四
薬研という道具を、沙耶は初めて使った。見るのも初めてだ。小舟のような形をしたすり鉢の上に、車輪が乗っている。車輪の中心には棒が通っていて、その両端に手を置いて転がし、鉢の中のものをすり潰すのである。
粉が外に零れたり、潰し損ねた草の根が底に残っていたりすると、安道全から容赦ない罵声が飛んだ。
「同じことを、何度も言わせるな」
「申し訳ありません……」
「謝ればいいというものではないぞ。私が言ったとおりのことをこなしてもらわねば、何の意味もない」
「申し……は、はい」
沙耶は反射的に下げかけた頭を戻し、首肯した。
二、三日、薛永が梁山泊を離れるという。何でも呉用からの命令だとかで、公孫勝とどこかへ連れ立っていったのだ。そしてその間、薬作りの手伝いをするのが沙耶の仕事になった。
安道全は厳しいが、彼はどうやら薬師としての知識も卓越しているらしいし、加えて薛永には助手がいたはずだ。それを、こうしてわざわざ沙耶に学ぶ機会を与えてくれるのだから、感謝せねばなるまい。
四苦八苦しながら、何とか言いつけられた分をすり潰し終えた。
「先生、できました。……どうでしょうか?」
差し出すと、安道全はすり鉢の中身を検分した後で、無言のまま壺に移し始めた。
……無視とか。
沙耶はへこんだ。しかし、駄目な出来だったのなら安道全はきっぱりとそう言うはずだ。及第点ではあったのだろうと自分を慰める――と、すぐそばでけたたましい音がして、うつむいていた沙耶はハッと顔を上げた。
見れば、先まで安道全の手にあった壺が、割れて床に転がっていた。安道全は、顰めた顔をしている。何が起きたのかを咄嗟には把握できずに、沙耶はちょっとの間ぽかんとしてしまった。
「あ――の、先生、大丈夫ですか? お怪我は、」
「ない」
短く答えた安道全がその場に屈もうとする素振りを見せたので、沙耶は慌てて止めた。
「あっ、わ、たしが、片付けます」
とりあえず、大きな破片だけを脇に除ける。
細かいのは素手では片付けようがない。この時代、掃除機などはなくても、箒くらいならさすがに存在してくれるだろう……作業をしながら思案に沈みかけた沙耶の眼前の床に、安道全が受け皿を置いた。
「この上に移せ」
沙耶が今ちょうど摘まみ上げた破片を見やると、それはどうやら壺の底の一部で、粉末がいくらか無事に残っている。
「は……」
「それと、白勝には言うなよ」
「えっ、と、はい。わかりました」
どうしてここで白勝の名が挙がるのかわからなかったが、素直にそうやって頷いておいた。
「おい、安道全――」
ところがその時、タイミングがいいのか悪いのか、部屋の戸が開いた。白勝がやって来たのだ。床に膝をついている沙耶たちを見て、あっと声を上げる。
「おまえ、またやりやがったのか」
……また?
内心で首を傾げている沙耶に、白勝はいやにまじめくさって告げた。
「いいか、沙耶。安道全に、治療以外のことをさせるんじゃねえぞ」
「は、はあ……」
「こいつはな、人の腹を裂いて腐った腸を取り出すなんてのも器用にやってのけちまうくせに、医術以外のことに関しちゃ、とんでもねえほど不器用なんだ。すぐに物を引っくり返すし……」
「余計なことは言わなくていい、白勝」
安道全が憮然として言うも、白勝は「掃除の道具を持ってくる」と敏捷に身を翻して出ていった。白日鼠というあだ名があるそうだが、彼は本当に鼠のように毎日くるくる動き回る。
沙耶は呆気に取られたような気分で、ちらと安道全を見た。安道全は「そもそも薛永がいないのが悪いのだ」などと、ひとりでぶつぶつ不平を洩らしている。
安道全と白勝の二人は梁山泊に来る前からの知り合いで、兄弟のような仲なのだと聞いたことがあった。きっと白勝は、これまでもあれこれ安道全の世話を焼いてきたに違いない。想像するだに、微笑ましいものがある。
ふと、安道全の視線がこちらに向いた。
「何だ」
「いえ……」
睨まれても、つい笑みが零れてしまう。
さっきまでは怒られてばかりでビクビクしていたのに、何だかすっかり安道全のことが怖くなくなってしまった。これから先、この人の下でやっていけそうだな、とも思える。
「あの、先生に任せていただけるようになるまで、わたし、頑張りますから」
「……大口を叩くな」
しかし、安道全はそっぽを向いて立ち上がった。
