。
「こちらに、かけていてください。わたし、先生をお呼びしてきます」
 沙耶は彼の返事を待たずに、奥の診察室へ急いだ。平静になろうと努めはしているものの、心が逸る。昂ぶっているためか、杖がなくとも足は少しも辛くなかった。
「安先生っ」
 診察室の中に飛び込んだ途端に、
「何だ、騒々しい。診察の邪魔をするな」
「あっ、はい……申し訳ありません」
 邪険な言葉を浴びせられ、沙耶の気勢はみるみるしぼんでいった。
 診察は、けれどもちょうど終わったところだったようだ。先客の者が、こちらにもの珍しそうな視線を注ぎながら、すれ違い外へ出ていく。安道全はその患者を見送ることも、沙耶に目をくれることもしない。診察室の卓の上には水を張った洗面器のようなものがあって、それで手を洗っている。
「何の用だ?」
「はい、あの、ひどい怪我の方がいらっしゃるんです」
 安道全は顔を上げ、沙耶を睨んだ。
「怪我人だと。何故ここへ連れてこない」
「あまり歩くと、怪我に障るかと……」
「言い訳はいい」
 ぴしゃりと遮ると、安道全は濡れた手を拭い、沙耶を押しのけるようにして待合室の方へ向かった。沙耶も、その後をついていく。
 待合室では、湯隆は沙耶の言ったままに椅子にかけていた。歩いてここまで来ることはできても、やはり怪我が辛かったのだろう。そんな湯隆を見て、安道全が言った。
「鍛冶屋ではないか。私が頼んだ道具は、まだできないのか?」
 二人は、顔見知りだったらしい。湯隆は顔を顰めながら、安道全に向けて足を投げ出してみせた。
「この足だ、見ればわかるだろう」
「私は、早急にと言った。頼まれたものをそのとおりに作るのが、おまえの仕事のはずだぞ」
「おまえが勝手に言いつけただけだ」
「勝手ではない。治療に必要なのだからな」
 言い捨てた安道全は湯隆の前に膝をつき、怪我の具合を診始めた。
 足の先に触れられると、湯隆は呻き声を洩らす。安道全はもう一言も余計な言葉を発さなかった。ここでこの場を立ち去るのも憚られ、沙耶はハラハラしながらその様子を見守っていた。
「――おい」
 しばらくして、安道全が声を上げた。最初、沙耶はそれが自分に向けられたものだとは思わなかった。安道全は、沙耶を振り返りもしなかったからだ。
「湯を沸かして、持ってこい」
「えっ……と、お湯、ですか」
「そう言っている。とにかく沸かせるだけ沸かせ。水は裏に引いてある」
「は、はい」
 沙耶が頷き終わらぬうちに、安道全は立ち上がった。沙耶の返事など、聞いてもいないに違いない。
「鍛冶屋、おまえはこっちだ。つま先を床に着けなければ、歩いても構わんぞ」
 言うだけ言って身を翻し、診察室の方へ戻ってしまった。沙耶が安道全と言葉を交わしたのは久しぶりのことだったが、彼はちっとも変わりないようだ。相変わらず、治療のことしか頭にない。
 その背中が完全に消えてしまってから、湯隆が億劫そうに腰を上げる。沙耶は手を貸すべきか迷ったが、躊躇しているうちに結局機会を逃してしまった。
 代わりに、置きっぱなしだった杖のことを思い出し、取ってきて湯隆に差し出した。
「あの、よかったら」
 診察室まではすぐだが、足にかける負担は少なければ少ないほどいいはずだ。
 湯隆はしばし、己に向けられた杖の柄を見下ろしていた。頑なに引き結ばれていた口の端が、ふと、僅かに持ち上がる。
「……すまない」
 杖を受け取って、湯隆は奥へ入っていった。
 さて、それでは、水を汲んでこなくては。彼を見送った後で、沙耶は気を引き締めた。
 しかし沸かすには、火にかけなければいけない。火のもと――そうだ、厨房がある。閃いて、早速厨房へ向かう。火だけでなく、もしかしたら湯も沸かしてあるかもしれない。
 厨房には、料理人がひとりいた。沙耶の思いつきは当たっていて、さらに安道全が治療に使うのだと言うと、快く協力してくれた。
 厨房の裏口から出てすぐのところが水場だった。湯はすでに沸いているが、ならば安道全は厨房に行けと言ったはずだ。わざわざ水場を教えたということは、もっと量がいるのだろう。
