五
梁山泊に替天行道の旗が掲げられてから一年、梁山泊軍は叛乱の第一歩を踏み出した。梁山湖近くにある、ウン城という城郭を落としたのである。また、東の二竜山、桃花山に拠って立っていた楊志が梁山泊に合流し、兵力が大きく増えた。養生所で働く沙耶には、そういった情勢の機微はなかなか掴みにくいが、宋万がよく話をしてくれる。
聚義庁の入口には、名札が並んでいる。
頭領の晁蓋を始め、将校など責任のある立場の者の名が連ねられているのだ。そこには宋万や焦挺の名札もあったし、安道全や白勝の名札もあった。名札の裏には赤い字で名が書かれてあり、死ぬと裏返されるという。赤い名札は、まだ一枚もない。
名札は、梁山泊の一員となった証とも言えた。そこに楊志の名も加わった日、彼は養生所へやって来た。沙耶はちょっと会釈をしただけで言葉もほとんど交わさなかったが、そのあと意外なところで出くわした。
売店が立ち並ぶ広場でである。
沙耶は、休憩の合間に食べ物を買いに赴いたところだった。楊志は体格もよく、何より青面獣というあだ名の由来となっている、顔を覆う大きな青痣もあって、人の多い場所でもその姿はよく目立つ。
こちらを認めて、楊志の方から話しかけてきてくれた。
「おぬし、沙耶といったかな」
「はい、楊志様」
「養生所の他にもいろいろと見て回ったが、すごいな、梁山泊は。我々からすると、まるで別天地だ。ここにひとつの城郭が――いや、まさに国がある」
彼が嘆声を洩らすのも無理のないことだった。沙耶も非常に驚かされたことだが、宋銭とはまた別の、山寨内でのみ通用する銭まであるのだ。沙耶にも、働いている分は支給されている。
「……ひとつ、聞きたいのだが」
ふと眉を顰め、楊志はひどく躊躇った様子でそう口にした。表情が動くと、顔の青痣も生き物のように動く。
「何でしょうか?」
「女性は、何をもらうと嬉しく思うのだろうか。それと、子供も」
「えっ、……ええと」
予想だにしなかった問に、言葉を詰まらせてしまった。
しかし、よくよく見れば、楊志が立っているのは小物などを扱う店の前だ。二竜山、桃花山の山寨は、梁山泊と違って、ほとんどただの軍営のようなものだと聞く。さらに楊志はかつて官軍に所属しており、顔が割れているのとこの目立つ風貌とでは、城郭には入れまい。店で物を買うという行為は、こういうところでしかできないのかもしれない。
「ご家族の方への贈り物ですか?」
「ああ、曹正に、たまには妻と子に何か贈ってやれと、せつかれてな。梁山泊へは、物見に来たのではないのだが」
困りきったようにそう言うが、必ずしも嫌ではなさそうだ。
……家族があって、きっと幸せなのだろうな、と沙耶は思った。
楊志が孤児を引き取ったという話は、宋万から聞いて知っている。それでなくとも、彼の話題はよく人の口にのぼった。楊志の息子は名を楊令といって、本当の親を賊に殺され口が利けなくなっていたのが、楊志と彼の妻を父母としてともに暮らすうち、声を取り戻したという。
さて、けれどもアドバイスをするには、沙耶では役に立たないだろう。この時代この国の女性が欲しがるものなど、男性の楊志よりも理解がないこともありうる。それに、贈り物というのは本人が選ぶのが一番だ。
「そういうことでしたら、存分に悩まれることです、楊志様。そうやって楊志様がお選びになった贈り物が、何より喜ばれるでしょうから」
「……なるほど、そうか。では、悩むとしよう。果たして何刻かかるかわからぬがな」
楊志は笑った。
笑うと、青痣のせいでともすれば陰惨にも見える顔つきが、嘘のように明るいものになる。彼が本当に家族を大事にしているということが、沙耶にも十分すぎるほど伝わってきた。
子が親を亡くしても、その子を拾って慈しんでくれる大人がいる。
荒れた国にあっても、そんな――楊志とその家族が持っているような幸せが、確かに存在している。それはどんな国でも、どんな世界でもそうなのだ。
