14
――犬の吠える声がする。いつもなら泣いて怖がったかもしれないが、命の危険に身を晒している状況では、そんな余計な感情は生まれる余地がないのだということを椎子は初めて知った。
大きな心音が相手にまで届きそうな気がして、椎子は体を小さくして、鼓動を抑えるように胸に手を当てた。その手の震えも止まらない。
ガウを一刻も早く谷へ向かわせるためにこの場に留まりはしたが、遮蔽物も何もない場所で一軍をやり過ごすことなどできるはずもなかった。せめて、犬を引き付けて向こうを警戒させれば少しは行軍を遅らせられるかもしれないと、椎子はできる限りに姿を隠していた。
やがて、先頭の兵士がはっきりと視認できるようになる。向こうからも椎子の姿が見えているだろう。縮こまっている意味もなくなると、椎子はそろそろと立ち上がった。
この先は一体どうするのが最善なのか、とうとうここまで思いくことはできなかった。とにかく、何も知らない民間人のように振舞って、時間を稼ぐしかない。彼らが市井の者にどれほどの容赦を見せてくれるのか、保障は露ほどもないのだとしても。
すでに、ケフカの軍は声が届くような距離にいる。
こうなってしまえばもう当たって砕けるしかない。
なかなか言うことを聞いてくれない己の口を叱咤しながら、椎子は必死に舌を動かして言葉を発した。
「……こ、こんにちはっ」
考えなしにしてもあんまりな台詞だった。
…………私って、バカ?
椎子は自分に絶望した。
案の定、兵士は胡乱気に椎子を見ている。
「ナルシェの住民か?」
「……おい、相手にするな。放っておけ」
声を潜めるように、後ろのもう一人が言った。誰何した方の兵士は、顔だけそちらに向けて異を唱える。
「しかし、見つかったらケフカの野郎がうるさいぞ。住民も皆殺しだなんて言っているからな」
「皆殺し……?」
穏やかでない単語に、椎子は絶句する。谷の上の幻獣が目的ではなかったのか?
最初の兵士が青ざめた顔の椎子を一瞥して、
「まあいい。死にたくなかったらさっさと消えるんだな」
と、乱暴に押しのけた。椎子はよろめいて、その場にしりもちをつく。
「あ、あの……!」
椎子がなおも取り縋ろうとした時、聞き覚えのあるヒステリックな声が辺りに響いた。
「バカ者! 何をしている、さっさと殺せ! 皆殺しにしろと言ったはずだぞ!」
ざくざくと雪を踏む足音が近付いてくる。
兵士がぎょっとした顔で道を空け、敬礼の姿勢を取った。
「も、申し訳ございません、ケフカ様!」
現れた彼は頷きすら返さず、完全に兵士を無視して、立ちかけた姿勢で硬直してしまっている椎子の前で立ち止まった。
派手な衣装が、風に吹き上げられて視界を踊っている。
「おや――」
ケフカは一瞬驚いた表情を作った後、先程とは打って変わった、穏やかな声を紡いだ。そのあまりの唐突さ、変わりぶりは、椎子の怖気を誘うほどだった。
「これはこれは、面白い拾い物を……」
ケフカの口元が歪な笑みの形を成した。それはいつか見たものと同じような、ぞっとする笑い方だ。
「あ……」
声が出ない。
殺される――その瞳に渦巻いている狂気に似た色を見て、椎子は直感した。それはこれまでとは比べ物にならないほどの、確信に近い死の予感だった。椎子は今、彼の気まぐれひとつで割れてしまう薄氷の上に立っている。
慄く椎子の胸中を知ってか知らずか、ケフカは身を屈め、ぐっと顔を近寄せた。思わず顔を背けようとした椎子は、その直前でケフカが口にした言葉に、ぎくりと体を強張らせた。
「またお会いしましたねぇ……異界の娘」
「……え」
呆然と、ケフカを見つめ返す。
異界――今、確かにそう言った。何度も頭の中でその言葉を反芻する。
ケフカはヒヒヒと声を立てて笑った。
「どうしました? 頭が足りていないのですか? ……マア、こちらとしてはその方が都合がいいのですがね」
「な、何を――」
コートはもはやその用途を果たさないほどに、体温で溶けた雪に濡れてしまっている。しかし、歯の根が合わないのはそのせいだけではない。
椎子は懸命に虚勢を張って、ケフカを睨んだ。
「異界だなんて、あ、あなたは何を、知っているんですかっ」
ケフカははっきりとした嘲りを含んだ、面白がるような表情で椎子を見下ろしている。その目の得体の知れない色が濃さを増した気がして、椎子の体の震えはいよいよ大きくなった。
「覚えていませんか。あなたはこれまでに二度、私と会っていますよ」
「二度……?」
そう言われても、わからない。ドマの帝国軍陣地と、あと……?
