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戻ってきたシャドウは一人ではなかった。どうやらその人物を呼びに行っていたらしい。「お、目が覚めたのか! よかったな!」
筋骨たくましい金髪の男が、人の好さそうな笑顔を浮かべてこちらへやって来る。その体つきや顔立ち、髪と目の色、どれを取っても日本人ではありえない。
「あいきゃんのっとすぴーくいんぐりっしゅ……」
「え? 何だって?」
男は流暢な日本語を操っている。椎子は慌てて繕った。
「い、いえ、何でも……お、おかげさまでもう元気ばりばりです」
「はは、そうか!」
男は明るい笑い声を上げた。それから、律儀にもその場の全員の名前を教えてくれる。
「俺はマッシュ。あっちはシャドウだ。あの犬がインターセプター」
「私、三尼椎子です」
そういえば、シャドウにも名乗っていなかった。椎子は二人に向かって丁寧にお辞儀をした。
「ミアマシイコ?」
「あ、椎子が名前です」
「へえ、変わった響きだな」
「……そうですか?」
ここまで日本語が達者なのに、日本人の名乗り方を知らないのだろうか。引っかかりはしたが、しかし気にかかることはもっと他にある。
「あの……私、どうしてここにいるんでしょう」
おずおずと尋ねると、マッシュはあっさり頷いた。
「ああ、シイコはレテ川の岸辺に打ち上げられてたんだ」
「へっ?」
椎子はすっとんきょうな声を上げた。
「打ち上げって……ど、どうして、私はそんな……?」
川で溺れたとでも言うのか……しかしそれは果たして、こんな見知らぬ土地にやって来てしまった理由になるのだろうか?
マッシュは笑みを引っ込めて、大きな体を屈めた。混乱している椎子と視線を合わせ、真剣な表情で尋ねてくる。
「覚えてないのか?」
「私、家に帰る途中、で……」
事故か何かにあったのか、それすら記憶にない。どうしよう。どうして思い出せないんだろう?
「……家はどこにあるんだ?」
「え……」
椎子は呆けたようにマッシュを見た。彼は唇の端を持ち上げて、にっと笑ってみせる。
「送るぜ。モンスターもいるし、一人だと危ないもんな」
「あ、ありがとうございます……」
何かよくわからない言葉が耳に入ったように思えたが、椎子は聞き過ごした。彼の誠実さに感じ入りながら、大体の住所を告げる。
だが、マッシュの反応は思いもよらぬものだった。
「……え? もう一度言ってもらえるか?」
眉根を寄せて、そう聞き返したのだ。
椎子はどきりとして、それまで何となく抱いていた不安をおそるおそる口にした。
「もしかしてここ……日本じゃないんですか?」
「ニホン?」
……嫌な予感が、椎子の胸の中で急速に膨らんでいく。
ここが日本じゃなくても、どうか私の知っている場所でありますように――そんな願いは一瞬で打ち砕かれた。
「それって地名だよな。シャドウ、知ってるか?」
「いや、知らん」
問われたシャドウは、素っ気なく否定した。
「そんな、だって……皆さん、あの、日本語喋られてます、よね?」
「その……」
マッシュは困りきった顔で、言いにくそうにした。
「ニホンゴなんて聞いたことがないな。この辺りの出身じゃないのか? フィガロ……は違うか。帝国じゃあないよな?」
「し、知らない……」
椎子は弱々しく首を振った。
「知りません……私、そんなの聞いたことない……」
どうしようもなく体が震える。動揺のせいか、涙まで滲んできた。……駄目だ、こんなところで泣いてしまったら、まるで彼を責めているようではないか。
マッシュが真っ直ぐに立って、口を開いた。
「俺たちはこれからドマ――ナルシェへ向かうところなんだが」
「え、あ、私……」
このまま置いていかれてしまったら、私はこんなところに一人で、これからどうすればいいのだろう――そんな焦りに、逡巡したのは一瞬だった。
「わ、私も、連れていってください!」
椎子は思い切って頭を下げた。それを予想はしていたのだろうか、マッシュは驚くでもなくすぐに言った。
「危険だぜ。帝国の陣地を抜けていくんだ」
「あ、足手まといにはならないようにします。お願いします!」
じっとマッシュの返事を待つ。やがて、上から柔らかい声が降ってきた。
「わかった」
「じゃあ……!」
椎子が顔を上げると、マッシュは頷いて、あたたかく笑った。
