八
次なる戦の気配に、梁山泊は慌ただしくなった。独竜岡と呼ばれる地帯にはいくつもの集落があり、うち大きな三つが祝家荘、扈家荘、李家荘という。その三荘が結びつき、とりわけ祝家荘に、民に偽装した官軍が送り込まれている。梁山泊、二竜山、双頭山の中心に位置するところに、ひそかに官軍の砦が築かれつつあったのだ。
祝家荘を攻めに、梁山泊軍本隊が進発した。大将は宋江である。晁蓋は留守部隊の指揮を執り、官軍を牽制する役割だ。医療班は本隊に後れ、輜重隊とともに進軍することになった。
金沙灘から舟に乗る時、沙耶はひどく緊張した。舟の上でガチガチになっていると、白勝が問うてきた。
「おい、どうした。水の上に出てから、おかしくなったな。もしかして、泳げねえのか」
はじめは沙耶もともに従軍することに難色を示した白勝も、一度だけ「本当にいいのか」と沙耶の意志を確かめて以来、何も言わなくなっていた。沙耶は背筋を強張らせ、頭を動かすこともできずに答えた。
「いえ、……その、わたし、梁山泊の外に、出たことが……なくて」
「何だ、そんなことか」
白勝は、沙耶の言葉を軽く捉えたようだった。
「大抵は、梁山泊の中でこと足りるもんな。ウン城は、やっと治安がよくなってきたところだし」
一歩たりとて沙耶が大陸の土を踏んだことがないなどとは、想像もしていないのだろう。いや、正確に言えばそうではない、梁山泊に来る前、この世界に来た最初には――考えかけて、沙耶は止めた。舟は梁山湖の岸に着いていた。
そこから先は、徒歩である。
荷を引く兵たちに混じり、街道を歩いた。何の変哲もないのどかな風景も、梁山泊からの景色しか知らない沙耶には、珍しく映る。
体力のなさから、沙耶は行軍の足手まといになってしまうのではないかと心配していたのだが、それはまったくの杞憂だった。沙耶よりも早く、安道全がへばり始めたからだ。
「しっかり歩けよ、安道全。向こうに着いたら、怪我人は山のようにいる」
もっとも、こうやって白勝が励ませば(これを励ましと呼べるのかはさておき)、たちまち元気になりはする。それにしても、寝ずの治療をする体力はあるのに、こうして歩く体力はあまりないらしいというのは、何ともおかしな話だ。
安道全よりはましだと言っても、沙耶も長く歩いていればもちろん息は上がるし、足が痛くなってきた。
「……薛永先生は、それほど、お疲れのようには見えませんね」
「俺か?」
大きな薬箱を背負って黙々と歩いていた薛永が、沙耶に顔を向けた。青ざめた顔色をしているが、それはいつもだ。
「俺は、梁山泊に来る前は、流れ者だったからな。食うには困らない分、楽な道行きだ」
「食う……そういうもの、ですか」
輜重隊といれば、確かに困ることはないだろうけれども……ぴんと来ずに、首を傾げる。彼の薬があれば、十分に生計を立てられるほど売れるだろうに。感想をそのとおり伝えると、薛永は頭をかいた。
「売るのが下手なんだ」
「なるほど……」
沙耶は神妙に頷いた。
多少の苦難はあれど、それなりに順調かと思われた道程は、ところが街道を逸れて森に差しかかったところで怪しくなった。開けた場所を歩いている時は、まだよかったのだ。
緑深い道。木立の間、ちらちらと差し込む陽光。草と土のこもった匂い。大勢の足音。それらは過去の悪夢を引き連れてきた。込み上げてくる嘔吐感。血の香り。暗闇。罵声。嗚咽。
視野が揺れ、手足が鉛のように重くなる。何とか耐えようとしたが、そこから少しも行かないところで、沙耶は足を止めてうずくまってしまった。
「沙耶、おい、大丈夫か」
半歩先へ進みかけ、隣の薛永が振り返る。
「申し訳ございません……少し、気分が、」
「――何だとっ」
後ろの方をよろよろと歩いていた安道全が、すっ飛んできた。
「でかしたぞ、沙耶。よし、診せてみろ」
「…………」