 沙耶は桶を借りて水を汲んだ。それを沸かしている間に、厨房にあった湯を診察室に持っていく。料理人が運ぶのを代わろうかと言ってくれたが、炉の使い方もわからない沙耶だ、彼には火の扱いの方を任せた。
 体力の落ちている躰には堪える道のりを、息も切れ切れに乗り越える。そして沙耶を迎えたのは、
「遅い」
 安道全の一刀両断だった。
「それに、これでは足りない」
「……はい、申し訳ありません。すぐに持ってまいります」
 言い訳は不要だとさっき怒られたばかりなので、沙耶は神妙に頭を下げる。
 ちらりと沙耶を一瞥してから、安道全はまた湯隆の治療に戻った。
 厨房に引き返すと、火にかけた鍋はもう煮えたぎっていた。それをまた安道全のもとへ運ぶ。何度か往復してようやく、湯はもういいと言われた。
「この薬がいる」
 帳面に何かを書き込み、そのページを破って沙耶に押しつけてくる。
「薛永に見せればわかる。使いくらいなら、おまえでもできるだろう」
 薛永とは、隣の薬方所に詰めている薬師だ。白勝から名を聞いたことがある。
 沙耶は途中で厨房に寄り、料理人に礼を言ってから、薬方所へ向かった。入口で訪いを入れると、奥から、青ざめた顔をした男がのっそりと現れた。彼が薛永だった。
「安道全先生から、使いを頼まれたのですが……」
「見せてくれ」
 安道全の名を挙げると、すぐさま薛永の顔つきが変わった。沙耶が手渡した紙片を見ながら、手際よく薬棚から薬を取り出し、卓の上に並べていく。
「怪我というのは、火傷か?」
「そこまで、は……鉄で、潰してしまったそうですが」
 答えあぐねる。鍛冶の最中だったなら、火傷でもあるかもしれない。
 薛永は紙片を卓に起き、その中の一文を指で示した。奥でも薬草を取り扱っていたのか、彼の指先は黒っぽく変色している。
「この薬は、患者を診て調合したいな。俺は道具を用意して行くから、他の薬を先に届けておいてくれ」
「はい。わかりました」
 指示に従って、養生所に戻った。
「やっと戻ったか。早く寄越せ」
 安道全は、沙耶が薛永の言葉を伝える隙も与えず、むしり取るように薬を受け取った。素早く吟味し、眉間に皺を寄せる。
「数が合わんぞ」
「あ、それは……」
 遅れて伝言を果たすと、そうかと軽い首肯だけが返ってくる。
 それきり、安道全は沙耶の存在を頭から追い払ってしまったようだった。沙耶のことはそのまま捨て置き、治療を再開する。治療を受ける湯隆は、やや辛そうに痛みをこらえる顔をしていたが、安道全の様子をどこか興味深げに眺めていた。
 手伝えることは、もうなさそうだ。
 一言断って部屋に戻ろうかと考えたが、しかし没頭している安道全に声はかけづらい。タイミングを測ってまごまごしているうちに、薛永がやって来た。
「先生」
「薛永、よく来てくれた」
 驚いたことに、安道全はわざわざ治療を中断し、戸の前まで行って薛永を迎えた。おまけに、歓迎の言葉まで口にするとは。沙耶の時とは随分な違いである。
「ああ、湯隆。怪我をしたのは、おまえだったのか」
 相変わらず顔色の悪い薛永が、奥にいる湯隆を見て言う。
「そういや、俺の薬研はまだか?」
「……他に言うことはないのか、おまえたちは」
 湯隆は呆れ顔だ。
「あの、安先生」
 今を逃すとこの先で口は挟めまいと、沙耶は口を開いた。それを、安道全は面倒くさそうに制する。
「おまえは、もういい。向こうの連中の面倒でも見ていろ」
 ほとんどぽいっとつまみ出されるような恰好で、廊下に追い出されてしまった。
「……はぁ」
 背後で戸の閉まる音を聞きながら、沙耶は嘆息が洩れるのを抑えきれなかった。行きがかり上手伝っただけで、見返りを求めていたのでもないのから、別に構わないのだけれども……どうにもやるせない。
 白勝は、まだ戻っていないようだ。
 待合室にいた数人に、湯隆の治療が終わるまでまだ時間がかかりそうだと告げると、彼らは日を改めて来ると帰っていった。薬を貰いたいという者もいたが、それは沙耶がもう一度薬方所へ赴き、薛永の助手との橋渡しをするだけで済んだ。