楊志が立ち去った後も、沙耶はぼんやりと店先に立ち尽くしていた。そのせいで、
「――沙耶」
声をかけられた時、ひゃっと飛び上がりそうに驚いてしまった。振り向いた先の宋万も、驚いた顔をしている。
「すまん。驚かせたか」
「宋万様。い、いえ」
鼓動の速まった胸を押さえ、首を振る。
宋万は具足姿だった。調練が終わった直後なのか、あるいは沙耶と同じように休憩中に練兵所を抜けて来たのか。彼は笑顔になり、ほがらかに続けた。
「珍しいところで会うな。何を見ていたんだ?」
「え、と……」
ぼうっとしていただけで、特に何を見ていたのではない。楊志が、妻のために髪飾りを買った店の前だった。沙耶の答えを待たずに、宋万は並べられた商品を覗き込むように見やって、ふうんと呟く。
「女はこういうのが好きだな。俺には、よくわからんが。――おい、これをくれ」
言いつつ、髪飾りのひとつを取り、宋万は梁山泊の銭を支払った。沙耶がそれをぽけっとして見ているうちに、こちらへと宋万の手が伸びてくる。その指が沙耶の耳に触れた瞬間、沙耶は跳ねるように後ずさった。
「そ、宋万様っ、あの……」
「動くなよ。――よし」
左の耳の少し後ろの辺りに、髪を引っ張られる感触があった。それと、僅かな重み。宋万が、今しがた買ったものを沙耶の髪に挿したのだ。
宋万は一歩下がって、沙耶の姿をしげしげと眺めた。その後で、にっこり笑う。
「ああ、似合うな」
満足そうな笑み。何故か、先ほどの楊志の笑顔が重なった。
そのことに、ひどく、胸を衝かれる。楊志の時は胸があたたかくなっただけだったのに、今は、ただひたすらに熱い。何か熱いもので胸がいっぱいになって、すぐに躰じゅうが熱くなり、とうとうその熱はこらえきれずに溢れて零れていく。
往来にもかかわらず、沙耶は泣き出してしまった。
「ど、どうした、沙耶。気に入らなかったか?」
「ちが、います、違うんです、わたし……」
「わかった。いや、わからんが、とにかくちょっと移動しよう」
相当にうろたえている宋万だった。
泣き続ける沙耶は、迷子の子供のように手を引かれて歩いた。その間、行き交う人々の好奇の視線を浴びたが、それでもやはり涙は止まらない。
広場の、店先よりは人の少ない隅の方までやって来ると、宋万が改めて尋ねてくる。
「沙耶、一体どうした?」
「あの……あんまり、う、嬉しくて」
しゃくり上げながら目もとを何度も拭ったが、涙は止まらずに手がびしょ濡れになっただけだった。嬉しいのが許容量を超えると、超えた分は涙になって外に出ていくのだ、と沙耶は濡れた手を見て思う。
「沙耶」
「はい……」
壊れ物を扱うみたいにして、宋万がそっと沙耶の後ろ頭を撫でた。
宋万が沙耶に触れてくるのは、最初に会った時以来、初めてのことだった。ほんの少しうつむいただけで、額が宋万の胸に当たる距離。不思議と嫌悪も恐怖も感じなかったので、今度は沙耶はその手を撥ね退けるような真似はせず、ただじっとしていた。
頭上から、宋万の声が降ってくる。
「俺と一緒にならないか」
「一緒? と言うと……」
「……言いなおす。俺と、夫婦にならないか」
夫婦。
涙も一瞬で引っ込んだ。宋万を見上げ、あんぐりと口を開ける。
「えええっ!?」
「そこまで驚かれると、傷つくな」
宋万はいじけたように口を曲げるが、沙耶はそれどころではない。
「だっ、え、だって……めおっ……えっ?」
出てくるのは意味をなさない音ばかりだ。驚愕のあまりか、眩暈までしてくる。混乱のただなかで頭を抱えていると、宋万が苦笑混じりに言った。
「俺が嫌いか」
「――まさか! そんなこと、ありえません」
慌てふためき、即座に首を振る。そんな、とんでもないことだ。激しく否定してみせる沙耶に、しかし宋万はちょっと複雑そうな表情になった。
「では、何だ」
「あ、の、宋万様、わたしはっ……結婚は、できません。宋万様に、ふさわしくないと思うのです。一時は気が触れていたわけですし、王倫の妾をやってもいました。それに」
