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……寒い。これまでそうと感じなかったのは、水の中にいたせいだろう。
だが今は違う。肌に空気が触れて、濡れた体が冷えていくのがわかる。目を閉じているというのに、瞼の向こうが眩しい。ここが水中でないなら、これは太陽の光だろうか?
――不意に、それが陰った。
重たい瞼を持ち上げる。誰かが、椎子の顔を覗き込んでいる。
「だれ……?」
椎子の目の前に、薄汚れた少年の顔があって――それを認めた瞬間、びゅっとものすごい勢いで、その顔は引っ込んだ。
「んん……?」
椎子は緩慢な動作で起き上がった。服は乾きかけてはいるようだが、体が重い。
少年の背中が、夕焼けの草原に消えていくのが見えた。足が速いなあ、とぼうっと眺めて感心する。
駄目だ、眠い。
気だるさに耐え切れず、椎子は再び体を横に倒した。
目が覚めると、天井が視界に映った。
「……あ、あれ?」
呟いてから体を起こす。ベッドの上だ。
「前にも、似たようなことがあったような……」
しかし、今回はきちんと自分の制服を着ている。床に置かれてあった靴を履いて、立ち上がった。ささっと髪を撫でつけて、見苦しくない程度に身づくろいをする。
窓の外は明るい。あれからどのくらい経ったのだろうか。少々眩暈を感じるが、十二分に寝たせいか気分はすっきりしていた。部屋の中をよく見れば、他にもあるベッドの上には見慣れた荷が置いてあった。マッシュとカイエンのものだ。
とにかく部屋を出ようとして、ドアノブを掴む寸前に、向こう側から扉が開いた。
「わっ」
「――と、シイコ殿。起きていたでござるか」
ドアの前にはカイエンが、驚いた顔をして立っていた。
「カイエンさん! ……ええと、はい、さっき目が覚めまして」
椎子はそこで言葉を切って、カイエンの肩越しに外の廊下の様子を窺った。
「あの、ここはどこなんでしょう?」
「モブリズの宿屋でござるよ。今日の昼頃に着いたのでござる」
「あ、ごめんなさい……歩きましたよね?」
椎子は意識を失う前に目にした広い草原を思い出した。あの場所からモブリズまでどれほどの距離があったのかはわからないが、見渡した限り地平線しか映らなかったから、相当のものだろう。モンスターも出没するであろう道のりを、椎子を担いでやって来たということになる。
「なに、気にすることはない。シイコ殿はよく頑張ったでござる」
「私はあんまり頑張ってないと思うんですけど……」
滝でもすぐに気絶してしまった。そう言うと、カイエンは笑って椎子の頭を撫でた。マッシュもよくする動作だが、普段あまりされ慣れないので落ち着かない。それにどうも、完全に子供扱いをされているようだ……相手がカイエンならば、そこまで悪い気はしないが。
「ところで、体の調子はどうでござろう。腹が減ってはおらぬか?」
「はい、まあ……」
曖昧に頷くと、途端に腹が鳴った。
「……その、も、ものすごく」
赤面しながら言葉を付け加えると、カイエンは苦笑してみせた。聞けば、昼食を取っておいてくれているらしい。ありがたくいただくことにする。
「出発は明日の予定でござる。今日はもう休んでおってもよいでござるよ」
「いえ、もう全然大丈夫なので……何か私にできることがあったら、お手伝いさせてください」
「ふむ、それでは――」
今日のうちに旅の消耗品の調達と、ナルシェへの道順を調べる必要があるらしい。旅支度は勝手がわからないので、椎子は情報収集の方を引き受けることにした。
カイエンとは宿を出る時に別れた。その後に、ふと思う。
「……もしかしてカイエンさん、私の様子を見に来てくれてたのかなあ」
宿ではずっと椎子についていただけで、何か用事で戻ってきたようでもなかったから、おそらくはそうなのだろう。
「よし、頑張ろっと!」
椎子はつい緩んできてしまった頬をぺしぺしと叩いて、小さく腕を振り上げた。
モブリズはとても平和そうで、のどかな村だった。ヨーロッパの片田舎にありそうな、煉瓦造りの小さな家々が並んでいる。そんな村の風景を目で楽しめるようになったのは、椎子の心にも少しは余裕が出てきたということなのだろう。
