六
じきに戦がある。軍師見習いの阮小五が口にした予見は、現実のものとなった。その年の冬、梁山泊から軍隊が進発したのだ。将校である宋万らはもとより、頭領たる晁蓋も進軍に加わり、まさに梁山泊軍の主力が出動したと言えるだろう。
三千の兵が出払ったのち、梁山泊は閑散としていた。留守兵のほか、前線で戦うことのない者たちが残っているとは言え、やはり普段と比べると患者の訪いはずっと少ない。
沙耶と白勝は、たびたび薛永の薬方所へ手伝いに赴いた。安道全の「病気」のとばっちりを避けるためでもあるし、兵が帰還した際の準備を整えるためでもある。
「何でも宋江殿が、江州で官軍に包囲されちまってるらしい」
薬研を扱う白勝の傍らで、沙耶は薬草の分類をしていた手を止め、思考を巡らした。
宋江。記憶の中から、その名前を引っ張り出してみる。晁蓋と同じく、梁山泊の頭領となる人物。今は全国を渡り歩いていて、沙耶はもとより、宋万や焦挺もいまだ顔を合わせたことはないと聞いた。
一方、江州というと、長江の辺りの地名のはずだ。黄河の支流のひとつが流れ込む先が梁山湖となっていて、つまり梁山泊とは結構な距離で隔たれている。
「とすると、此度の戦は随分と遠征になるのですね」
「ああ、馬を使っても、七日はかかるか。歩兵がいるとなりゃ、もっとだな」
「七日……そんなに、ですか」
つい溜息を零しそうになって、寸前でこらえた。往復で二週間以上……着いたところですぐさま引き返すわけでもないから、梁山泊軍の帰還がいつ頃になるのか、想像もつかない。
「実は、安道全のやつが従軍するって話も出てたんだぜ」
「そうなんですか? 安先生が?」
「今回は、江州まで急がなきゃならねえってんで、流れちまったけどよ」
こういった情報に、白勝はいやに詳しい。安道全や薛永、湯隆などは、仕事に打ち込めてさえいられれば他は一切気にならないという職人気質だから、白勝がいつもいろんな話を仕入れてきてくれるのは、沙耶にはとてもありがたいことだった。
「どこかに陣を据えてやり合うような戦がありゃ、医者も連れていくんじゃねえか」
「その時は、白勝先生や薛永先生も、きっとご一緒されるのですよね」
「ん? まあ、そうなるだろうな」
「わたしは……連れていっていただけるのでしょうか」
「――おまえ、戦について行きてえのか」
「それは、」
険のある視線をぶつけられ、沙耶はたじろいだ。
「許可、していただけるの、でしたら」
何しろ、職務に忠実ゆえに出た言葉なのではない。戦争というものに対して不謹慎な発言であったことは否めなかった。自然、返答も歯切れが悪いものになってしまう。
へどもどする沙耶を見やり、白勝はふと、表情を和らげた。
「なあ、沙耶。俺は、おまえのそういうところが心配だよ」
言われて、ぱちくりと瞬きをする。彼の言い方では、まるで小さな子供に道理を諭しているかのようにも聞こえる。
「は……あの、そういうところ、と言いますと」
「それだ、それ」
指示語ばかり使われても、何が何だかわからない。「はあ」とぼんやりとした返事をするしかない沙耶に、白勝は重ねて言い聞かせようとはしなかった。その代わりに、軽く頷く。
「俺も、わからねえでもねえけどよ。遠くであれこれ要らねえ心配しちまうよりは、まだ近くにいた方がいいよな」
「白っ……」
心中をぴたりと言い当てられ、思わず腰を浮かしかけた。完全に見透かされているではないか。
「何だよ。違うのか?」
「……い、え、違いません、けど……」
しかし沙耶のそんな反応に、白勝はちょっと怪訝そうな表情をしてみせたので、必ずしも冷やかしのつもりで言ったのではないようだった。ぎくしゃくと座り直し、そういえば――と、沙耶は思い至った。
白勝は、騎馬隊隊長の林冲と友人同士なのだ。よく安道全と連れ立って牧へ足を運んでいるようだし、林沖の方から養生所を訪ねてくることもある。一度、それとなく林沖との関係について触れてみた時には、
「この歳になってから気付いたんだが、友達ってのはいいもんだよなあ」
と、てらいもない答えが返ってきたものだ。だから彼が梁山泊軍の動向にも明るいのは、もしかすると、今の沙耶と同じ気持ちでいるからなのかもしれない。
「そう……ですね。ここでは、戦況も何もわかりませんから」