たどたどしく告げる言葉を一度切り、沙耶は震えた。自身の肩を強く抱く。それに。
それにあの、おぞましい日々。
「……どなたかに、妻に迎えていただくような資格がないんです。宋万様に、わたし、」
「もういい、沙耶」
その続きを、宋万が遮った。
「俺が惚れた女を悪く言うと、怒るぞ」
「あ、申し訳――」
咄嗟に謝りかけたところで、えっと固まる。何だか今、ものすごいことをさらりと告げられたような……けれども、それは決して戯れを口にするような語調ではなかった。
「そのような理由で断るなら、俺は諦めん。おまえの気が変わるまで、いつまででも待つ」
「宋万様……」
どこまでも真剣に、宋万は自分の気持ちをぶつけてきてくれる。それは嬉しいのと同時に、悲しいことだった。
沙耶は、生涯、自分が恋人や夫を持つことはないと思っていた。
宋万に告げたような理由もあるが、加えて、沙耶はこの世界の人間ではないからだ。この国に生き、人々との繋がりを得て、毎日を営んでいるというのに――心のどこかはいまだ、沙耶が生まれたあの国にあった。そこで得たものや過ごした日々を忘れられず、捨てきれないでいる。この世界に根を下ろすことになる行いを、自分に許せないでいる。
「まあ、いい。少し考えてみてくれ」
ぽんと、宋万は沙耶の頭を優しく叩いた。だから、沙耶は悲しくなるのだ。宋万の気持ちに応えられる自分であったらいいのに。
沙耶はただ頷くだけでせいいっぱいだった。
患者の来訪が少ない日にいつもそうするように、薬方所の卓を皆で囲んで夕食を取った。
養生所の顔触れだけでなく、湯隆もいる。彼は安道全たちと交流があって、完成した医療道具を届けに来たり、何か治療を受けたりした時は、ついでに食卓に加わることも少なくない。
夕食には、沙耶が飲むことはないが、酒も出る。
「おまえ、宋万に求婚されたんだって?」
食事の最中、白勝が酒の椀に口をつけながら出し抜けに尋ねてきたので、沙耶は飲んでいた茶を噴き出しそうになった。こらえたが、激しくむせる羽目になる。
「は、白勝先生っ? なぜそれを」
何とか呼吸を落ち着けてから聞き返すが、思い当たる節はたくさんあった。
何しろあの日は買い物に行ったのに手ぶらで帰ってくるわ、泣き腫らした目をしているわ、何か頭に髪飾りが増えているわで不審極まりなかっただろう。おまけにその後の仕事は何をするにもうまくいかず、おかげで安道全には罵られまくったりもした。
いや、それでも、ずばり求婚されたと言い当てられるのは妙な話だが……
眉根を寄せる沙耶に、白勝はさらに言う。
「何故って……結構な噂になってるぞ」
「うわさ!?」
沙耶は取り乱した。
しかしそれにも心当たりがありまくりだ。何せ昼の最中、人の多い広場でのことだったのだ。……どうしよう、下手をすると、宋万の評判を落とすことに繋がりかねないのではないか。深刻に考え込み始めた沙耶に、白勝はなおも問う。
「それで、結婚するのか?」
「えっ? ……いえ、それ、は」
「振ったのか」
沙耶が口ごもると、薛永がすぐさま反応した。
「と言いますか、えっと、」
何だか気圧されてしまう。どうしてこの人たちはわたしの恋話にこんなに食いつきがいいのかしら、などと内心で訝しく思いつつ、何のかんの言い合ううちに沙耶は洗いざらい吐かされてしまった。
「つまり、返事は保留か。無期限で?」
話を聞き終えて、白勝はしみじみと言った。
「おまえ、鬼だなあ」
「ああ、まったく、酷な仕打ちをする」
白勝の調子に合わせて、薛永は相槌を打つ。
「う……」
グサリと来た。正直なところ自覚がないわけではない。
あのやりとりがあった日の夜にも、宋万は今までと変わらない様子で沙耶に会いに来てくれた。そして帰り際に「また来る」と告げたのである。沙耶はつい、本当にまた来てくれるのかと尋ねてしまった。