 皆を帰してしまった後で、念のために診察室を覗くと、血で汚れた晒布や湯を捨ててこいと言いつけられた。体よく追い払われただけのようにも思えるが、大人しくこなす。
 洗った盥を片付けている途中で、来訪があった。
 躰を横に傾け、重ねて抱えている盥越しに入口の方を窺う。養生所の新たな客は、公孫勝と、見知らぬ赤毛の男だった。
「薛永はいるか? 薬方所に行ったら、ここだと言われたのだが」
 尋ねてきたのは、赤毛の方である。
「はい、いらっしゃいます。ですが、今は安先生と診察中で……」
 公孫勝ももう一人の方も、どこか具合を悪くしているようには見えない。安道全が彼らをすげなく追い返す姿が、自然と頭に思い描かれてしまう。
「そうか。では、安道全に恨まれる覚悟をして行かねばな」
 赤毛の男は、どうやら冗談を言ったらしい。
 公孫勝が先に奥へと歩き出し、赤毛の男もそれに続いた。緊急の用事なのかもしれない。であれば、沙耶がこれ以上口を出すことでもなかった。片付けに戻ろうとし――
「あっ……」
 沙耶が腕に積み上げていた盥の山が、不意に上から崩れた。当然ながら、両手はふさがっている。どうにもしようがない。これから起こる災難を覚悟した時、すれ違う公孫勝の手が、すいと衣ずれの音もなく動いた。
 予想していた衝撃もけたたましい騒音も、起きなかった。
 白い手が軽く撫でるようにしただけで、盥の山は均衡を取り戻したのだ。難を逃れてからも、しばらくの間、沙耶はぽかんとしていた。手品か何かでも目の当たりにしたような気分だった。
「あ、りがとうございます、公――」
 礼をとりかけてまた盥を崩しそうになり、慌てて姿勢を正す。先ほどからずっと変わらず無表情でいる公孫勝は、ほんの少し顔を上げ、沙耶が向かおうとしていた先を顎で示した。
「行け」
「は……い」
 抱えている盥のバランスに気を配りつつ、沙耶は頷く。
 すると、公孫勝は蛇を思わせる眼で、ちらと赤毛の男の方を見やった。
「――何だ、劉唐」
「いえ。何でもありません、公孫勝殿」
 沙耶からは、盥が邪魔をして劉唐と呼ばれた男の表情は見えなかった。
 謎めいたやりとりに内心で首を傾げたが、あまり片付けに時間を取られては、また安道全に怒られてしまうかもしれない。歩き出す前に、沙耶は公孫勝らに今度は慎重に会釈をしたが、二人はすでに診察室へと足を向けていた。


 白勝は、日が暮れた頃になって帰ってきた。そして沙耶が容赦なく安道全に使われているのを見て驚き、次に謝り、それから安道全に苦言を呈した。
「おまえな、沙耶は病み上がりだぞ」
沙耶?」
 安道全ははじめ、何を言われたのか本当にわからなかったようだった。しばらく考える素振りをしてから、沙耶に視線を寄越す。
「ああ、そんな名だったか」
「…………」
 つまり今の今まで、沙耶は彼の中で通りすがりAとかB、もしくは甲乙丙とか、とにかくそんなだったのだ。さすがに、ちょっとどころではなく打ちひしがれてしまう。
 安道全の人となりをよく知っているからだろう、白勝はそれ以上の追及はせずに、手にしていた大きな包みを掲げてみせる。
「仕事は片付いたんだろ、飯にしようぜ。朱貴殿から土産を預かったんだ。――沙耶、おまえもどうだ?」
「あ……はい」
 問われて、沙耶は何となく頷いていた。それは、白勝の口から聞き覚えのある名が出てきたからかもしれなかった。
 湯隆はあの大怪我で、てっきり養生所に泊まっていくものだと思っていたのだが、鍛冶場へ帰ると言った。医療の道具だけでなく、梁山泊軍の武器など、急ぎ作らなければならないものが山ほどあるらしい。安道全がそれに待ったをかけなかったということは、見た目ほどひどい怪我ではなかったのかもしれない。
「世話をかけたな」
 帰り際、湯隆は沙耶にそう言ってくれた。沙耶は慌てて首を振った。
「そんな。大事ないようで、よかったです。道中、どうぞお気を付けて」
