10
――人間、いざとなればとんでもないこともやりとげられるものなんですね。椎子は悟りを開いたような心境だった。
蛇の道を通り抜けた椎子たちは、さすがに皆疲れ果ててはいたものの、無事に港町ニケアに辿り着くことができた。
情報収集のために寄った酒場で地図を見せてもらったが、蛇の道は海を横断する大きな海流だった。こんな距離を泳いできたのか、と改めて驚愕する。
「と言うか、人間が生身で通る道じゃないですよ……」
酒の代わりにもらったお冷を飲み干して、椎子はぐったりとテーブルに顔を伏せた。
「まあまあ、もう少しでナルシェだ。頑張ろうぜ」
マッシュが声を立てて笑った。
このニケアからサウスフィガロという街に定期便が出ていて、そこから北に向かうと、ようやくナルシェらしい。今日中に出航できるということで、宿は取らずにそのまま発つことになった。
強行軍だが、次は船である。もう泳がなくてよいというのは、かなりありがたい。
定期便までまだ時間があり、それまでそれぞれ自由行動を取ることになったので、その間、椎子は酒場にいる人間にいろいろと話を聞いてみることにした。ここが異世界であるにしても、日本について誰か知っている人がいるかもしれない。
「日本って国、知りませんか? 私、レテ川まで流されてしまって、帰れなくなって……」
「さあ、聞いたこともないね」
誰に聞いても答えはそんなものである。駄目でもともとのつもりだったが、誰も彼も知らないとなるとやはり落ち込んでしまう。
「レテ川と言えば……川のほとりに一軒家があったろう」
そうして何人目かの老婆は、礼を言ってすごすごと去ろうとした椎子を、そんなことを言って引き止めた。椎子は意外な思いで老婆に向き直った。
「あ、はい、少しお世話になりました」
「世話? へえ、あのいかれた爺さんが」
「いかれたって……」
椎子は口ごもって、眉を顰めながらも尋ねた。
「あのおじいさんのお知り合いなんですか?」
「多少ね。十三年前、私があの男の子供をとってやったんだよ」
「お子さんが……いたんですか」
「しかしねえ、出産場面の凄まじさと奥方の死で気が動転して、赤子を化け物と思い込んで獣ヶ原に捨ててしまったのさ」
凄惨な話に、椎子は唾を飲んだ。
「……あ、赤ちゃんは?」
「もう生きていないだろうね」
老婆はそれきり口を閉ざした。
――きっと、奥さんのことがすごく大事だったんだろうな。
椎子は思う。同時に、後ろめたくなった。最後まであの老人のことを気味悪がってしまった。もしあの一軒家にまた行くことがあれば、もう一度きちんと礼を言って、謝ろう。そう心に決めた。
それともうひとつ、気にかかることがあった。
二ケアは港があるために交易が盛んなようで、雑多な印象はあるが活気の溢れる町である。そこかしこに露店があり、通りはバザーのようだった。
「ガウくん、何か欲しいものある? 安いのなら買えるよ」
「ガウ、あれを食べる!」
ガウと一緒に食べ歩きをしながら、市場を見学する。
「私たち、ちょっと浮いてるよね……」
椎子は小さく溜息をついた。制服姿の椎子はもちろんとして、なりゆきでついて来ることになったガウが身に着けているものは、ケープと腰履きだけである。これがまた、非常に目立つ。
「服も買おうか?」
尋ねると、ガウは少しも考える間を置かずに首を横に振った。
「おいら、このままがいい!」
「そっかあ……まあいっか、浮いてる同士でお揃いだよね」
椎子が笑って言うと、ガウはぴょんぴょん飛び跳ねた。
「お揃い、おそろい!」
「あ、あとね、ガウくん。ちょっと、聞きたいことがあるんだけど……」
「ガウ? シイコ、なにをききたい?」
椎子はしばらく二の足を踏んでいたが、やがて言った。
「……ガウくん、ご両親のことって覚えてる?」
「それ、くいものか?」
「そ、そっちに行くんだ。食べ物じゃなくて、うーん……お父さんとかお母さんのこと」
「おいら、知ってるぞ! モブリズにたくさんいる!」
たくさん? 椎子は目を丸くしたが、よく聞けばモブリズの子供たちの家族のことを指しているらしい。そうではなくガウ自身の家族だと説明すると、ガウは目に見えてしょんぼりと肩を落とした。