あまりに安道全が生き生きと眼を輝かせているので、沙耶はちょっとげんなりした。かつて、安道全にとっての病や怪我は「魚にとっての水のようなもの」と本人が自らそうたとえていたが、まさしくだ。
道端の、大きめの石の上に座らせられた。安道全は正面に膝をつき、うつむく沙耶の顔を覗き込んでくる。安道全の着物からは薬の匂いがした。
養生所の匂いだ。何だか、沙耶はほっとした。
あれから四年が経っている。沙耶はもう、ただ蹂躙されるだけの、何も持たない無力な少女ではなかった。友人ができて、仕事を得て、仲間もいて、それから……着物の上から、胸を押さえる。
そこには硬い感触があった。宋万にもらったあの髪飾りは、戦争の間に失くしてしまっては大変なので、巾着に入れて懐にしまってあるのだ。
沙耶はゆっくりと息を吸い、吐いた。
「安先生、わたし、もう大丈夫です」
「……まだ診ていないのだが」
安道全は膝をついたままで、がっくりとうなだれた。それを、白勝が呆れ顔で見下ろしている。
「安道全。おまえ、このために沙耶を連れてきた、なんて言うんじゃねえぞ」
ありえそうだなあ、と沙耶は思った。白勝と薛永や、弟子たちはみんな旅慣れているようだし、兵もそうだ。行軍の中で体調を崩しそうだと言ったら、沙耶しかいまい。……本当にそうだとしたら、立つ瀬がないが。
「お騒がせして申し訳ございません。先生、行きましょう。向こうに着いたら、診察はたくさんできますよ」
沙耶は立ち上がり、白勝の真似をして安道全を促した。
安道全は、やや気力を取り戻したようだ。また、みんなで歩き始める。先へと続くのは、視界を塞ぐ闇でも足を絡めとる泥濘でもない、森の小径だった。
騎馬隊同士がぶつかり合うと、遠くにいる沙耶たちにまで、地響きが聞こえてくるほどだった。
官軍の騎馬隊を蹴散らし、沙耶はてっきり戦は終わったものだと思ったのだが、それは開封府からの援軍を打ち払っただけで、まだ緒戦とも呼べぬ戦闘だったらしい。
祝家荘を真正面に見据えるところに改めて陣が築かれ、その後方に養生所が設営された。
すでに負傷者も、戦死者も出ている。すべての怪我人の処置まで済ませてしまう頃には、すっかり夜も深まっていた。仕事を終えた沙耶はくたびれ果てて、自分に与えられた幕舎――要は、寝泊まりするためだけの簡素なテントである――へと足を運ぶ。
夜空は晴れていた。明かりがなくても、道を進むのには困らない。と、幕舎の前に人影があるのを見つけて、沙耶は立ち止まった。しかしすぐにその正体に気付き、次には駆け出していた。
「宋万様! どうされたのですか、このようなところで」
「おまえを待っていた、沙耶」
宋万は顔を綻ばせ、駆け寄ってきた沙耶の頭に右手を置いた。
疲労など、一瞬でどこかへと吹き飛んでいた。戦の最中であるというのに、気持ちが浮き立ってしまいそうになる。何とか抑え込み、落ち着き払った態度であるように努める沙耶だった。
「それなら、養生所へいらしてくだされば……」
「無闇に訪ねては、迷惑になると思ってな。いや、ここに来ても迷惑か。休むところだったのだろう」
「迷惑だなんて。宋万様こそ、お休みになられなくてよいのですか?」
梁山泊軍が官軍の騎馬隊を打ち払ったのは、つい昨日のことだ。明日からは、本格的に祝家荘侵攻が始まる。戦に挑むのにどのような準備が要るのか沙耶にはわからないが、少なくとも躰を休めておくべきではないだろうか。
宋万は少し困ったような表情になり、もう片方の手で顎を撫でた。
「まあ、そうなのだがな。おまえの顔が、見たくなったのだ。仕方がない」
「……えっ……あ、こ、こんな顔でよろしければ、どうぞ」
言って、けれど面映ゆさをこらえきれず、うつむいてしまう。それでは見えぬだろう、と宋万は笑い出した。
沙耶が宋万に会って元気をもらったように、宋万にとっての沙耶もそんな存在であったなら――おこがましい願望だけれど、こんなに嬉しいことはなかった。沙耶は、あたたかな気持ちに包まれていた。
