16
ティナは恐ろしい勢いで空へ舞い上がると、しばらくは内からの力に振り回されるように谷の上空を何度も旋回していたが、やがて遠くの空へと飛び去っていってしまった。人でない姿、人ではありえない力。
光はいつの間にかすっかりおさまっており、氷漬けの幻獣は何事もなかったかのように再び沈黙している。
椎子はティナの消えた空の先をいつまでも眺めていた。
「――シイコ」
「は、はいっ」
反射的に返事をして、椎子は声の方を振り仰ぐ。エドガーだ。
「怪我はないかい?」
「あっ、はい、何ともないです」
深く積もった雪の上だったのが幸いして、派手に転がった割には何事もなくすんだようだ。すっくと立ち上がった椎子にエドガーは少し驚いた顔をしたが、それから微笑むと、椎子の髪についた雪を払ってくれた。
どうにもエドガーがする己の扱い方に慣れない椎子は、赤くなって俯いた。すみません、と口の中でもごもご呟いて、何か場を繋ぐ言葉がないか思案する。
「あの、ティナさんは」
その末についそう口にしてしまって、椎子はすぐさま後悔した。
果たして、あれは何だったのか――ここにいる誰も、その答えを持っているとは思えない。かと言って言いさしたままなのも気まずく、逡巡しながら結局思いついたこととは違うことを尋ねた。
「もう、戻ってこないんでしょうか」
ティナはどうなってしまったのだろう。あれほど圧倒されるような力を放出していたのに、今、谷のずっとずっと向こうに感じられるティナの気配はひどく希薄なものだ。
「……どうだろうね」
エドガーは彼にしては意外なほどに、けれどほんの僅かだけ沈んだ声で応じた。
もう一度、椎子は空を仰ぐ。
「シイコ、君は――」
「?」
椎子は視線を戻してエドガーを見やった。その時一瞬、自分を見つめる瞳に鋭い光が宿っているのを見た気がしたが――
「とにかく、街まで戻ろう。いつまでもこんなところにいては凍えてしまうよ」
瞬きの後には、エドガーはもうすでにいつもの優しい笑みを湛えていた。
谷を降りてジュンの家に戻ってきた椎子たちはその後、諸問題はさておき、めいめいに休息を取ることになった。吹き飛ばされた際に頭を強く打ちでもしたのか気を失っていたロックが、谷からずっと目を覚まさなかったのだ。今後の動向を話し合うのは、彼の回復を待ってからということになった。
椎子はとりたててすることもなく、しばらく外でガウの相手をして遊んでいたのだが、
「ガウくん、そろそろ戻らない?」
さすがにくたびれてきた。休憩しようよ、と提案したが、ガウの方は元気そのものだった。
「ガウ! おいら、休けいいらないぞ!」
「そ、そう? ほとんど不眠不休だよね、ガウくん……」
椎子は戻ってきてから少しベッドで休ませてもらったが、ガウはその間も遊んでいたはずである。獣ヶ原育ちのガウには雪が珍しいだろうから、それではしゃいでもいるのだろう。
「疲れたんなら休んでいいぞ、シイコ。ガウのことは俺に任せとけ」
途中から二人に加わっていたマッシュがそう言ってくれたので、それに甘えて椎子は一人屋内に引き戻った。
「お疲れでござった」
刀の手入れをしていたカイエンが、そう声をかけてきた。
「あはは。はい、先にばててしまいました」
振り返った部屋の窓からは、二人の遊んでいる姿がよく見えた。カイエンもここから椎子たちを眺めていたのかもしれない。
休む前にロックの様子を見ようと、彼が寝かせられている部屋に足を運ぶと、そこにはすでに先客がいた。
「セリスさん」
「……シイコか」
ベッドの脇の椅子に腰かけていたセリスが顔を上げる。
「あ、さっきはすみません。セリスさんも疲れてるのに、ありがとうございました」
「いや、あれくらい構わない」
セリスには戻って早々に頼み込んで、あの負傷したガードにケアルをかけてもらったのだ。セリスが快く引き受けてくれたおかげで、命に別状はないとのことだった。
「ロックさんはまだ……?」
「ああ」
「そうですか……心配ですね」
肩を落とした椎子に、セリスは睫毛を伏せて、躊躇うような間を置いてから同意した。
「そうだな。こればかりは、魔法でもどうしようもない」
「…………」
椎子はそんなセリスを見つめて、その後にぽつりと尋ねた。
「セリスさんは……セリスさんも、魔法は嫌いですか?」
「何?」
「あ、えっと、何となく、そうなのかなって」
向けられた視線についうろたえてしまう。
