15
「シイコ殿、気が付かれたか!」目を開けてはいても、意識はいまだどこかを漂っていたらしい。椎子はその音を聞いて、それが言葉であることをすぐには認識できなかった。
「……カイエンさん?」
かなりの時間を要して自分を見下ろしている顔を認めると、がばっと跳ね起きる。
「カイエンさん! 私、あの、さっきはごめんなさい! カイエンさんの気持ちも考えないで言い過ぎてしまって――」
一気にまくし立てた。あんな夢を見た後であるのと、まだ現実感が戻っていないこともあって、今すぐにでもそうでもしないとそのまま一生伝えられなくなってしまうような気がしたのだ。
カイエンは目を丸くして、しかしすぐに破顔した。
「……シイコ殿は、決して間違ったことは言っておらぬ。拙者の方こそ、怪我なぞ負わせてしまって申し訳なかった」
「カイエンさん……」
無骨な手が、とても優しい仕草で頭の上に置かれる。カイエンは憑き物が落ちたような様子だった。椎子のいない間に、マッシュと――ことによるとセリスやティナとも――何かやりとりあったのだろう。カイエンとこんなに穏やかに言葉を交わすのは随分久しいように思えて、椎子は感極まった。
――と、
「シイコ!」
「わあー!?」
いきなり誰かに飛びつかれて、再び雪の中に倒れ込む。しかも勢い余ったのか、飛びつかれた拍子に頭突きまでかまされた。むちゃくちゃに痛かった。泣いた。
誰か、と言ってもこんな振る舞いをしてくる人物の心当たりは一人しかいない。
「こ、これ、ガウ殿!」
カイエンが慌てて、声も出せずに悶えている椎子からガウを引き剥がす。ガウはカイエンに引っ張られながらも、にこにこして弾んだ声を上げた。
「おいら、ちゃんとできたぞ! シイコのいうとおり、できた!」
「え……」
椎子はまだ潤んでいる目をぱちくりとさせた。ぐらぐらする頭を押さえながら起き上がる。それからようやくガウとの別れ際の会話を思い出して、頷いた。
「あ、ああ、そっか、そうだったね。ありがと、ガウくん。えらいえらい」
「えらい! ガウえらい!」
「うん、でもこれからはもっと普通に声をかけてほしいなー……ってもう聞いてないね」
褒められて喜び跳ねるガウの姿は微笑ましかったが、椎子はがっくりとして地面に手をついた。こっちは涙が出るほど痛いのに、どうして本人はぴんぴんしているのだろう。
「シイコ殿、大丈夫でござるか?」
「うう……はい、すみません……」
カイエンが苦笑いしながら椎子に手を差し出してくれ、椎子はその手に掴まって立ち上がった。
先程は雪原しか視界に入らなかったが、あちこちには灰色の大きな岩が聳えていた。カイエンやガウがいるということは、ここが谷の頂上なのだろうか。雪の上に散った足跡や転がっている武器の類など、たくさんの戦いの跡を見つけて、どきりとする。
「ケフカ、は――帝国軍は?」
はたとそのことが思い浮かんで、椎子は不安げな面持ちで問を口にした。何故その疑問がまっさきに浮かんでこなかったのだろう。あるいはあの時感じた怖ろしさから、一連の出来事を意識の外に追いやってしまっていたのかもしれなかった。
カイエンが労わるように応じる。
「そのような顔をされるな。奴はもうナルシェにはおらぬよ」
「それって……」
「――連中、劣勢になった途端に退却しちまったんだ」
別の声が、カイエンの言葉を継いだ。
マッシュだ。マッシュは椎子たちの元へやって来ると、真っ先にガウを捕まえて、軽いげんこつを喰らわせた。
「こら、ガウ、まだ敵が潜んでいるかもしれないんだから、一人で行っちまったら駄目だろ」
「ガウー!」
マッシュはそのままずるずるとガウを引きずって、椎子の前に立った。マッシュが厳しい顔をしているのを見て、椎子は小さくなる。
「危ないところだったんだぞ、シイコ。ケフカの奴、いつでも魔法で逃げられたんだからな。もう少しシイコを助け出すのが遅れていたらどうなっていたか……」
「はい……ごめんなさい」
返す言葉もない。しゅんとしていると、からっと明るい声が降ってきた。