宋万はやはり、沙耶の幕舎の中へは入ろうとしない。
今は雨の少ない季節で、地面は乾いている。外に腰を下ろした宋万の隣に、沙耶は膝を抱えて座った。そうした沙耶に、宋万は少し驚いたようだ。そういえば、彼とこうやって肩を並べるのは初めてのような気がする。
「戦とは、このように長く続けることもあるのですね。知りませんでした」
長いと言っても、まだ半月も経っていなかった。学校の歴史の授業を思い返しても年単位の戦争などはざらにあったはずだし、これまで短期戦が多かっただけで、本来はこういうものなのだろうか。
「梁山泊軍の総力戦だ、時はかかるだろうな。安道全先生が、おまえを連れてきてくれてよかった。沙耶がいると思うと、力が入る」
「そっ……そう、ですか」
また、こともなげにそういうことを……沙耶はこの場から消え入りたくなった。いや、せっかく宋万が時間を作って会いにきてくれたのだから、そんなもったいないことはできない。そう考えて、居住まいを正すにとどめる。
「こう言うと、薄情に聞こえるかな。戦場に出ずとも、危険はあるし」
「いえっ、そんな。わたしも、頑張れます。宋万様の……お近くにいると、思うと」
多少の仕返しも込め、言ってみた。口にした瞬間に、沙耶はすこぶる後悔した。
宋万はいつも平然としているから、もしかしたら、言う側は案外そんなものなのかもしれないと思ったのだ。なのに、まったくそんなことはなかった。火がついたように顔が熱い。宋万に目を向けることもできず、頭を垂れているしかない。
ふと、宋万の手が伸びてきて、その硬い指先が沙耶の火照った頬に触れた。
「宋……」
つられて顔を上げれば、視線が交わる。しかし、注がれる眼の奥にあるものを沙耶が読み取るよりも前に、それは逸らされてしまった。同時に、宋万は手を引っ込めた。
「――長居をしては、よくないな。明日も早いのだろう」
「あっ……」
腰を上げる素振りを見せた宋万の軍袍の裾を、沙耶は咄嗟に掴んでいた。
考えるよりも先に躰が動いていたのだが、自覚してもなお、いやいっそう離しがたかった。梁山泊を発つ前は、互いに忙しくて会うことはできなかった。行軍もばらばらで、宋万が今日ここに来るのだって、本当は難しかったに違いない。次に会えるのは一体いつになるのか。
「沙耶、そんな顔をするな。また、来る」
宋万は苦笑を洩らし、ゆっくりと沙耶の手を取る。そうされるのを止めることも、続けて縋ることもできずに、沙耶はただ己の手が宋万から離れていくのを名残惜しく眺めていた。
養生所の仕事は多忙を極めた。
とにかく、運び込まれる怪我人の数が尋常ではないのである。養生所の幕舎は常に負傷兵で溢れており、自力では動けない重傷者だけが中で寝かされ、立って歩ける者は外に追いやられるような有様だった。それでも床の数が足りないので、沙耶が寝泊まりしていた幕舎を使うことになったほどだ。
動ける兵は手当てだけを受け、また戦場へ送り出される。収容する場所がないという理由だけではない、それらの兵力すら動員せざるをえないほどの、厳しい戦いだった。
祝家荘を攻めては撃退される、ということが、繰り返されているようだった。ひととおり怪我人を診終えたと思っても、すぐに大勢が運び込まれてくる。その時点ですでに手の施しようのない者、治療の甲斐なく死んでいく者も、多い。
沙耶は毎日、くたくたになるまで働いた。
「沙耶、すまねえが、使いを頼まれちゃくれねえか」
「はい、わかりました」
白勝に言いつけられ、沙耶は陣営の方へ赴くことになった。用件は輜重に関する言付けだけで、簡単なものだ。物資の運搬が滞ることがあれば、兵の治療もできなくなる。白勝はその調整であちこちを飛び回っていた。
言付け自体は問題なく済ませられたが、さて養生所へ戻ろうかという時に、出撃していたいくつかの部隊が戻ってきた。
