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寝返りを打った拍子に、意識が浮上した。「あれ……私、寝てた……?」
そのとおり、椎子は横になっている。ふかふかの布団に包まれている感覚が気持ちよくて、再び目を閉じた。
一体、いつの間に眠ってしまったのだろう、今日はまだやることがあったのに。そう思いつつも、心地よく浸ったまどろみの中から抜け出せない。
……そういえば、私、お風呂に入ったっけ? 夕ご飯は?
「――!?」
一気に目が覚めて、椎子は跳ね起きた。ついた手に感じる硬い感触。ベッドだ。
サッと血の気が引いた。
「ここ、どこ……?」
そこは、まったく見知らぬ部屋だった。それほど広さはない。調度品はすべて西洋風で、壁際の丸い形をしたストーブから、微かに火の爆ぜる音がする。部屋の真ん中には簡素なテーブルがあって、その上にいくつも空き瓶が転がっていた。椅子に腰かけた老人がコップを仰いでいる。
椎子は目をまんまるにして、ベッドの上掛けをかき抱いた。
「あ、あの」
声をかけてから、後悔する。こちらを向いた赤ら顔を見て、部屋に漂う酒気に今更ながらに気付いたからだ。
「ん、修理が終わったか? なら、さっさと出ていってくれんか」
「……は?」
「ああそうじゃ、ついでにそのベッドを直していかんかのう。どうも軋みがひどくてな」
呆気にとられている椎子に老人はそう言って、手元のコップにさらに酒を注いだ。
ふつふつと薄気味悪さが込み上げてくる。椎子は知らず、膝の上で服の裾を強く握っていた。見れば、身に着けているものは覚えのない男物の服だった。
「……あの、私」
「何じゃ、あんたは修理はせんのか? じゃあ、あのデカイのを呼んで来てくれ」
「は、はい、わかりました」
適当に話を合わせて、そろりとベッドから降りる。この老人から話を聞き出すよりも、誰か他に人を探した方が早いに違いない。
ズボンがずり落ちないように手で押さえる。靴を探すが、見当たらない。仕方なしにそのまま裸足で玄関へ向かった。
その間も、必死に記憶を辿る。
学校に行って、授業を受けた覚えはある。それから、家に帰って……
帰って……?
その辺りからよく思い出せない。椎子は悩みながら玄関のドアを開け――たのを、ガンッ!と、ものすごい勢いで閉めた。
「な、何でここにアイツが……」
慄然と呟く。
……いや、もしかしたら見間違いかもしれない。
そうであってくれるように祈りながら、もう一度、椎子はおっかなびっくりドアを開けた。ほんの少しだけ隙間を作って、外を覗き見る。
「う、やっぱりいるよ……」
獰猛そうな黒い犬が、すぐそこに座っている。筋肉質で、体格の大きな犬だ。もっとも、たとえそれが子犬であろうとも、椎子にとっては恐怖の対象となりうるのだが。
「お願い、向こうに行って!」
一心に念じていると、犬はすいと立ち上がって姿を消した。やった、と椎子は小さく手を握る。
「今のうちに……」
そして外に一歩踏み出した瞬間、
「――目が覚めたのか」
「うひゃあ!?」
椎子は飛び上がらんばかりに驚いた。
声の主は椎子の驚きようにこそ驚いたのか、沈黙する。ドアの傍らに立っていたのは、黒装束を着た覆面の男だった。
「あ、ええと、えっと……」
言葉が出てこない。
何だっけ、そうだ、ここはどこなのか、私はどうしちゃったのか聞かないと――考えをまとめるのに四苦八苦しながら視線を落とすと、そこにあの黒い犬がいた。
「ひ……っ!」
椎子は今度こそ飛び上がった。犬はいなくなったのではなく、ただ単にドアの死角に移動していただけだったのだ。
考えもなく男に取り縋る。覆面の奥で男が目を見張った気がしたが、それに構っているどころではない。
「ごめんなさい! 私、犬は、犬だけはどうしても駄目って言うか小さい頃噛まれて大怪我してから怖いんですっ!」
男は口早に弁解する椎子を冷静に見下ろして、よく通る低い声で言った。
「こいつは何もなしに人を噛む犬じゃない」
「それって何かあったら噛むってことですよね!?」
取りつく手にますます力が込もる。
男は呆れたように小さく溜息をついた。本当にごく小さいものだったが、この距離では伝わってしまう。申し訳なくなるが、それでも怖いものは怖い。
「インターセプター」
胸中で謝り倒していると、男がそう口にした。すると犬はくるっと背を向けて、二人から大分距離を取ったところに座り込んだ。
「わ……」
「……これでいいか」
「あ、はい!」
ぽかんとしてその様子を見ていた椎子は、すぐさま男から離れる。
「す、すみません。どうも、ありがとうございました」
「いや」
男は顔を背けて短く返した。
とりあえず身の安全(犬からの)が確保されたことにほっとして、椎子は改めてその男を見上げた。見るからに怪しい風貌だが、そう見た目どおりの人物ではなさそうだ。
「あの……不躾なようですみませんが、あなたはその、どちら様でしょうか」
「……シャドウだ」
「は……シャドウ、さん?」
椎子はぱちぱち目を瞬いた。変わった名前だ。
「じゃあ、ここはどこですか?」
「レテ川の河口近くだ。南に行けばドマの城がある」
「え? えっと……」
そんな城は聞いたこともない。それにレテ川とは、あの世の川ではなかっただろうか。
「……私、生きてますよね?」
我ながら、どうにも間の抜けた質問だった。
シャドウは椎子を見返して、一拍の間を置いてから言った。
「死んでいるようには見えないな」
「ですよね……」
そういう地名もどこかにはあるのだろう、と無理矢理に自分を納得させる。
「……少し、待っていろ」
シャドウはそう言うとその場を離れた。遅れて、あの黒い犬が後を追っていく。向かっているのは家の前に広がる平原だ。
――平原。
目の前の風景を見て、椎子はガツンと頭を殴られた気分だった。
やはりここは、椎子の家からかけ離れた場所なのだ。
急に心細さが襲いかかってくる。シャドウの後を追いかけたい衝動に駆られたが、先の言葉もあって思いとどまった。
家の中を振り返ると、老人は一人で何かぶつぶつ呟いている。さすがに、そこに戻る勇気はない。
椎子はドアを閉めて、軒先で立ち尽くした。