七
楊志は妻子とともにいたところを襲われてこの世を去ったが、楊志の妻が身を呈して庇ったおかげで、息子の楊令だけは生き延びた。しかし、二度も両親を失うことになった楊令は、再び言葉を発しなくなってしまったという――林冲が養生所を訪ねてきた時、沙耶はその話を思い出していた。彼はここしばらく梁山泊を離れていて、最近になって戻ってきたところだった。楊志の代わりとして、二竜山で隊長を務めていたのである。
所用を終え、戸口から出ていこうとする林冲が、不意に足を止めた。それから、じろりと沙耶を睨めつける。
「何だ。用があるなら言え」
「あ……」
よほど、鬱陶しく視線を纏わりつかせてしまっていたのだろうか。林冲の眼光の鋭さに、すぐには言葉を繋げられない。けれども林冲の眼からは、沙耶の返答が遅れるほどに増す苛立たしさが明らかに見て取れ、沙耶はおずおずと切り出した。
「はい……ひとつ、お伺いしてもよろしいでしょうか、林冲様」
「早く言えと言っている」
林冲の応えは、にべもない。沙耶は気怖じしそうになる思いを何とか振り払い、続けた。
「はい。二竜山には、楊志様の御子息がおられると聞きました。その……声を、失くしてしまわれたのだとか……」
「それを、自分と重ねたか」
先を言い淀む沙耶の語を、林冲が継いだ。
「傲慢な女だな。おまえごときが、楊令の身を案じてどうなる。そうしていればおまえは満足だろうが、楊令は、ひとりで生きてゆかねばならん。ひとりで、強くなるしかないのだ」
その語調は容赦がなく、ともすれば沙耶に向けての侮蔑が込められているようにも響く。楊令は齢十にも満たない少年のはずだが、林冲の口振りでは、あたかも大人の男のようだ。
沙耶は、何も返せなかった。
林冲の言うとおりだ。遠く離れた梁山泊にいる沙耶が、人から伝え聞いた少年の境遇を己と重ね、一方的な同情を向けたところで、それが楊令の糧となろうはずはない。単なる自己満足だった。楊志の息子には、できれば今もあの時のまま、幸福の象徴でいてほしい。そんな身勝手な願いを抱いてすらいる。
軽々しく楊令のことを口にした自分を、沙耶は恥じ、うつむいた。
しばらく、沈黙が流れた。
「……公淑という女が、世話をしていた」
沙耶の頭上から、林冲がぽつりと音を落とした。
「二竜山を任せられた秦明は、武人としてもできた男だ。そばにいて、学ぶところも多いだろう」
「あの、林冲様……」
戸惑いに目線を上げた沙耶と一瞬それがぶつかると、彼は面と向かって舌打ちをした。沙耶が思わず身を竦めてしまったのを捨て置いて、顔を顰めたままで踵を返し、外へ出ていく。
林冲を追うべきか迷いながら、胸のうちで、彼の言を反芻してみた。そうか。独りで生きていかなければない運命を背負ってしまったけれど、楊令は、ほんとうにひとりきりだというわけではないのだ。今の沙耶と、同じに。
幾分かほっとした気持ちになり、沙耶は戸口から、去りゆく背に声をかけた。
「林冲様、ありがとうございます」
果たして届いたかはわからない。林冲はついぞ振り返らなかった、いつかの時を繰り返すように。
北の双頭山という拠点に、杜遷が赴任することになった。
口にこそしなかったものの、宋万は彼との別離にいささかの寂寥感を覚えているようだった。替天行道の旗が立つずっと前から、十年かそれ以上、ともに肩を並べて隊長を務めてきた間柄なのだ。
古参の人間がいなくなるだけに、他の将校や兵も交えて酒でも酌み交わそうと、いわゆる送別会の話が上がった。そういう風習は、いつの時代もどこの国でも変わらないものらしい。
その日も、沙耶はいつもどおり働いていた。酒の席に呼ばれるのに沙耶は適当ではないし、安道全や薛永はそれぞれの仕事を理由に断ったようだ。
ところが、夜になってそろそろ沙耶も自室に下がる頃合いかという時分に、当の杜遷がやって来た。
「酔い潰れてしまった者がいるのだが、薬などはあるだろうか」
「酒宴の主役が、使いか?」
「なに、酔い醒ましも兼ねている」
と言う彼は、少しも酔っているふうには見えない。安道全は自分から話を振っておいて、興味がなさそうだ。
「そういう用向きなら、薛永のところへ行くんだな。酒が過ぎれば、死に至ることもある。目を覚まさない者がいたら連れてこい」
「ああ、わかった」
杜遷は安道全に従って、素直に薬方所へ足を向ける。
「あっ、杜遷様。わたしが行ってまいります」