ティナは自分が魔法を使えることに苦しんでいた。怖れもしていたように思う。セリスが彼女と同じように感じていたとしても少しも不思議ではないし、セリスの声音からは時々魔法――と言うよりは、その力を持つ自分――を厭っているような響きが滲んでいるような気がした。
「……好き嫌いの次元で考えたことはないな。この力は私から切って離せないものだ。魔導の力なくして今の私はなかった」
そう淡々と答えたセリスは一旦言葉を切って、椎子から視線を外した。
「それを忌まわしく思う時もあるが」
「そんな……」
椎子は胸が痛くなった。それは、セリス自身を否定する言葉そのものだ。椎子には、凛々しいセリスも自分の世界にはなかった魔法も、眩しいものに映るのに。
「セリスさんは、さっきだってガードさんを助けてくれたじゃないですか」
「だが、救ってきたばかりではない」
椎子は、ナルシェに来てすぐの、カイエンの激昂する様を思い出した。そうだ、セリスはあの時、大人しくカイエンの手にかかろうとしていたように見えた。
セリスは帝国軍の将軍だった。きっと椎子には想像のつかないような辛いできごとも経験してきたに違いない。それを椎子がどうこう言うのはおかしいのだろうか。それでも、セリスが自身をそんなふうに見ているということが、椎子には悲しかった。
「で、でもっ、助けたのは本当です。今までの嫌なこと全部、忘れてなんて言えません。でも、そればっかりじゃないって、いいこともあったんだって、知っていてほしいんです」
「シイコ……」
セリスは食い下がる椎子に戸惑っているようだった。
その時、ベッドの上のロックが呻き声を上げた。見ると、ロックが目を覚ましている。
「ロック!」
「……セリス? ここは……」
「まだ無理をしない方がいい」
起き上がろうとするロックを押しとどめているセリスに、
「私、皆さんを呼んできます!」
椎子はそう言って部屋を飛び出した。
「ティナはまるで幻獣のようだった……」
皆と一緒に部屋に戻ると、セリスのそんな言葉が耳に飛び込んできた。
ティナが幻獣?
幻獣という生き物が何なのか椎子にははっきりわからないが、ティナがあの氷漬けになっていたものと同じ存在とはとても思えない。いや、けれど、ティナがあの時放出した力は、あの幻獣のそれと確かに同種のものだったのも事実だ。
「ロック、気が付いたか」
椎子が考え込んでいる間にベッドの方へ歩み寄っていったエドガーが、安心したように言葉を投げかけた。
「ああ……」
対して、ロックは心の晴れない様子で応じる。ベッドから数歩下がって、セリスが報告のようにエドガーに告げた。
「大方は説明した。と言っても、私たちにわかっていることもそうはないが……」
「……ティナは、幻獣と何か関係があるのか?」
ロックがした問は誰もが抱いている疑問で、そして誰にも答えがわからないことだ。
エドガーはそう言う代わりに首を振ったが、しかし、と続ける。
「ティナに何かが起こったことだけは確かだ。ともかく、ティナを助け出そう」
その言葉にロックは何か吹っ切れたようで、そう告げられた途端にベッドから勢いよく飛び降りた。
「だったら、早く行こう! 俺は、ティナを守ると約束したんだ!」
椎子はぎょっとしてしまった。思わずセリスに目をやるが、セリスは複雑そうな面持ちで、それでも黙って聞いている。
「待て、ロック」
エドガーが溜息混じりに制止の声をかけた。
「帝国がまたナルシェを攻めて来ないとも限らないだろう?」
「バナン様はしばらくここに留まるってさ。その護衛も必要だよな」
マッシュが言い足したが、ロックはなおも声を荒らげる。
「だからって、ここでじっとしているわけにはいかない!」
「うむ……あの娘は助け出さなければならぬ」
真っ先に同意したのはカイエンだった。
「カイエン?」
意外な人物からの賛同に、ロックは驚きを隠さずに目を丸くした。
椎子も、びっくりしてカイエンを見る。すると、カイエンはこちらを向いて小さく首肯した。こんな時に不謹慎だが、じわじわと嬉しさが湧いてきてしまう。
そんな二人を制するような仕草をして、エドガーが言った。
「もちろんだ。だから、二手に分かれよう。片方がティナを助けに行き、残ったメンバーはナルシェを守るというわけだ」
「ティナを助けると言っても、当てはあるのか?」
セリスが思案顔でそう口にした。
「ああ、目撃者を探してみたが、どうやらティナはフィガロの西へ――」
「えっ!」
椎子はすっとんきょうな声を上げ、エドガーの言葉を遮ってしまった。慌てて口を押さえる。
「あ。す、すみません」
「いや――何か気付いたことがあったかい? シイコ」