偉そうなことを言って、怒らせてしまっただろうか――和やかな気分から一転、ひどい後悔の念に包まれた沙耶が謝罪を口にしようとした直前に、安道全は背を向けたままで言った。
「覚えてもらわねばならぬことは、まだ山ほどあるのだ。ぐずぐずしている暇はないぞ」
「あっ……」
沙耶は安道全の言わんとしたことを理解し、顔を輝かせた。急いで彼に倣って立ちあがる。
「はい、ご教示お願いいたします」
そして、しっかりと頭を下げた。
養生所を訪れる者は老若男女を問わず、自然、人と接する機会も増えた。
一刻を争う負傷者が担ぎ込まれたり、何十人もをいっぺんに対応したりということが多くあって、見知らぬ人と話すのに気後れを感じるような暇もない。そういう意味では、沙耶に適した職場かもしれなかった。
他にも、安道全が難しい患者にかかりきりの時は、軽い怪我の手当てなどは沙耶に任されることもある。働き始めた頃こそ包帯――晒もうまく巻けなかった沙耶だが、安道全に罵られつつ扱かれたおかげで、冬を迎える時期には、簡単な治療くらいなら独力でもできるようになっていた。
強面の男が、連れの男を半ば引きずるようにしてやって来たのは、そんな日のことだ。
「すまんが、こいつの傷を診てやってくれ。肩の傷だ」
言って、連れてきた男を前へ押し出す。当の怪我人は治療を受けるのに不承知らしく、難色を示している。
「孔明、要らぬと言っているだろう。この程度の傷」
「その程度だからだ、石秀。そんなつまらん怪我で、痕など残すなよ」
そう返す男の右の目尻には古い刃傷があり、それが男の顔つきをより凶暴なものに見せていた。ただ、話すのを傍らで聞いていると、それほど怖い感じはしない。
「では、頼んだぞ」
孔明と呼ばれた男は、石秀と呼んだ男の身を沙耶に預けて、すぐに去っていってしまった。
沙耶が患者の治療をする時には、奥の処置室を使う。奥へ案内しようとした沙耶は、しかし石秀自身に押し止められた。
「戦では、この程度の負傷であれば、自分で対処をする。薬と晒をくれるだけでいい」
「そう、なのですか。でも……」
石秀を見上げる。
先の孔明と違い、背が高いという以外の特徴を見つけられない風貌だ。無表情だが、どこか沈んだ雰囲気を纏っている。妙に頑なに治療を拒むのは、何か深い事情があるのだろうか――こうして真正面から向き合い、非礼にならぬように注意深く眼の奥を窺うと、そこにはやはり悲しそうな光がある気がした。
「ここは、戦場ではありませんから。お手伝いさせていただけませんか?」
重ねての峻拒はなかった。
処置室で手当てを受けている間、石秀は始終無言だった。沙耶も黙って、石秀の肩に晒を巻いた。もとよりそんな空気ではないが、沙耶もまだ会話をこなしながらの手当てができるほど熟練してもいない。
石秀の怪我は当人が言ったとおり浅い切り傷で、これならきちんと処置をすれば痕は残らないはずだ。
人の多い待合室と違って、部屋の中は静かなものだった。沙耶が立てる物音と、遠くの方から風に乗って届く子供のはしゃぐ声だけしかない。梁山泊の兵の中には家族とともに暮らしている者もいて、女子供や老人も、少ないながらここで生活しているのだ。
「子供の、屍体を見たことがあるか」
やにわに石秀が問うた。
沙耶はびっくりして、思わず手を止め、石秀を見た。石秀は、窓の外を見ている。
すすり泣き。怒鳴り声。真っ暗の部屋。口を開こうとし、沙耶は頭痛の前兆を感じて額を押さえた。小さく、頷くだけにとどめる。石秀も、ほんの僅か、頷き返した。
「惨い世の中だ」
その言葉にこめられたのは、後悔、怒り、悲哀、いずれのものでもなかった。あるいは、それは沙耶などには計り知れぬような感情であったのかもしれない。けれど……
子供たちの声は、本当に遠くのものではあるけれども、まだ聞こえている。
あの声に、この人はわたしとは違うものを見たのだろう。沙耶はそう確信めいて思う。例えば、沙耶が今でも時折、暗がりの中で幼子の屍体を見つけるように。
痛みを抱えて生きているのは、きっと沙耶ばかりではないのだ。
養生所は目が回るほどに忙しいかと思えば、まるで嵐の後の凪いだ海のように、患者が訪れない日もあった。そういう時、安道全は卓の上に肘を載せて頬杖を突き、表情を翳らせている。
「……もう、三日も患者が来ない」
「はい。よいことですよね」
独り言のような安道全の呟きに、沙耶は頷いて応じる。