「ガウにはいない……なんでだ?」
「あっ――ごめん、ごめんね!」
椎子は慌ててガウの背に手を回した。自分の軽率さを悔いる。
あの一軒家の老人に関することを聞いてから、椎子はガウのことを考えていた。いくつか符合する話から、ガウは彼の子供なのではないかと思うのだ。もし本当にそうなら、いつか引き会わせることができれば……知らず、家に帰れない自分を重ねていたのかもしれない。つい気が急いて、ガウの心情を慮れなかった。
「でも、あの、これからはマッシュさんとカイエンさんがいるし、わ、私も……私のことは、本当のお姉さんと思ってもらってもいいからねっ」
力を込めてそう言うと、ガウはきょとんとた。
「おねーさん?」
「……よ、よければ、だけど」
「おかーさん、だめか?」
「えっ? それは、年齢的に厳しいかな……」
思いつめるように考え込み始めた椎子が面白かったのか、ガウはその場ではしゃぎ始めた。
「おかーさん、おかーさん!」
「ちょ、ちょっと、ガウくんっ」
その後、駆け出したガウと、何故だか追いかけっこをすることになってしまった。
顧みると、長い旅だった。椎子は去っていく港を眺めて感慨に浸った。
「次はサウスフィガロかあ……」
甲板の上は風が強い。潮の匂いが鼻をつく。縁から広い海原を見渡して、椎子は泳ぎでなくてよかったと心から安心した。
「兄貴たちは無事だろうか……」
ポツリとマッシュが呟く。マッシュは確か、リターナーの仲間とはぐれたのだったか。
カイエンが労わるようにマッシュの肩に手を置いた。
「そう心配なさるな」
「お兄さんたち、きっと大丈夫ですよ。マッシュさんだってこれだけ長い道のりを無事に越えて来られたんですから」
「ガウ、ガウ!」
「うん、そうだよね」
ガウは言葉になっていなかったが、椎子が頷いて頭を撫でると、嬉しそうにした。
「そうか……そうだな」
それぞれ励ましを口にする三人を見渡して、マッシュはいつもどおりの笑顔に戻った。それから少し間を置いて、改まった調子で言った。
「……そういえば、皆に教えておきたいことがあったんだ」
「何ですか?」
「あー……その、俺の本名なんだけど、マシアス=レネー=フィガロってんだ」
目を泳がせながら頭をかく彼は、後から「マッシュは愛称な」と付け加えた。
椎子は首を傾げた。
「フィガロって確か……国の名前でしたよね」
マッシュは何でもないように軽く頷く。
「ああ、俺の兄貴がフィガロ国王なんだ」
「えっ、それは……し、知りませんでした」
椎子は目を白黒させた。それでは彼は王族だということになる。驚きすぎて、他に告げようがない。
カイエンが落ち着かない様子で顎をさすりながら尋ねた。
「マッシュ殿……よいのでござるか?」
「ああ、俺が教えたくて教えたんだからな」
「えっと……?」
二人のやりとりをいまいち理解していない椎子に、カイエンが耳打ちする。
「王族のミドルネームは、特に親しい間柄の者にしか教えぬものでござる」
「それって……」
椎子はハッとなって、急いで手で口を覆った。絶対ににやけている気がする。
見ると、マッシュも照れくさそうだ。
「まあ、そういうことだ。他の奴には秘密にしてくれ」
「ひみつ! ガウ、まもる!」
同じくカイエンに噛み砕いて説明されたガウは声を弾ませた。
はしゃぎまわるガウとそれをなだめるカイエンを見ながら、椎子は呟くように言う。
「私にもそういうのがあったら、皆さんに教えてあげられるんですけど……」
「はは、そりゃ残念だ」
マッシュは大きな手で椎子の髪をぐしゃっと撫でた。
今日は、椎子は声を上げなかった。大人しくされるままになっていると、マッシュは僅かに声を潜め、続けた。
「兄貴に調べてくれるよう頼めば、シイコが帰る方法が見つかるかもしれない。他にも、リターナーには情報通の奴もいるし――ロックって、前に少し話したろ?」
これまではあまり調べられなかったからな、と苦笑する。
椎子は自分が別の世界からやって来たのだとはっきり告げたことはなかったが、彼はどこまで察しているのだろう……しかし何より、そこまでマッシュが考えてくれていたことに、椎子はじんとなった。
ナルシェまで、もうすぐだ。