「や、気付いたと言うか……」
全員の注目を集めてしまって、椎子はたじたじとなった。
「それって、意味ないんじゃないかなーって思っただけ、なんです、けど……」
「どういう意味かな?」
エドガーは怪訝そうにしているが、椎子にはエドガーの質問こそ首を傾げてしまうものだった。
おそらくそれほどに距離が離れているのだろう、ティナの気配はもう僅かにしか感じられない。それでも、椎子にはティナのいる方角をはっきり知ることができる。ティナはまだ力の暴走が続いているに違いなかったが、今は一定の場所に留まっているようだった。
「ティナさんはもう随分遠くにいるみたいだし、また移動するかもわからないんですから、目撃者ならもっと近くで探した方が二度手間にならないですみます……よね?」
エドガーがそんな無意味なことをするようにも思えないから、もしかして、自分が何か勘違いをしているだけなのだろうか。言いながらだんだん不安になってきて、自然と声も小さくなっていく。
エドガーが眉根を寄せた。
「……何だって?」
「え、だ、だからその、ティナさんのいる付近にも町があるんじゃないかと思うので、聞き込みならそこでした方が、と……」
周りの皆も、呆気に取られたようにしている。
やはり、エドガーの言葉の意味を汲めずに変なことを言ってしまったのだ。恥ずかしくていたたまれなくなってきた頃に、マッシュが呟くように漏らした。
「シイコ、まさか、ティナの居場所がわかるのか?」
「はあ……」
間抜けな返事をした後に、椎子は何度か瞬きをする。それからようやく、マッシュの言わんとすることを悟った。
「え? マッシュさん、わからないんですか?」
「…………」
しばらくその場を支配した沈黙を一番に破ったのは、血相を変えたロックだった。
「な、何でそれを早く言わないんだ!?」
「ええっ!? だ、だって、あれっ? てっきり皆さんもそうだとばかり――えっ、わかるのって私だけなんですか!?」
「当たり前だろ! 離れた人間がどこにいるのか、どうやったらわかるんだ!?」
指摘されて初めて自分の感覚のおかしさに気が付いた。そう、そんなことできるはずがない。
「そ、そう言われるとそうですよね……」
「おいおい」
神妙に肯定すると、ロックに呆れ顔をされてしまった。
「ティナのいるところがわかるというのは、どうやって?」
セリスが尋ねてくる。
「どうやって……ふつうに、わかります。あの、たぶん、ティナさんの力の気配みたいなものが」
口で説明するのは難しい。そこの椅子が何故目に見えているのかと問われているのと同じだ。そんなふうに意識して感じ取っていたのではなかったので、まったく不自然に思わなかったのだ。
その時、それまで真剣な顔つきで考え込んでいたエドガーが、口を開いた。
「何故それが感じ取れるのかはわからないんだね?」
「……はい」
頷いた椎子を幾秒か見つめてから、エドガーは言った。
「シイコ。我々に――ティナを助け出すのに、協力してもらえないだろうか?」
「私が……ですか?」
言って、椎子はエドガーを見上げる。
「そうだ。ロックの言うとおり、私たちにはティナの居場所を感知できない」
「――兄貴」
マッシュが椎子たちの間に割って入った。
「シイコはリターナーに入ったわけじゃないんだ」
「そういえば……迷子だと言っていたかな?」
「はい、実は……」
手短に、マッシュに助けられた経緯を説明する。エドガーは困惑した様子を見せた。
「……妙な話だ。そんな国は聞いたこともない」
「そうですか……」
椎子は落胆したが、もしかしたらケフカのいる帝国には元の世界に戻る方法があるかもしれない。だったら、リターナーの仲間になるのもそれを見つけるひとつの手だ。それに、ティナをこのままにもしておけない。
「あの、でも、私でよければ、お手伝いします」
「いいのか?」
「はい、構いません」
マッシュの念押しに、椎子は笑顔で頷いた。これまでの恩返しにもなる。やっと、自分にもできることが見つかったのだ。
「あ、けど私、戦ったりとか全然できませんけど……」
おそるおそる切り出すと、ロックが笑って椎子の背中を叩いた。
「何だ、そんなこと気にするなよ。心配するなって、俺が必ず守ってやる!」
「そ、それは……ありがとうございます」
一瞬、椎子は言葉に詰まってしまった。「守る」というのは、彼の口癖なのだろうか。とてもありがたいし、素直に嬉しい言葉だが、三人目はさすがにどうだろう。何とかセリスを振り返らないように堪えながら、椎子は思った。