「ま、シイコのおかげでみんな助かったんだけどな。――無事でよかった」
最後の言葉は、思いがけず優しい響きをしていた。顔を上げると、マッシュは笑顔を浮かべている。それを目にした瞬間、堰を切ったように、それまでの緊張や安堵や、他の何やかやがごちゃごちゃに混じったものがどっと溢れてきて、どうしようもなくなってしまった。
「シイコ、なんでなく? どこか痛いのか?」
マッシュの腕にぶら下がったままのガウが、不思議そうに聞いてくる。椎子はハッとして自分の頬に触れた。
「な、泣いてないよ。うん、まだ全然泣いてない」
目から零れないうちはセーフのはずだ、と心の中で意味のない言い訳しながら目元を拭う。
「ウ? ほんとか?」
「ほんとです。これは、あ、汗……かも」
椎子がしどろもどろに答えていると、マッシュとカイエンが声を上げて笑った。
「じゃあシイコが泣き止んだらみんなのところに戻るか」
「そうでござるな」
「だっ、だから、泣いてませんってばー!」
必死で否定するほど、笑い声は増すばかりだった。
両脇に岩が並んで小道のようになっている場所を抜けると、少しばかり開けたところに出た。そこには、すでにリターナーの皆が集まっている。
一番に椎子たちに気付いたセリスが声を上げた。
「シイコ。スリプルの効果が切れたのか」
「スリプル?」
聞き慣れない単語に、椎子はきょとんとして首を傾げる。すると、こちらへ歩み寄ってきながらティナが言った。
「シイコは魔法で眠らされていたの。……どこも、悪いところはない?」
ティナは椎子の肩に右手を置いて、顔を覗き込むようにした。そう言われると少し頭が重いような気がするが、あえて主張するほどでもない。椎子は頷いた。
「えと、大丈夫です」
「そう、よかった。無理はしないでね」
「はい。ありがとうございます」
控え目に笑いかけてくれるティナに、椎子は笑顔で返した。
それぞれの姿からいくらか疲労の色が窺えたが、それでも大きな怪我を負っているような者はいないようだった。改めて周囲を見回して、椎子は胸を撫で下ろした。
だが一人、ロックの姿が見えない。ちょうどそのことに気付いた時に、椎子がやって来たのとは反対側の道からロックが駆け戻ってきた。その場の皆に聞こえるような大きな声で告げる。
「帝国兵は完全に撤退したようだぜ。伏兵の類もいないみたいだ」
その報告を聞いて、エドガーが難しい顔で口元に手をやった。
「奴にしてはあっさり引いたな。何か、企みがあるのかもしれない」
「何だよ、企みって?」
ロックが訝しげに聞き返すと、エドガーは首を振った。
「いや――憶測で物を言うものではないな。すまないね、シイコ。脅かすつもりはなかったんだ」
それから、椎子に穏やかな微笑を向ける。椎子がケフカとの対峙を思い出して顔を青ざめさせたのを、エドガーは別の意味に取ったようだった。
「い、いえ、私は……」
言葉に詰まる。
……あの時のことを、何かしら皆に伝えておいた方がいいのだろうか。しかし、一体何と言えばいいのだろう。わからない。
「皆揃ったか。無事で何よりじゃ」
リターナーの指導者であるバナン老人の一声が聞こえて、椎子は一旦思考を中断させた。
「シイコ、これ着てろよ」
皆で谷の頂上へ向かう途中に、マッシュにコートを頭から被らせられた。
「わ、え、でもこれ、マッシュさんは……?」
前が見えなくなったので慌てて顔を出して、マッシュを見やる。椎子のコートはこのままでは使いものにならないだろう。だが、マッシュは下にいつもの修行着しか着ていないようだ。
「俺はいいんだよ。修行してるからな」
マッシュはくしゃっと笑って、半ば無理矢理にコートを押し付けた。
そうこうしているうちに目的地に着いてしまったので、結局礼を言って、そのまま着させてもらうことにする。
コートの袖に手を通しながら、椎子は皆の背中越しにそれを見上げた。
「氷漬けの幻獣は無事か……」
エドガーが溜息をついた。