「まあな。けど、そう気を揉んだって、仕方がねえ」
そう言った白勝の声音には、己が抱えるのに類する憂慮の色が滲んでいたが……沙耶は何も気付かない振りをして、すっかり止まってしまっていた手をまた動かし、作業を再開した。
沙耶が急いても、時間は緩やかに流れていく。病床にいた頃の苦しみと似ているようで、それはまったくの別物だった。遠く離れたところにいる誰かの無事を祈って待つことは、こんなにも辛いのだ。
梁山泊軍が宋江救出という勝利の報を携えて戻ってくると、養生所はにわかに忙しくなった。もちろん沙耶とて例外ではなく、早朝から負傷兵の受け入れに奔走していたのだが、
「おい、沙耶。休憩に入っていいぞ」
突然、白勝から暇を言い渡されてしまった。
「今からですか? ですが……」
忙しいとは言っても重傷の者はさほど多くなく、以前に致死軍の負傷兵が運び込まれてきた時ほどの目まぐるしさはない。しかしそれにしたって、仕事の本番となるのはこれからだ。
もしや、何か粗相をしてしまったのだろうか。後ろ向きな思考に捕らわれがちな沙耶である。
「今、歩兵を乗せた舟が着いたらしい」
「はい……」
沙耶が悄然と応じていると、助手に指示を出していた薛永がそれを終えたのか、横からのっそりと口を挟んだ。
「鈍いなあ。待ち人の帰還だろう」
「あっ、え、そ、そういうこと、ですか」
ずばり告げられてようやく得心したが、それだけにいたたまれない気持ちにもなる。一時うろたえた沙耶はひとつ咳ばらいをし、白々しくも平静を装って続けた。
「お気遣いは嬉しいのですが、こんな時ですし、公私の別は弁えているつもりです」
「朝から浮かれてやがったくせに、何言ってんだ」
まったくもって白勝が指摘するとおりで、沙耶は胸中でうっと呻いた。沙耶としては、ことさらに普段どおり振る舞っていたつもりだったのだけれども。
「今でないと、後になってからでは抜け出せんぞ」
薛永が言い添える。三千の兵を、舟でいっぺんに運ぶのは難しい。いくつかの隊に分かれて帰ってくるので、時間が経つほど養生所で診る人数は増えていくのだ。
「いいから、行ってこい。その代わり、ちゃんと帰ってこいよ」
「……ええと、それでは、お言葉に甘えさせていただきます」
そこまで言ってくれるのを撥ねつけてまで、固辞する理由はなかった。あえてひとつ挙げるとすれば、気遣われていると言うよりは、半分くらいは遊ばれているようなのが気にかかるところではある……にやにやしている白勝に、何となく素直に感謝しにくい心境に駆られはしたものの、沙耶は礼を述べて養生所を出た。
坂道を下る途中、何人もの兵士たちとすれ違う。快勝しただけあって、みんなの表情は一様に明るい。今まで侘しかった梁山泊が、急に賑やかになったようだ。知らず、足早になってしまう。
二の木戸の向こうから、宋万が歩いてくるのが見えた。すぐに沙耶に気が付き、笑顔を浮かべる。
「宋万様――」
宋万が帰ってきたら何と声をかけようか、いろいろと考え抜いていたにもかかわらず、沙耶はそのどれも口にできなかった。宋万は沙耶のもとまで大股でやって来ると、ごく自然な動作で、沙耶をひょいと抱き上げたからだ。
「久しいな、沙耶! 変わりはなかったか?」
「あ、わっ……わたしは、何もっ……宋万様も、お変わり、なく……」
いつもより高くなった視界の中で、宋万が沙耶を見上げている。反射的に手を置いてしまった宋万の肩の厚さだとか、沙耶の腰を軽々と支えている大きな手の温もりと力強さだとか、少し目線を下げればすぐ近くにある屈託のない笑みだとかに、沙耶は息も絶え絶えになった。
「あの……お……降ろ……」
「ああ、すまん」
要求したいことの最初の二文字までをどうにか告げたところで、宋万は沙耶を抱えていることにたった今思い及んだとでもいうような顔になって、すんなりと沙耶を降ろしてくれた。
「やっとおまえに会えて、つい浮かれてしまったのだ。許してくれ」
「どっ、そ……い、いえ、はい」
どうしてそういうことをさらっと言ってしまえるのだろうか。沙耶は地面に足が着いたことに安堵する間もなく、息苦しい動悸とかっかする頬を必死で鎮めなければならなかった。
「ここにいていいのか? 養生所は?」
「あ、えっと……休憩を、いただいて」