いくら安道全の腕がよいとは言っても、やはりまだ医術が未発達な時代だ。現代では大したことのないように思えた病や怪我でだって、命を落とす者はいる。しかし、うっそりとした様子の安道全は、沙耶とは違うふうに感じているらしかった。
「確かに、よいことではある。それは理解しているが、私は治療をするのが生きがいなのだ。これ以上患者を診ない日が続けば、病気になってしまう」
「はあ……」
そうですか、としか返事のしようがない。そんな理屈があるはずがないのだが、暗い顔の安道全を見ていると、本当にそうかもしれないと思えてくるから不思議だ。
「よし」
急に背筋を伸ばして、安道全は沙耶の方を向いた。
「沙耶。風邪を引け」
「ええっ?」
沙耶は目を丸くした。おそらく冗談なのだろうが、いや、安道全なら本気でそういうことを言い出したとしてもおかしくはない。念のために、はっきりお断りしておくことにした。
「引けませんから。ご無理をおっしゃらないでください」
「無理などと。最初からそう決めつけるから、できぬのだ。諦める前にもっと努力をしてみろ」
「そんな努力、したくありません……」
「おまえは普段から役に立たぬくせに、こういう時こそ役に立たずしてどうする。できなければ、解雇だ」
「お、横暴ですっ」
もしかして、やっぱり本気なのでは……沙耶が微妙に焦り始めた頃になって、帳簿とにらめっこをしていた白勝が立ち上がった。
「おーい、安道全の病が出たぞ。誰か、呉用殿を連れてこい」
廊下の方へ顔を出して叫ぶと、また元いた卓に着き、仕事の続きにかかる。
……病扱いなのか、これは。それでどうして呉用を呼ぶのかはさて置き、今この場で直接助けてもらえる方が沙耶にはありがたいのだが、白勝にその気はないらしい。
上司の理不尽な説法を聞き流しながらそんなふうに考えていると、安道全が卓をばしんと軽く叩いた。
「人の話を聞いているのか?」
「……聞かないといけませんか」
要するに、彼は暇なのだ。
そのまま沙耶が延々と絡まれ続けているうちに、廊下から二人分の話し声が聞こえてきた。同時に、足音もこちらへと近付いてくる。
「呉用殿、よくぞ通りかかってくださいました」
「一体何ごとだ。私は忙しいのだが……医師にかかりたければ、自分で来るし」
「まあまあ。ここはひとつ、人助けだと思って」
「だから、何の話をしている」
青い顔をした薛永が、本当に呉用を引っ張ってやって来た。
「先生、呉用殿ですよ。好きなだけ診てください」
呉用の背を押し部屋の中に押し込めるようにして、薛永は言う。すごい台詞だ。沙耶と同じことを思ったのか、眉を顰めていた呉用は眉間の皺をさらに深めている。
そんな迷惑顔の呉用を見た安道全は、途端に色めき立った。沙耶に向かってしっしっと追い払う動作をする。
「沙耶、おまえはもういらん。下がれ。邪魔だ」
「邪……」
沙耶は閉口した。
安道全はもう沙耶のことなど視界に入っておらず、嬉々として呉用を連れて奥へ行ってしまう。呉用は最後まで嫌がっているようだったが、ああなった安道全を止める術はない。
「よく捕まえられたな、薛永」
「ああ、今日は運がよかった」
などと、白勝と薛永がやりとりを交わしている。ちょっと気になって、沙耶は聞いてみた。
「呉用様は、ご病気なのですか?」
「いや、特にどこが悪いというわけじゃないんだが」
薛永が答えた。彼はいつも青ざめた顔をしているが、具合が悪いのではなく、薬の試飲のためにそうなったらしい。
「まあ、忙しい人だからな。普段から、眠る間もないほど働いている」
「いつ倒れてもおかしくねえよ、あの人は」
白勝が付け加えて言う。
普段は、養生所に運び込まれる負傷兵の姿を見たり、宋万や焦挺の話を聞いたりすることばかりだから、文官の大変さというのはあまりぴんと来ないが……立場が違っても、みんなそれぞれの苦労があるのだろう。
数日して、人のことなどにかまけていられぬような忙しさがやって来た。
何でも北の方で戦があったとかで、何十人もの負傷兵が梁山泊へと運び込まれたのだ。船着場近くの招待所が臨時の病棟となり、沙耶もそこで働いた。
負傷兵の中には、公孫勝もいた。五針も縫う傷だったが、それでも他の兵たちに比べれば軽いものだ。安道全の治療を受けた後、公孫勝はすぐに病棟を出ていった。
――三人が、死んだ。