「何だ、もう会いに来るななどと言うなよ」
「そっ、の、ようなことは、申しませんが……」
宋万が待つと言ってくれたにせよ、沙耶は一度は求婚されたのを断ったことになる。なのに、またこれまでどおりの関係を望むなど、虫がいい話だろうと思っていた。
沙耶が言うと、宋万は「そんなことか」と一笑に付した。
「おまえはいつもそうだな。俺は、おまえの言うことなら何でも許すし、聞いてやるつもりでいるのだが」
「……あまり、わたしを甘やかさないでください」
ちょっとずるいと思う。宋万はこんなふうに、いとも簡単に、沙耶を泣きたい気持ちにさせてしまう。
「でないと、思いきりわがままをしてしまいたくなります」
「ああ、いいぞ。何でも言ってくれ」
沙耶は意地悪を言ったつもりだったのだが、宋万の優しげなまなざしに耐えきれなくなって、下を向いた。どうしてそう嬉しそうにするのだろうか、わからない。
「――俺はな、おまえが俺を完全には撥ね退けられないような言い方を、わざとしている。だから、気にするな」
そんなふうに言ったのは、沙耶の気を軽くさせるための嘘だったのかもしれない。本当のことだとしても、あえて正直に告げるあたりが、宋万らしかった。
そういうことがあって、宋万との関係はこれまでと何ら変わっていない。
あれこれを思い返しながら、沙耶は自分の髪に触れてみた。そこには、宋万からもらった髪飾りが挿してある。そんな沙耶の様子を見て、白勝と薛永はお互いに目線を交わし合った。
「何だ、満更でもねえのか。俺の勝ちだな」
「いやいや、おまえが賭けたのは『結婚する』であって、『気がある』じゃあなかったはずだぞ、白日鼠」
「賭け!?」
沙耶は思わず悲鳴みたいな声を上げた。
「おっと、口が滑ったな」
「ほら、梁山泊は娯楽が少ねえからな」
「……ごらく、ですか」
何ということだ。
もしや沙耶は、梁山泊のあちこちで賭けの対象になっているのでは。そう考えるのは、いささか自意識過剰だろうか。けれど、とは言え……
沙耶はちらりと、同じ卓についている安道全と、湯隆を見る。先ほどから寡黙を貫きとおしている湯隆は、沙耶の視線をさっとかわし、椀に酒を注ぎ足し始めた。……つまり、湯隆も賭けに乗った口なのに違いない。
すると、そうするには心許なさすぎるが、この場で味方につけられるのは素知らぬふうで茶をすすっている安道全しかいなかった。沙耶の救いを求める目に気付いて、安道全は顔を上げた。
「結婚したら、仕事は辞めるのか?」
「辞めません……し、結婚もしませんが」
……何を聞いていたのだろうか、安道全は。当人に尋ねなくともわかることだ。さっぱり興味がないから、もとからほとんど聞いていなかったに違いない。孤立無援の沙耶だった。
そして、そうやって白勝たちの耳に届いている噂を、焦挺が知らないはずがなかった。
読み書きにはもう不自由していないのだが、東屋で勉強をする習慣はいまだ続いていた。勉強というのはもはや口実で、焦挺と一緒に単なるおしゃべりをして過ごす時間になりつつある。
「これがどこの馬の骨ともわからぬ輩なら、俺が張り倒してやるんだがなあ」
というのが、焦挺の感想だった。
馬の骨具合で言うなら、沙耶は梁山泊の……いや、この世界中の誰にも負けないだろう。
「……そんなこと言って。お父さんみたい」
沙耶の返しに、焦挺が不思議そうな顔をする。「お父さん」という言葉では通じにくいのかと思い、「父親ってこと」と付け加えれば、焦挺は大きな笑い声を上げた。
「父親か、それはいい。娘を嫁に出す父としては、宋万殿に立ち合いを申し込むべきかな」
「よっ、だから、そ、そういう……」
沙耶が狼狽してごにょごにょ言っていると、不意に呟く。
「まあ、俺は、宋万殿が相手なら、大人しく引き下がるつもりだ」
「え……あっ、うん。冗談でも、危ないことはあんまりしないでほしいな」
きょとんとしながらも頷く沙耶に、焦挺はただ苦笑を浮かべていた。