そういうのは沙耶の仕事だ。沙耶は引き止めたが、聞こえなかったのか、杜遷はそのまま出ていってしまった。沙耶は安道全に一言断りを入れ、急いで彼の後を追う。
静かな月夜だった。断金亭での賑いは、ここまでは届かない。
養生所を出て、すぐそこに、長身の人影があった。杜遷が立っていたのだ。沙耶を一目見て、また薬方所の方へと歩き出す。まるでこちらが追いつくのを待っていたかのようなその挙動に、沙耶は瞬く。
杜遷はもう振り向きも、足を止めることもしない。逡巡の末、彼に続いた。
「――私は、双頭山で、隊長を務めることになった」
「あ、はい。宋万様からお聞きしました。はっきりそうとはおっしゃいませんけど、寂しがっておられるようです」
「そうかな。私がおらずとも、おまえがいるだろう」
「…………えっ、と、そ、そう……はい」
返答に困る沙耶に、違うか、と杜遷が音にはせずとも問いかける視線を投げてくるので、沙耶はしどろもどろになって、ついには小さくなりつつ頷いた。
「あれは、私の知る限り、気の短い男だったのだがな――」
薬方所は、養生所に隣接している。やがて戸の前まで辿り着いたにもかかわらず、杜遷は中に入ろうとはせず、その場に立ち止まって沙耶を見下ろした。
「おまえに関しては、そうではないようだ。何年でも、待つつもりのようだぞ」
穏やかな口調は、沙耶を責めてはない。けれども、それゆえに苛まれているようで、沙耶は面を伏せるしかなかった。
あれから長い月日が経った今も、宋万への返事は保留のままだ。いつまでも宋万の優しさに甘えているべきではないと、わかってはいる。なのに、沙耶はいまだ過去を完全に切り捨てることをできずにいた。
「咎めているのではない。いずれ、おまえの心の整理がついた時には、そう言ってやれ」
「はい……」
「梁山泊を離れる前に、それだけ言っておきたかった。おまえと顔を合わせるのは、これが最後になるやもしれぬからな」
「そんな――ことは、」
弾かれたように顔を上げた沙耶は、しかしそれ以上、否定の言葉を続けられなかった。
そもそも杜遷の異動が決まったのは、先任の隊長だった雷横が戦死したからだ。先日に了義山であった戦では、あの阮小五の名札が赤いものに変わった。梁山泊の戦いは、ますます激しさを増している。決してないとは、言い切れない。
「……いや、すまぬ。脅すつもりはなかったのだ」
口をつぐんでしまった沙耶を労わるように、杜遷は微笑む。それから、こうも告げた。
「だが、おまえの暮らしている場所は、そういうところだ。それを、忘れるな」
「…………」
はい、とすぐさま肯ずることはできなかった。
杜遷は本当にそれを伝えたかっただけのようで、沙耶の応えを待たずに薬方所の戸の向こうへと消えた。その後も長い間、沙耶はそこから動けず、ただ佇んでいた。
長い旅を終えた宋江が、ついに梁山泊入りを果たした。
その翌朝には聚義庁の広場で晁蓋の隣に立ち、大勢の兵の前に顔を見せたらしい。沙耶はそう伝え聞いただけだったが、宋江自身と出会う機会はすぐにやって来た。宋江は梁山泊内をくまなく歩き回り、養生所にも姿を見せたのである。
安道全と宋江は面識があるようで、卓に着いて話し込み始めた二人のところに、沙耶はお茶を持っていった。
「ああ、すまぬ、気を遣わせてしまったかな」
と、沙耶に応じる宋江は、いかにも英傑といった雰囲気を漂わせる晁蓋とは対照的に、ちょっとぼんやりしたところのある人のいいおじさんという感じだ。しかし替天行道は、この宋江の言葉を書き写したものなのだと言う。
宋国の腐敗だとか、世直しを目指す梁山泊の志だとか……日本で生まれ育った沙耶には、それらはどうしても遠く感じられてしまう。であるのに、読み書きに不自由しなくなってから改めて替天行道を読んでみた時、そこに生々しく描かれた煩悶には、ハッとさせられたのだった。沙耶の心にさえ訴えかけてくるのだから、この国の人間にとってはなおさらだろう。だからこそ、宋江という人は、梁山泊におらずとも頭領たりえていたのかもしれない。
「妻帯したのか? 安道全」
お茶を啜って一息ついた宋江が、言った。
沙耶はきょとんとした。こういう場合では珍しいことに、安道全の方が沙耶よりも先に、相手の問いかけの意味を汲んだ。
「――ああ、いえ、私ではなく、宋万の奥方ですよ」
「おお。宋万というと、歩兵の大隊長だな」
しばらく呆けていた沙耶だったが、次第にじわじわと彼らの会話の内容が脳に染み込んでくると、途端に動揺の極みに達した。
「えっ、せ、先、違っ……してませんっ、結婚はまだしてませんから!」