椎子たちの前には大きな氷の塊がある。その中に、鳥のような爬虫類のような、わけのわからない生物が眠りについているようだった。薄気味悪い外見はまるでモンスターのようだ。
「生きているようでござるな」
カイエンが呻くように言った。なるほど、氷漬けなら通常は死んでいるはずだ。当たり前のことにようやく思い当たる。
それまであんぐりと口を開けて立ち尽くしていた椎子は、ふと小さな物音を耳に捉えて、周囲に視線を巡らした。
「あの、カイエンさん。変な音が聞こえませんか?」
「いや、拙者には何も聞こえぬが……」
しかし言葉を交わしている間も、音は絶え間なく続いている。テレビの砂嵐にも似ていて、聞いていると落ち着かない。
「……耳鳴りかなあ」
椎子が首を捻っていると、ロックの声がした。
「ティナ、どうした?」
「ティナさん?」
見ると、何やらティナの様子がおかしい。ティナは幻獣の方を見つめて体を震わせている。怯えているようだった。
「……っ?」
耳鳴りがひどくなって、眉を顰める――次の瞬間、辺りにまばゆい光が走った。
「いやあっ!」
ティナが悲鳴を上げて、頭を抱えた。
「わっ!?」
椎子はしりもちをついた。強い力で弾かれたような感覚だった。それはまるでティナの拒絶の声がそうさせたと思えるようなタイミングで――椎子はティナを見上げる。
光はまだ収まらない。その光源はティナだった。ティナの体が白い光を放っている。そして氷漬けの幻獣もまた、ティナと同じような光を纏っていた。
「ティナ!」
「まさか、幻獣と反応しているのか!?」
誰かの声が遠くに聞こえる。先程の力で、離れた場所まで吹き飛ばされてしまったのだろう。幻獣の前にいるのは椎子とティナだけだった。
ティナは周りの何もかもを忘れてしまったように幻獣に見入っている。
どうしてなのだろうか、椎子の胸の奥から、ざらざらとした焦りのようなものが噴き出してくる。今すぐにでも逃げ出してしまいたかった。耳鳴りが膨れ上がって聴覚を圧迫する。
「えっ? 今、何て――」
ティナが幻獣の方へふらふらと歩を進めていく。
「お願い、教えて! 私は誰? 誰なの?」
ティナと幻獣を包む光はどんどん強くなっていく。彼女は誰に向かって言葉を投げかけているのだろう。
椎子はただ呆然とそれを見守っていた。
怖い。――何が怖ろしいのかわからないのに、心が押し潰されてしまいそうだ。
「幻獣と会話を……?」
セリスの驚愕した呟きが耳に届く。
幻獣と、会話?
椎子は気付いた。耳の中で暴れ回っているノイズが、何かの声のようにも聞こえることに。何を言っているのかまでは聞き取れない。しかし、確かに誰かに語りかけているようだ。まさか、これが――
「ティナ! 幻獣から離れろ!」
エドガーが声を張り上げる。しかし、ティナには届いていない。
「ティナさん――」
椎子は意を決して立ち上がった。
どうしよう、怖い。
足を踏み出すだけで、もう心が挫けそうになる。ティナの体の内から、とてつもなく強大な力が溢れていくのがわかる。
――そうか。不意に、椎子は悟った。
ジュンの家で、彼女がずっと悲しそうにしていたのは、この力のせいだったのだ。
「ティナさん、そいつの言うことを聞いちゃ駄目です!」
椎子はティナに駆け寄って、その肩を掴んだ。バリッと音がして、触れた手に電流が走ったような痛みを覚える。
「シイコ殿! 近付いてはならぬ!」
椎子に向かって叫んだのはカイエンだ。それでも、どんなに危険でもティナを止めなくてはいけない。強くそう思った。
手の痛みを堪えて、ティナの肩を揺する。ティナは目の焦点が合っていない。椎子の声も聞こえていないようだった。きっと、彼女が聞いているのは幻獣の言葉だけだ。確信する。それが、この力の暴走を促しているに違いなかった。
「ティナさん!」
一際大きな、雷が落ちたような凄まじい音がして、椎子は吹き飛ばされた。雪の上を転がる。
光が強さを増すその中で、椎子は確かに、人ではない何かに変貌したティナの姿を見た。