まさか、白勝に指摘されたことをそのまま伝えるわけにはいかない。沙耶は話の矛先を逸らすことにした。
「此度の戦では、負傷された方も少ないのだとか。安先生がぼやいていました」
「そうか、怪我人が多いのは、二竜山の方だろうからなあ。あの先生も、さすがに飛んではいけまい」
宋万はかいつまんで、梁山泊軍は江州までは進軍せず、もっと手前で敵の援軍を牽制していたのだということを教えてくれた。
彼はよく、軍や戦にまつわる話を聞かせてくれる。沙耶からすれば理解が難しいような話も少なくはないが、時代背景までを考慮するなら、この分野に女性を関わらせることを厭う者は多いだろう。なのに、宋万がそういうものなしに何でも語ってくれるのは嬉しい。それらは梁山泊軍の将校をしている宋万からは決して切り離せない事柄なのだから、なおさらだ。
もっとも――無骨なところのある宋万はもともと話題がそういう方面に偏りがちなのが、沙耶がいつも懸命に耳を傾けるものだからますます顕著になってしまって、それを知った杜遷にしばしば苦言を呈されたりしているのだが、沙耶には知る由もなかった。
「阮小五が、いい策を出してくれた。軍師としては、初陣だったそうだが」
「そうでしたか、阮小五様が」
僅かな驚きを込め、相槌を打つ。以前に阮小五と会った時には随分と悩んでいる様子だったけれども、うまくプレッシャーを乗り越えられたのか。
ちょうどその時、噂をすれば何とやらで、阮小五が晁蓋と連れ立って木戸をくぐってくるのが見えた。阮小五もこちらを認めていたようで、行き違う際に目が合うと、どうだと己の戦果を誇るように片手を挙げてみせる。沙耶も、微笑み返して会釈をした。
その後で宋万を見上げれば、何故だか苦い顔をしている。
「宋万様? どうなさいました」
「いや。我ながら、年甲斐もないと思ってな」
「はあ……」
わけがわからないまま曖昧に頷く沙耶。――いやしかし、これでは失礼に当たるのではないか。直後にはたとそう思い直し、慌てて力いっぱい否定した。
「いえっ、宋万様は、十分お若くていらっしゃると思います!」
その語勢にやや目を丸くする宋万は、やがて苦笑いの表情に変わった。手を伸ばし、沙耶の頭の上に置く。
「それは、誉め言葉だろうな?」
「も、もちろんです」
「はは、そうか」
声を立てて笑う宋万がそのまま優しい手つきで頭を撫でてくるので、沙耶はもうしばらく、不思議と心地よい息苦しさを覚えることになった。
宋江とは別に各地を放浪している魯智深という僧侶が、長らく連絡が絶えていたが女真国から九死に一生を得て救出されたとの報せが届いたのも、同年の冬のことであった。
「安道全はいるか」
養生所にずかずかと乗り込んできた林沖は、沙耶の顔を一瞥するなりそう言った。
「はい、奥にいらっしゃいます。すぐにお呼びして……」
「林沖か、どうした?」
沙耶が皆まで口にする前に、安道全が出てきた。
来客を自ら出迎えることは稀な彼なのだが、ちょうど患者が途絶えたところだったので、来客の気配に浮き浮きとやって来たのだろう。さっと林冲の全身を眺め渡し、安道全はあからさまにがっかりした。
「……健康そうだな」
「診てもらいたいのは、俺ではないのだ」
「ふん。先に言っておくが、馬は診ないぞ」
「人だ、安心しろ」
林冲は苛立っているようだった。その吐き捨てるような物言いにも、安道全は動じない。
「ならばいい。患者はどこにいる?」
「滄州」
林冲の短い答えに、今度は、安道全は少しばかり目を見張った。傍らで二人の会話を聞いていた沙耶も、内心で驚いていた。滄州は北の方の土地で、先の戦が行われた江州ほどではないが、気軽に行って帰ってこれる場所ではない。
「遠いな」
「とにかく、一刻を争う容体なのだ。頼む」
「ここにも、目の離せない患者はいるのだぞ。だが……頼むのか。おまえが」
「そうだ」
そのやりとりで、沙耶にはわからずとも、安道全と林冲の間では何か通じるものがあったらしい。わかった、と彼にしてはひどく素直な調子で、安道全は頷いた。
「何にせよ、時間はもらわねばならん。――沙耶」
「はい。薛永先生をお呼びすればよろしいでしょうか」
「わかっているなら、早くしろ」
「はい、先生」
安道全の理不尽な言い草にも、もはや慣れたものである。