叫んでしまってから、正気付いた。突然の大声に、宋江は呆気に取られている。
「失礼を、い、いたしましたっ」
沙耶はあたふたと低頭し、ほうほうの体で逃げ出した。
作業場に戻ると、白勝と薛永が、薬草の調合をしている。
「聞いたか、薛永。結婚は『まだ』だとよ」
「おう、では『じき』か。宋万殿も、今日まで粘った甲斐があったというものだなあ」
わざとだ。沙耶にも聞こえるように話しているのは、絶対にわざとだ。とんでもない失態に、沙耶は胸に抱え込んだお盆で顔を隠し、床にへたり込みたいのを我慢するのが精一杯だった。
「安先生。新しい薬のことで、薛永先生が――」
沙耶が安道全のもとを訪ねると、来客中だった。呉用である。彼がいるということは、何か大事な話し合いの最中なのだろう。言いさした沙耶は、礼をとった。
「これは、呉用様。失礼いたしました。安先生、また後ほど」
そのまま退室しようとしたのを、安道全に引き止められる。
「ちょうどいい、沙耶。おまえも一緒に来い」
「はい、わかりました」
行き先も聞かずに頷いたのは、聞いたところで無駄だからだ。こういう言い方をする時は、安道全の中で、すでに沙耶を伴うことは決定している。そして大抵は、沙耶にその詳細を語る気すら毛頭なかったりするのだ。
しかし、この時は少し事情が違った。二人のやりとりに、呉用が焦ったように横から口を出した。
「待て、安道全。戦に女を連れていくつもりか」
……いくさ?
沙耶は当惑し、安道全を見やった。そんな視線も、安道全は意に介さない。
「私に任せると言ったのは、呉用殿だぞ。話はこれで終わりだ」
言い捨てて、安道全は部屋を出ていく。沙耶は唖然としている呉用の顔と、おそらくは薬方所へ向かうのだろう安道全の背中をおろおろと見比べ、結局は呉用に頭を下げると、安道全を追いかけた。
「あの、先生、戦というのは……」
「薛永は、何と言っていた? 私も、少し効き目が強すぎると思っていたのだ。粉にする時に別の――」
安道全は振り向きもせずにとうとうと述べる。先生、と強めに言って、沙耶はその奔流を遮った。ただ待っていても安道全は問を差し挟む隙を見せないだろうし、そもそも薬学の知識のない沙耶では話を聞いても安道全の益にはならない。
「わたしはどちらへご一緒すればよいのですか?」
「――独竜岡だ」
ようやく、安道全は沙耶を振り返った。
独竜岡。合わせて足を止め、考える。聞いたことのない地名だ。と言っても、沙耶は梁山泊軍にまつわるいくつかの土地の名前くらいしか知らないのだった。
「そちらで、戦があるということでしょうか。いつ頃……」
「さあ、詳しくはまだ知らないな。宋万に聞けばいいだろう」
思わぬところで宋万の名を出され、沙耶は怯んだ。
先日に宋江と会った時もそうだったが、沙耶は普段から何かにつけて宋万のことばかり言ってしまっているのだろうか……その種の機微に疎そうな安道全が、こういった認識をするほどに。
安道全を窺っても、彼は至っていつもどおりだ。白勝によくからかわれるから、いささか過敏になっているのかもしれない。
白勝と言えば――以前に戦の話をした際には、彼は沙耶を伴うのに反対していたはずだ。沙耶自身、行きたいという気持ちはあるが、もしそれでわだかまりが生まれるようなら、安易に付き従うのはよくないように思う。
「わたしも連れていっていただいて、よいのでしょうか?」
「何だ。来ないつもりか」
「そういうわけでは……ただ、呉用様は異がおありのようでしたし。梁山泊には、どなたか残られるのですか?」
「文祥に任せようと思っている」
文祥というのは、安道全の弟子のひとりだった。呉用に散々せつかれて安道全は弟子を持ち始めたが、何人もが辞めていき、今では文祥を含む数人だけになっていた。
そういうことなら、梁山泊に留まって文祥の手伝いをするという道もあるのか。そんなふうに思い巡らしていると、沙耶の心を見透かしたように安道全は言い放った。
「おまえが残ったところで、私以外に、誰がおまえのような鈍い女を使いたがると言うのだ。そんなことより、私は薛永と話がしたい」
「……はい。お引き止めして、申し訳ございません」
安道全は沙耶を置いて、さっさと行ってしまった。
そのことに溜息を零しつつ、沙耶は仕事に戻った。沙耶自身は頑張っているつもりだし、働き始めた頃と比べれば随分と進歩したと自負もしているのだけど……なかなか、安道全の中での地位は向上してくれない。