「ああ――杖を返しておく」
「いえ、それは、湯隆様がお使いください」
 貸していた杖を差し出されたのを、そう言って押しとどめた。
 聞けば鍛冶場は、沙耶がいつも勉強をしている東屋のもっと向こう、梁山泊の端の方に位置していると言う。入院するほどの怪我でなくとも、長く歩くには杖があった方がいいだろうし、沙耶は今まで杖なしで散々動き回っていたのだ。そうやって沙耶が湯隆に杖を譲ったのにも、安道全は何も言わなかった。
 その後で、薬方所の卓を安道全と白勝、それに薛永も加えて、皆で囲んだ。卓の上には、白勝の土産の他にも、厨房から運ばれた料理がさまざまに並んでいる。
 誰かと一緒に食事をとるのは、初めてだった。
 朱貴の店の評判の饅頭なのだと勧められて、沙耶は包子に似たものに手をつけた。魚肉が具になっていて、けれど臭味はなく、あっさりしている。今までは病人食だから薄味なのだと思っていたが、この時代の料理は、中華料理と聞いて沙耶が思い浮かべるものほど辛くはないようだ。
 とてもおいしかったけれども、病の篤い頃に一度食べたことがあると聞いた味は、記憶には少しも残っていなかった。
「どうした? 疲れちまったか」
 知らず暗い顔になってしまっていたのだろうか、白勝が気遣いの言葉をかけてくれた。
「もとは、俺が長く空けていたせいだよな。すまねえ」
「あっ、いえ、そ、んなこと――」
「そうだぞ、白勝」
 と、あたふたする沙耶の言を遮るようにして、安道全が横から口を差し挟んだ。
「白勝がいてくれればよかったのだ。こいつときたら、鈍くてまったく使いものにならん」
「鈍っ…………はい。申し訳ありません」
 思わず反論の声を上げかけた沙耶だったが、ではテキパキと手伝えたかと言うと、自信をもって断言することはできなかった。誹りを受け止めて、謝罪する。
「そもそも、俺を使いに出したのはおまえだろう」
 白勝がぼやいたのも、安道全は意にも介さなかった。
「まあ、黙ってこなしただけ、林冲よりはましだ。あの男は、薬もろくに作れぬくせに文句ばかり言うからな」
「あの林冲殿を顎で使えるのは、先生くらいですよ」
 粽をかじりながら、薛永が言う。称えているのか呆れているのか、彼の口振りからはよくわからない。
「――白勝先生」
 沙耶は、はたと手にしていた湯呑を卓に置き、白勝に向き直った。白勝が帰ってきたら尋ねるつもりだったことを、思い出したのだ。
「わたしは、いつまでに養生所を出なければならないのでしょうか」
「ここを出るって? 何の話だ?」
 白勝にとっては、寝耳に水の問だったらしい。
「えっと、今朝……病気が治れば、出ていかなくてはなりません、よね」
 しどろもどろに説明すると、白勝は軽く手を振った。
「ああ、別に、そういうつもりで言ったんじゃねえよ。急に出ていけって言われたって、困るだろ」
「ですが、いつまでもご厄介になるわけには、いきませんし……」
 それには、住むところと仕事を見つけなければならない。ただ、沙耶ひとりの力では難しいだろうから、そうするには白勝の手を借りるしかなかった。頼み込めば、「そりゃ、構わねえけどよ」と白勝は頷いた。
「何にしろ、当面はここで暮らしゃあいいだろう。なあ」
 言いながら、安道全に視線を向ける。他人事だと思っているのだろう、養生所の主はまるきり興味なさそうに茶をすすっていた。
「仕事って、沙耶、おまえは何がやりてえんだ?」
「……それは……」
 具体的なことを問われると、答えに詰まってしまう。言い淀む沙耶に、白勝は言葉を継ぐ。
「おまえ、いいとこの出なんだろう。手なんか、ちっとも荒れちゃいねえもんな」
 手、と言われて、沙耶は膝の上にある自分の手に目を落とした。かつてと比べると随分よくなったとは言え、肉が削げ落ちてしまった沙耶の手は、すっかり柔らかみがなくなっている。それでも、この時代の人間にとっては、これは苦労を知らない手なのだ。ちょっとお湯を使うのにも、あれだけの手間をかけなくてはならない。そんなことも、沙耶は今日まで知らなかった。