沙耶に呼ばれてやって来た薛永に、安道全は病棟にいる何人かへの対処の仕方を説明してから荷をまとめると、すぐに林冲に連れられて梁山泊を発った。
林冲の言う患者が魯智深なのだと、沙耶は後に白勝から聞いて知ったのだった。梁山泊の同志のうちでは有名な人物らしく、薛永も白勝も、とりあえずの彼の無事を聞いて安堵していたし、あちこちで人々の喜びの声を聞いた。
数日して、梁山泊はまた喜びに包まれた。死の淵にいた魯智深を、安道全が見事に生き返らせたのだ。けれども養生所に戻ってきた安道全は、彼の方こそが死人のように青白い顔をしていた。
戻ってすぐ、安道全は薛永に任せていた病人の診察を始めようとしたのだが、本当にひどい顔色だったので、沙耶は引き止めた。
「先生、少し休まれた方が……」
「いらん。病ではないのだ」
沙耶が薬湯を持ち出そうとしたのをすげなく断り、安道全は呟いた。
「……もう二度と馬には乗りたくない」
そのさまがあまりにも深刻そうで、沙耶は思わず口もとを緩めてしまった。つまりは、梁山泊が誇る希代の天才医師も、乗り物には弱いということらしい。
さりとて、人が救われるばかりではなかった。
快進撃を続けていた梁山泊は、時に痛手を負うこともあった。翌年の春には楊志が暗殺され、指揮官を失った二竜山と桃花山は官軍の猛攻に晒された。その戦では石秀と、周通という将校が討ち死にした。
聚義庁の入口に掲げられた名札に、ぽつぽつと赤い名が混じっていた。
黒で書かれた名の中にあって、それはよく目立つ。聚義庁へと使いへ赴いた沙耶は、その帰り、無意識のうちに名札の前で足を止めていた。じっと名札の赤い字を眺め、立ち尽くす。
と、聚義庁の中から誰かが出てきた。赤髪碧眼の男――以前に公孫勝と一緒にいるところを見たことがある、劉唐だった。
「養生所の」
劉唐が沙耶に目をとめたので、沙耶は彼に向き直り、礼をとった。
「名札を見ていたのか」
「……はい」
「知り人が逝ったのか――いや、要らぬことを言ったかな」
「あ、いえ、そういうわけではないのです」
沙耶はかぶりを振った。楊志とも石秀とも、二言三言、言葉を交わしたことがあるだけだ。周通という男は、顔も知らない。
ただ……楊志とは一度会ったきりではあるけれど、その時、沙耶には彼が、世界に偏在する幸福の象徴のように思えたのだ。だからその死を知り、大変な衝撃を受けた。そして、すぐに続いて石秀も戦死した。
沙耶が名を知る人も、そうでない人も、ここに名札がかけられている将校も、名札を持たぬ兵も。沙耶の目に触れない場所で、沙耶にはどうすることもできずに、死んでいく。そのことに、言いようのないむなしさを覚えた。現代の日本でだって、沙耶の知らないところで多くの人が命を落としていたことだろうが、かつては、その事実は沙耶にとって身近なものでは決してなかった。
「わたしは、戦に出ることはありません。ですからせめて、名前を、忘れずにいたいと思って。そうすることで、何かを為せるというわけではないですが……」
「そうか」
この心のうちを言葉で表す術を、沙耶は持たない。それを劉唐は、余さず汲み取ったかのように深く頷いた。
「ならば、覚えてやっていてくれ。名もなく死んでいく、そういう死に方もある。俺は志のために死ねるなら、それでよしと思っているが、多くの人間の心に残る死に方がふさわしい男もいるだろう。楊志や周通や、石秀が、そうだったのかもしれん」
劉唐の語ることは、わかるようで、わからない。沙耶は養生所で働いているから、これまでいくつもの死を見てきたけれど、どんな死に、その人にふさわしいなどというものがあるだろうか。
――いや、劉唐に共感できないのは、結局は沙耶がいまだ、元の世界での考え方を少しも捨てきれずにいるからなのだ。何だかやるせなくなって、沙耶は言った。
「劉唐様のお名前も、わたしは忘れません」
劉唐は、沙耶にちょっと目をくれた。何か言おうとして、しかし途中で止めたように見えた。
「いかんな。おまえを前にしていると、口にしてはならぬことまで言ってしまいそうだ」
「えっ?」
沙耶がその呟きの意味するところを聞き返そうとする前に、劉唐はふと笑う。
「ほどほどにしておけよ。春先とは言え、まだ冷える」
「あっ、はい……」
こちらに背を向け去っていく劉唐を、沙耶はぼんやりと見送るしかなかった。