養生所で、治療の甲斐なく息を引き取った患者を沙耶は知っている。けれどつい今しがたまで生きていた人間が、血と泥にまみれたまま死んでゆく、その瞬間を目の当たりにしたのは初めてだった。
三人の屍体が担架で運び出されていく。先まで彼らが寝かされていた床上の、血に染まった敷布を新しいものと取り替えながら、沙耶はどうしてもそれを目で追わずにはいられなかった。
「沙耶」
「……あっ、はい」
呼ばれて振り仰いてみれば、そばに白勝が立っていた。白勝も治療に当たっていたので、手や着物の裾が血で汚れている。沙耶も同じくそうだろう。
「少し外に出てろ。顔が真っ青だぜ。休んだ方がいい」
「いえっ、白勝先生、わたしは……」
治療を待っている者はまだたくさんいるのだ。みんなが忙しく働いている時に、沙耶だけ休むことなどできようはずがない。そう思ってすぐに首を振ったが、白勝は重ねて言う。
「いいから、そうしろよ。無理をして、倒れられちゃ敵わねえからな」
「……はい」
返す言葉もなかった。
自分を不甲斐なく思いながら大人しく病棟の外に出ると、安道全と林冲が話をしている姿が見えた。
「兵の屍体を、二十も戦場に残してきたのか。もったいないことをする」
「みな致死軍だがな。兵は、また補充するしかあるまい」
「私がしているのは屍体の話だ。二十もあれば、腑分けをして何でも調べられた」
「……腑分けだと? おまえは、変わらんなあ」
安道全は、呆れた様子の林冲に、屍体の腑分けをすることが医術の向上にいかに貢献するかを懇々と説いている。途中で、林冲が「わかった」と遮った。
「俺が死んだら、屍体になっても歩いておまえのところに戻ってくるとしよう。腑分けでも何でも、好きにしてくれ」
そう言って安道全の肩を叩き、歩き出す。何気ない仕草だったが、そこにはささやかな友好が感じられた。それに、安道全の前では自分のことを「俺」と言うのだ。ああして冗談も口にする。
ふっと、目が合った。林冲は沙耶を見ると顔を顰め、小さく舌打ちをし、通り過ぎていった。
安道全も、こちらに気付いたようだ。沙耶は慌てて頭を下げた。
「あ、あの、申し訳ありません。先生方のお話を、立ち聞きするつもりはなかったのですが」
「別に、構わないが」
安道全は至極あっさりとしている。
ですが、と先を言い淀み、沙耶は遠ざかる林冲の背に目をやった。沙耶が何を気にしているのかようやく合点がいったようで、安道全が頷く。
「ああ、気にするな。林冲は、おまえのような女が嫌いなのだ」
「……わ、たしの、ような、ですか」
フォローになっていない。
いや、そもそもがフォローするつもりの言葉ではなかったのかもしれないが……「沙耶のような」とは、つまるところ沙耶のどの部分を指してそう言っているのだろうか。心の中で自分の欠点をひとつずつ挙げていってみて、沙耶は落ち込んだ。
「それで、おまえは何故ここにいるのだ」
「あ、白勝先生に……」
問われたので、とにかく今は気を取り直して、白勝に休むように言われたことをかいつまんで説明する。
話を聞き終えると、安道全は眉根を寄せた。
「屍体を見るたびに気分を悪くするつもりか? 早く慣れることだな」
「はい……」
「……まあ、その屍体を作らぬようにするのが、医師の務めだが」
言いながら、安道全の表情がふと翳った気がした。まるで、何かの痛みをこらえるように。それは幾秒かのことで、次に口を開いた時にはもういつもどおりの彼だった。
「そういえば、はじめは血を見るのも駄目だったな、おまえは」
「そ……はい。そう、でした」
沙耶はうつむく。出血のひどい怪我人を見ては倒れそうになって、よく今日みたいに休ませてもらっていた。今となっては、そんなことは滅多にないけれども。
「どうした?」
「いえ。先生方にご迷惑をおかけすることがないように、努力いたします」
「……うむ」
兵が死んだ後で腑分けの話をしていたくらいだ、安道全は屍体を見ても何ともないのだろう。きっと沙耶などよりもたくさんの人の死を間近に見てきた安道全は、もう慣れきって、平気になってしまったのだろうか。
安道全と同じように、沙耶がいつしか血に慣れたのとも同じように、いずれ沙耶もそれに慣れるのだろうか。誰かの屍体に。人がむなしく死んでいくことに。
それがよいことなのか悪いことなのか、考えても、沙耶にはわからなかった。