空っぽだった陣営が、途端に何百もの兵でごった返し、ざわめきに包まれる。汗や血、土埃などの匂いで、むせ返るようだった。これまで触れたことのないような異様な熱気に当てられ、足が竦んでしまう。
その時、見慣れた姿が視野を掠めた。
焦挺だ。人の波の中にあっても、頭ひとつ出ているあの巨体は見分けがつきやすい。けれど、焦挺の後ろ頭はすぐに人垣の向こうへと消えてしまう。
そちらにばかり気を取られていたからだろう、すぐそばを兵が通るのに、気付くのが遅れた。勢いよく肩がぶつかり、ほとんど突き飛ばされるような形でよろめく。
――後ろから、ぐっと肩を掴まれた。
「何をしている?」
「あ、ありがとう、ございます。公孫勝様」
驚いて振り向けば、公孫勝が、冷ややかなまなざしをして立っている。その冷徹な声に尻込みしそうになりつつも、沙耶は頭を下げた。彼が支えてくれなければ転んでしまっていたかもしれない。
しかし沙耶の礼には応えず、公孫勝はすげなく言った。
「陣の中をうろつかれては邪魔だ。兵たちも気が昂っている。怪我をしたくなければ、早く養生所へ戻るのだな」
「申し訳ござい……あっ、あの!」
公孫勝は言うだけ言って、謝罪すら皆まで聞かずに立ち去ろうとする。沙耶が焦って呼びかけると、足を止め、躰を半分だけこちらに向けた。沙耶に突き刺さる視線はやはり、凍えそうに冷たい。
「……何だ」
「公孫勝様。宋万様がどちらにいらっしゃるか、ご存知ではありませんか?」
呑まれて何も言えなくなってしまう前にと、一息に告げる。
居場所を聞いて、どうするつもりもなかった。会いにいこうとまで考えたのでもない。ただ、こういう機会だ。無事な姿を目にできずとも所在さえ掴めれば、今日一日は安心して仕事に打ち込める。そう思っただけだった。
「宋万は死んだ」
沙耶はぽかんとして、公孫勝の、表情のない青白い顔を仰いだ。
公孫勝が何を言っているのか、よくわからない。死……誰、が? 視界が急激に暗く狭まる。二の腕の辺りに鋭い痛みが走り、沙耶はハッとなった。
公孫勝の骨ばった手指が、沙耶の腕に強く食い込んでいる。一瞬、気を失いかけたらしい。
「ここで倒れるなよ」
「……あ、」
息ができない。
沙耶は胸元を握った。そこには、沙耶に限りない安らぎを与えてくれる宝物がある。なのにいまだ呼吸は苦しく、手の震えは止まらない。酸素を求めて喘ぐように、沙耶は問う。
「どうしてっ、な――なぜ、ですか」
「何故だと? これは戦だぞ」
そんなこと、わかっている。わかっているつもりだった。
負傷兵の世話に当たり、いろいろなものを見た。目を背けたくなるようなひどい傷を負っている者。どんなに手を尽くしても死んでいく者。こうやって人が疲弊しすり減っていく、これが戦というものなのか、そう実感していた。
けれど今にして思えば、それらはあくまでも、沙耶の外側で起きていた出来事にしか過ぎなかった。ほんとうの意味では、沙耶は少しも理解できていなかったのだろうか。
「だって宋万様は、また、来るって、言っ……う、嘘、ですよね。そんな」
公孫勝は何も言わない。
その沈黙が、答えだった。そもそも、沙耶にそんな嘘をついて彼に何の得があるというのか。
周囲のさざめき、剣や槍が擦れ合う音。すべてが遠い。手のひらにある、布の上から触れている髪飾りの感触、それだけが現実だった。目をいっぱいに見開いて、沙耶は公孫勝を見つめる。
「な、亡くっ、亡くなられ、たの、ですか、本、本当、に」
「退却の折り、全身に矢を射かけられた。兵を逃がすために、敵の罠の中に踏みとどまったのだと聞く」
矢? 罠?
もう一言も、沙耶は言葉を発せなかった。ただ躰を打ち震わせる沙耶に、公孫勝は繰り返して言う。
「戦なのだ」
その声も、どこかずっと遠くで響いている音のように、沙耶には聞こえた。