 何がやりたいのかと言うより、白勝はたぶん、何ができるのかと、遠回しに聞いているのだ。
「馬鹿な女だな」
 それまで黙って聞いていた、安道全が言った。
「悩むだけ無駄だ。おまえのように鈍いと、働き口などたやすくは見つからぬだろう」
「……は、はい」
 白勝があえて口にしなかったことをずばずばと突かれ、しおれて肩を落とす。ところが、すっかりしょげ返ってしまった沙耶に、安道全は続けてこう言った。
「しかし、運はいいな。養生所は忙しい。鈍い女の手も借りたいくらいだ」
「はあ」
 沙耶はきょとんとなった。狐につままれたような気分で、安道全を見返すしかない。
「え、と……つまり……?」
「まったくおまえは、頭まで鈍いのか」
 安道全は心底呆れ返ったような、沙耶を馬鹿にしきったような顔をした。腕を組み、言い放つ。
「その鈍いところには目を瞑って、私がおまえを使ってやると言っているのだ。感謝しろ」
「……あ、ありがとうございます」
 安道全の語勢につられて、沙耶はつい礼を言った。うむと頷いて、湯呑をまた持ち直す安道全。
 ……随分あっさりと、話がまとまってしまった。
 白勝と薛永が、二人して顔を見合わせていた。



 宋万は、また以前のように、調練の後で沙耶のところに来てくれるようになった。
 養生所の中に入ると安道全に邪魔者扱いをされてしまうから、廊下ではなく外で、窓越しに会話をする。そろそろ風も冷たくなってきて、夜中に外で長話をするのは辛いだろうに、宋万は相変わらず沙耶の部屋に上がるのを固辞していた。
 それでも、頻繁に沙耶のもとに顔を出してくれる。
「それで、養生所で働くことになったのか」
 話を聞き終えて、宋万が言った。
「はい。すぐに、というわけではないのですが……」
 今日はなりゆきでああなってしまったが、沙耶の体調を見て無理のない範囲で少しずつ、というのが、白勝が沙耶に出した条件だった。安道全に、ではないところが、何と言うか――もっとも、彼はあのとおり治療第一の医師だ、沙耶がまた躰を悪くするような事態には、ほかならぬ沙耶の意思でしかなりえないのかもしれない。
「住み込み、というかたちを取らせていただけることになったので、住む場所の心配もなくなりました」
 言いながら、沙耶は宋万の表情をこっそり窺った。沙耶が養生所にいると会いに行きやすいと焦挺は言っていたけれど、果たして宋万も、同じように思ってくれるだろうか。
「そうか。まあ、無理はするなよ」
 宋万は顎を撫でつつ言った。
「あの先生は、人使いが荒いからなあ。今日も、大変だっただろう」
 その言い方には、妙に実感がこもっていた。もしかして宋万も、沙耶と同じような目に遭ったことがあるのか……がっしりした体格の宋万が、反対にひょろりとしている安道全に顎でこき使われている場面を想像して、沙耶は思わず笑ってしまった。
「ほんとうに。こんなに躰を動かしたのは、久しぶりです」
 言った後で、宋万が、驚いたような顔つきをしてまじまじとこちらを見つめているのに気が付いた。何も、変なことを言ったつもりはないのだが……不思議に思って、首を傾げる。
「宋万様?」
「――おまえの笑ったところを、初めて見た」
 えっと呟いて、沙耶は自分の口もとに触れてみた。確かに今、笑ったような気がする。初めて……そう、おそらくは、この世界に来て、はじめて。
「そうしていた方がいいな。もう一度、笑ってみろ、沙耶
 そう言う宋万の方が、顔を綻ばせている。そんな宋万を見ていると、どうしようもなく気恥ずかしい気持ちになってしまって、沙耶は窓枠に手を置き、うつむいて躰を小さくした。
「な、何もないのに、笑ったりできません」
「では、次に来る時までに、おまえが笑い転げるような話を用意しておく」
 ちょっと顔を上げ、沙耶は宋万を見た。宋万も、穏やかな表情で沙耶を見ている。そうして二人はお互いの顔を見交わした後で、同時にくすりと笑い声を洩らした。