11.5

 気が抜けてしまったせいか、椎子はそのまま床に座り込んでいた。
 何度確かめてみても、手のひらには傷の痕跡すらない。ただ、血糊だけがべったりと残っている。
 制服まで汚れなくてよかったなあ、と椎子が場違いなことを思ってぼんやりしているところに、先程の女性が声をかけてきた。
「これ、使って」
「え……」
 それが自分に向けられた言葉だと認識するのに時間がかかった。濡らした布切れが目の前に差し出されている。
 いつまでもそれと自分の汚れた手とに視線を行ったり来たりさせていると、彼女が悲しそうに手を引っ込めようとしたので、
「す、すみません」
 椎子はあたふたとそれを受け取って立ち上がった。
「あっ、それとさっきは、怪我を治していただいてありがとうございました!」
 ぺこりとお辞儀をしてから頭を上げると、彼女は目を丸くしていた。何か、それほどおかしなことをしてしまっただろうか? 振り返っても思い当たるようなことはない。椎子は当惑しつつ次の言葉を捜した。
「えーと、そうだ、お名前を聞いてもいいですか?」
「私……」
 彼女はひどくうろたえたように瞳を揺らして、消え入りそうな小さな声で名を告げた。
「名前はティナというの。……あなたは、私のことが怖くないの?」
「へっ? ど、どうしてですか?」
 問われて、椎子の方こそ面食らった。
 聞き返すとティナは辛そうにぎゅっと眉根を寄せて、俯く。
「私は……魔法が使えるから」
「あ、あれって魔法だったんですか」
 すごいなあ、と椎子は素直に驚嘆の声を上げた。……異質さもここまで来られると、もう落ち込みようがない。
 しかし、ティナは弾かれたように顔を上げて椎子を見た。すぐ近くでそのやりとりを眺めていたセリスも、呆れたような視線を送ってきている。
「何か……?」
 今度は何だろう。きょときょとと二人の顔をかわるがわる見ると、ティナがポツリと漏らした。
「それだけ、なの?」
「えっ? ああ――ひょっとして、魔法ってあんまり一般的なものじゃないんですか?」
「……そうだ。魔法を使える人間などいない」
 その疑問には、セリスが頷いて答えた。自嘲とも取れるような笑みを薄く浮かべて、後にこう付け加える。
「私のように、人工的に魔導の力を植え込まれない限りは……だが」
 椎子は目を瞬いた。モンスターや幽霊やロボットがいるのだから、魔法というものがあっても少しもおかしくはないと思うのだが、そんな簡単な問題ではないようだ。
「あなたも魔法を使うのね……」
 ティナがそっとセリスを見やった。
「人を愛することはできるの?」
「…………」
 ティナのぶっ飛んだ問いかけに、椎子とセリスは二人して沈黙した。
 場の温度が急激に下がった気がする。主に、セリスの周囲で。
 セリスがじろりとティナを睨む。
「どうしたの?」
 ティナはきょとんとした。
 ひびの入った空気に気を揉んだ椎子はフォローを入れようとして、
「ティナさんって、……て、哲学的ですね!」
「そうかしら」
「…………」
 しかし何とか捻り出した言葉はそんなものだった。しかも流された。
「私を馬鹿にしているのか?」
「いいえ……?」
 セリスが底冷えするような低い声で言い放ったが、ティナはセリスが何故そう問うたのかよく解していないようで、相変わらず不思議そうにしている。放っておくとどんどん地雷原に突っ込んでいきそうだったので、椎子は大慌てで話を逸らした。
「あの、さっきの話ですけど! 私、ティナさんのことは怖くないですよ」
「――どうして?」
 即座に聞き返される。ティナの物柔らかな印象とはやや相反する反応に、椎子は少したじろいだ。
「どうしてって、だって……」
 じっと、瞳の奥を覗き込むように見つめられている。その視線には何だか追い詰められているような、縋るようなものを感じる。
「えっと、ティナさんは優しいし、穏やかな感じだし、あと……」
「あと?」
 椎子は早く何か答えなければと焦って、混乱し始めた。
「あ、あとそれから……び、美人だし!」
「顔は関係ないだろう」
 セリスにばっさり切られた。
「え、そ、そう……セ……」
「セリスだ」
「すみません――ええっと、セリスさんもお綺麗ですね」
「……そんなことは聞いていない」
「ご、ごめんなさい……」
 怒らせてしまった。
 椎子はとりあえず落ち着くために一度小さく深呼吸をして、それから納得がいかない風のティナに言った。
「私、あんまりうまく言えませんけど、ティナさんは私を助けてくれましたし、怖いことなんて全然ないです。むしろ感謝してます」
「感、謝……?」
 ティナはそう呟いたきり、顔を伏せて何か考え込み始めた。完全に自分の世界に入ったのか、目の前の椎子のことも失念してしまったようだった。
 自分の拙い物言いでは、うまく伝わらなかったのだろうか。もしくは、先の発言で気を悪くしてしまったのかもしれない。どうしようもなくはらはらしていると、セリスがふっと笑った。
「……変わった奴だ」
「は、ど、どうも……」
「私も――」
 セリスは不意に、真剣なまなざしを椎子に向けた。
「先程私を庇ってくれたこと、礼を言う。ありがとう」
「え……」
 思わずまじまじと見返すと、セリスはさっと踵を返して他のリターナーのメンバーがいる方へ歩いていった。それに気付いたティナも、椎子に会釈して後を追う。呆けていた椎子は我に返って、
「あのっ、どういたしましてっ」
 その背中に届くうちにと声を上げた。
 セリスは一度だけ、こちらを振り向いた。その頬は少し赤かった。