眉を顰める椎子に構わず、ケフカは続ける。
「ドマで見かけた時は驚きました。あのまま、異次元にでも放り出されたのかと思っていましたのでね」
「何を……言っているのか……」
力なく応じながら俯くと、ケフカの手が伸びてきた。
「――そうですか。では」
「ぐ……っ!?」
顎を掴まれ、天を仰がされる。指が悲鳴を抑え込むように強く食い込んだ。
「続きは実験台の上で聞かせてさしあげますよ!」
甲高い哄笑。
「は、放……!」
手を振り払おうとしたが、その前にケフカの口が動いて、それとともに奇妙な響きの言葉を耳にした。
その途端、瞼が落ちて、椎子はそのまま意識を手放した。
……気が付けば、椎子は見慣れた、けれどひどく懐かしい景色の中に身を置いていた。
すぐに、それが夢だとわかった。
何故ならそこは元の世界の、日本の、椎子の部屋だったからだ。
もっとゆっくり部屋の中を見回したいのに、椎子の視界は勝手に忙しなく移り変わっていく。その理由は、何度も視線が向けられる時計のおかげで、やがて知ることができた。
――そういえば、あの日はちょっとだけ寝過ごしちゃったんだっけ。
「椎子」は、遅れる遅れると泣きそうな声を上げながら、狭い廊下に飛び出していった。椎子は彼女の意識の片隅にいて、ずっとそれを見ていた。
「お母さん、行ってくるね!」
慌ただしい身支度を終えて、玄関で靴を引っ掛けるように履き、椎子は家の中を振り返らずに外に出た。
――あーあ、馬鹿だなあ、私。
椎子は他人事のように思った。
もう言えないんだから、ちゃんと顔を見て、行ってきますって言えばよかったのに。
「行ってらっしゃい。転ばないのよ」
「椎子」は背に受けた母の声を当たり前のように聞き流して、駆け出してしまう。椎子がどんなに引き返そうとしても、足は「椎子」の意識のままに前に進んでいく。すでに「椎子」の頭の中に母のことはない。あの時は、これが昨日までと同じように、明日もずっと続いてくと思っていたのだ。
――お母さん、行ってくるね。
椎子は「椎子」と同じように、もう遠くなってしまった姿も見えない母親へ、そっと届かない声をかけた。果たしてただいまと言える日が来るのかは、わからなかったけれど。
通学路の途中で友達と合流して、学校に着いて、授業を受けて、一日は飛ぶように過ぎていく。椎子はそれを眺める。ただ見ているだけだ。
こんなに大事なものだったのに、どうして今までそうやって扱わなかったのだろうと、悔いばかりが浮かんだ。
「ねえ、椎子。今日さあ、この間言ってたお店にみんなで行こうかって話になったんだけど、一緒に来るでしょ?」
「あっ、うん。行く行く」
放課後になって、友達の誘いを受けた。
皆で連れ立って昇降口を出る。
その時にくぐった戸に嵌められたガラスが、ふと、水面のように揺らめいた気がして、椎子は足を止めた。
「あれ、今……」
「どうかした? 椎子」
「えっ、えーと、何でもない……かな?」
改めて見ると、何の変哲もないただのガラスだ。たぶん、光が反射したか何かに違いない。
「何それー? ほらほら、置いていっちゃうよ」
先を歩く友達が、明るい笑い声を上げる。
それを追いかけようとして、それでも何か後ろ髪を引かれるような思いで、椎子はもう一度だけ振り返った。
――ぽっかりと、昏い穴があった。
椎子の目の前に、それは待ち構えていたように口を開けていた。右手が吸い込まれるように闇に消えていく。体が大きく傾いだ。半身を捩って、友人たちの背に助けを求めようとして、その前に呑み込まれて、視界が黒く塗り潰された。
落ちる。
暗闇の中を延々と落下して、そのまま投げ出された。
冷たい金属の床の上だった。
「これは……失敗か?」
頭上から、男の声がした。
「確かに別の世界には繋がったようじゃが、魔法で無理に次元をこじ開けるような方法では、やはり幻獣界には……」
強い明かりに目が眩む。ただでさえ地に這っている椎子の視野には、男の足元しか映らない。
男は、彼の背後の人物と何事か言葉を交わしているようだった。
「チッ、この役立たずが! おい、この幻獣はどこぞに捨てておけ!」
今度は少し若い声が、そんなことを喚きたてている。ガンガン、と地団駄のように床を踏み鳴らす音がした。少しずつ遠ざかっていくその音は、
「この娘はどうするつもりじゃ?」
先の男のその言葉で、ぴたりと止んだ。
同一の人物のものとは思えないほど落ち着いた靴音が、ゆっくりと時間をかけて椎子の目の前までやって来る。
「……そうですねぇ」
静かだが、茫漠としていた思考までもが粟立つような、そんな響きの声だった。
「適当なサンプルにでもしてしまえばいい。もし使えないようなら――」
「!」
椎子の意識は突然にクリアになった。髪を掴まれて、上体を無理矢理に持ち上げられたからだった。皮膚が引きちぎれそうなほどに痛い。
眼前の、道化のような風貌の男がとても楽しそうに、けれど口を歪めて吐き捨てた。
「殺せ!」
びくりとして、椎子は咄嗟に身を引いた。意外なことに男の手は容易く離れて、椎子の体はその勢いのまま後ろに倒れた。そして、背中を打ちつける――はずだった。だがそこに床は、ない。
道化の男が眉を顰め、先の男が驚愕の表情を浮かべるのが見えた。それは、二人にとっても予想外の出来事だったようだった。
椎子は再び穴の中を落ちていった。
温度のない闇は、やがて急激に冷えていく。息ができない。
――その先を、この記憶がどこに続いていくのかを、椎子は知っている。
思い出した、私がこの世界にやって来た時のことを。
また――また、あの場所に戻されてしまうのだろうか?
それを考えると、体よりもずっと心が凍えていくようだった。
だってまだカイエンさんとちゃんとお話してないし、ガウくんが無事だったかも確かめたいし、また無茶やっちゃってマッシュさんに謝らなきゃだし、それに、それにもう一度会いたい人がいるのに――
ふと、椎子は目を開けた。
瞬く。視界は、ただひたすら白に覆われている。夢の中よりもずっと寒い。
まだ、ナルシェだ。それを悟って、椎子は安堵した。