「あのバレンの滝を通ってきたって? 信じられんなあ」
「で、ですよねえ……」
偶然捕まえた老人にそんなことを言われて、椎子はやや笑みを引き攣らせて頷いた。話によると今年は特に水量が多かったらしいが、そうでなくても信じられないと思う。
「やっぱり普通は滝に飛び込んだりしないよね……こっちでは常識とかじゃなくてよかったなあ」
「……話はそれだけかね」
一人でうんうんと頷いていると、不審そうにされた。
「あっいえ、それとですね――」
とりあえず必要なことを聞いてから礼を言い、離れる。
聞き込みが意外に早く終わったので、椎子はしばらく村をうろついてみることにした。何しろ、この世界に来てから訪れた最初の村である。店でも覗いてみよう、と軽く考えたのだが。
椎子の前に、とてつもなく大きな障害が立ちはだかっていた。
「犬が!」
飼い犬のようだが、放されている。側を通ったら飛びかかられるかもしれない――そんな想像をしてしまって、椎子は一歩も先へ進めなかった。犬は牙を剥くどころか、こちらをまったく気にしていないのだが。
そうやって椎子が挙動も不審にまんじりとしていると、背後から声がかかった。
「何やってんだ?」
「いえ、その、己のトラウマと戦っておりまして……って、マッシュさん」
「おうよ。もう調子いいみたいだな」
マッシュが笑いかける。買い物の途中なのか、片手に道具袋を携えていた。
椎子はマッシュの腕をがしっと掴んだ。そのまま店の方へ向かう。
「ん? 何だ何だ」
「すみません、ちょ、ちょっと付き合ってください!」
マッシュはされるがまま、椎子に引っ張られていく。何とか犬の横を通り過ぎてから、椎子は恐怖に慄く胸に手を当てて、長く息を吐いた。
「助かりましたー……」
「何だ、買い物がしたかったのか?」
「えっ、あ、いえ、むしろそれまでの過程が重要だったと言うか」
納得したようなマッシュに、まさかあなたを盾にしていましたとは言えない。心の中で手を合わせて謝っておく。
「……うーん、そうだな、これ、好きに使ってくれ」
と、マッシュに何か小さな袋を手渡された。
中を覗くと、硬貨が詰まっている。椎子は当惑しながらマッシュを見上げた。
「え、と、――いいんですか?」
「ああ。自分で買っておきたいものもあるだろ? それにその服、目立ってるみたいだからさ、ついでに着替えも買ってくればいい」
言われて、椎子は自分の格好を見下ろした。
確かに、どうやら自分が好奇の視線を集めているようだと気付いてはいた。滝を通ってきたせいで、制服は少々みっともないことになっている。もっとも注目されるのはそのためだけではなく、単にこの世界では制服が珍しいということもあるだろう。
「あの……制服、このままじゃいけませんか?」
「え?」
おどおどと尋ねてみると、マッシュは目を大きく瞬いた。
「あっ、もちろん、できるだけ繕いますけど」
「……何か、理由があるのか?」
「えっと……」
椎子は少し俯いて、とつとつと告げた。
「私、他に何も持ってなくて……私が日本から来たっていう証拠を、身に着けておきたいんです」
しかし、リターナーに属しているというマッシュと行動するには、目立ちすぎる服装はまずいのかもしれない。何をどう言おうと、所詮は椎子のわがままに過ぎないのだ。
悩んでいると、マッシュは椎子の頭に手をやってわしゃわしゃかき回した。
「わっ!?」
「わかった。……でも、俺はいつでもシイコの味方だからな。絶対家に帰してやるから、それだけは覚えておいてくれよ」
見上げると、もはや見慣れた、底抜けに明るい笑顔がある。
「……は、はいっ」
椎子は一生懸命頷いた。こんな素性の知れぬ自分を、助けてくれたり旅に同行させてくれたり、本当にマッシュには感謝してもしきれない。
先に宿に戻るというマッシュの背をそんな思いで見送ってから、椎子は店に入った。
……余談だが、帰りしな、一人で犬の前を横切るのに何十分もかかってしまった。