「ああ。いいだろ、シャドウ?」
「好きにしろ。俺は、案内をするだけだ」
「……ありがとうございます!」
何だか希望が見えてきたような気がして、椎子はもう一度、深くお辞儀をした。
「――そういえば、シイコ、裸足で出てきたんだな」
「あっ」
マッシュに指摘されて、椎子は今の自分の姿を思い出した。
「そうでした、靴がなかったので……」
そう答えた椎子の目の前に、ずいと黒い手が突き出される。
「え、あの……?」
困惑して、その手の主を見上げる。シャドウは手に抱えたものを椎子に押し付けた。
「……着替えて来い」
「あ、これ……」
椎子の制服だった。そう言うほど時は経っていないはずだが、何となく懐かしさを感じる。だからだろうか、ぎゅっと腕に抱えなおすと、それだけでひどく安心できた。
……だが、重大な問題がある。
「どこで着替えてくればいいんでしょう、か?」
「…………」
椎子の問いにシャドウは何も答えず、
「あー、ここ……は、人ん家か。その、悪いけど……この裏じゃあ駄目か?」
代わりにマッシュがうろたえたように応じた。
「わ、わかりました」
素直に頷く。抵抗はあったが、ここでぐずっているわけにもいかない。
一緒に手渡された靴を先に履いて、椎子は裏に回った。家の裏は切り立った低い崖に囲まれていて、これなら人目にはつくまい、と安堵する。
制服を広げてみると、かなり皺になっていた。川に落ちたらしいからには仕方のないことだろう。
そこで、ハタと気付いた。
――これ、誰が着替えさせてくれたんだろう……
「うわー……」
椎子は赤面して、空いた手で顔を押さえた。
とりあえず服の下を確認してみる。椎子の危惧に反して、下着はそのままだった。よかった、さすがにこれまでどうかなっていたら、泣く。
「き、気にしない方がいいよね、うん」
声に出して自分に言い聞かせている時点で、大いに気にしているわけなのだが。椎子は真っ赤になってぐるぐる考え続けた。まあ別に、そんな大したものは持っていないし、いやいやそういう問題じゃないよ何しろお嫁入り前の女の子なのであって、でも非常事態だったわけだから……
思考は尽きない。気付けば、随分時間が経ってしまっていた。
急いで着替えを終え、二人の元に戻る。
「ごめんなさい! 遅くなりました!」
「そんなに慌てなくても大丈夫だぞ、シイコ」
二人とも、大して気にしていない様子だった。そのことにまず胸を撫で下ろして、椎子は平静を装いつつさりげなく尋ねてみた。
「あ、の……この服は、どなたのなんでしょうか?」
「…………」
畳んだ服を、シャドウが何も言わずに取り上げて、荷物の中にしまった。
……これは、さっきの答えが判明してしまったことになるのだろうか。
「ど、どうもありがとうございました……」
顔から火が出る思いとはこのことだ。恥ずかしいが、恥ずかしがっているのがおそらく自分だけだということもまた恥ずかしい。
「それじゃシイコ、出発できるか?」
「はっ、はい、大丈――」
マッシュに言われて頷きかけてから、椎子はすぐに思い直した。
「あっ……あとちょっとだけ、待ってもらえますか」
「ああ、わかった」
不思議そうな顔のマッシュに背を向けて、椎子は大急ぎで一軒家に戻った。家の中を覗くと、老人はまだ酒を飲んでいた。
「ん? 芝刈り機の修理屋か? さっさと直してくれんかのう」
……相変わらず、言っていることはわけがわからない。どうもこの老人は苦手だが、マッシュの話では無理を言ってベッドを貸してもらったようで、このまま去るのも気が引ける。
「あの、おじいさん、お世話になりました!」
「はて? 何じゃ――」
勢いよく頭を下げて、椎子はすぐにドアを閉めた。礼を述べるにしては失礼な態度だとは思うが、これ以上老人のとんちんかんな話を聞くのはやはり遠慮したいところだ。
振り向くと、マッシュが遠目にもまじまじとこちらを見つめていた。何かやらかしてしまっただろうか、と椎子はびくつきながらマッシュの元に戻る。
「な、何ですか?」
「いや? 何でも」
マッシュは笑って、近寄ってきた椎子の頭をいささか乱暴な手つきで撫でた。
「わっ、な、な、何……」
「――じゃ、行くか!」
言葉を遮るように、マッシュが大きな声を上げる。椎子はぐしゃぐしゃになってしまった髪に呆然と手をやりながら、その声に気圧されたようにぎこちなく首肯することしかできなかった。