21
雨に煙る視界の向こうに、ビルの群れが立ち並んでいる。文明レベルがよくわからない世界だなあ…などと椎子がそれらを眺めて懸命に気を紛らしているうちに、チョコボは次第に失速していった。足元の草むらが石畳に変わる頃になって、完全に停止する。
シャドウが無言で手綱から片手を放し、横座りしている椎子の体の前面が空く。降りろということなのだろう。今の体勢から早く解放されたいこともあって、椎子はえいやっとチョコボから飛び降りた。
濡れた石畳の上に着地する。降りると言うよりはほとんど滑り落ちるような格好だったので、スカートがめくれ上がってしまった。急いで裾を直すと、ちょうどその後にシャドウが降りてくる。
「場所はわかっているのか?」
「あ、はいっ」
とりあえず心臓に優しい距離が保たれたことで、椎子は胸を撫で下ろした。
ゾゾの街を見渡すが、何だか陰鬱な雰囲気が漂うところだ。よく見ると通りにはあちこちにゴミが散らばっているし、不揃いに並び立つビル群はどこか不気味で、くすんで見えた。霧のように纏わりつく雨のせいもあるかもしれない。
「あの向こうに見えるビルの上だと思うんですけど……」
ティナの気配を辿り、街の奥にある、ひときわ高いビルを指差す。場所はわかるが、ざっと見てもこの街の通りは少々入り組んでいるようで、まっすぐには辿り着けまい。
幸い、雨が降っているにもかかわらず、ちらほらと人の姿がある。
「私、誰かに道を聞いて――」
「聞かなくていい」
駆け出そうとした椎子を、シャドウが止めた。椎子はきょとんとしてシャドウを仰ぐ。
「シャドウさん、道がわかるんですか?」
「さあな」
「……ええと」
返答に困って、後ろのインターセプターを見やる。インターセプターは注がれる視線に気付いて椎子を見上げてくるが、当然助け舟を出してはくれなかった。
「必要なら、その時は俺が聞く。お前は口を利かなくていい」
「はあ……」
よくわからないけれどもシャドウがそう言うのなら、それなりの理由があることなのだろう。シャドウが先導するように歩いていくので、椎子はインターセプターと一緒にその後をついていった。
奥に進むにつれ、ゾゾは陰気な様相を増した。道端に座り込んでいる人もいれば、ゴミに紛れてモンスターらしきものの死骸が転がってもいる。椎子は途中で何度も眉を顰めたが、しばらくして目的のビルの下に出た時には、
「あっ、ここだ!」
と、知らず笑みが零れた。
二人と一匹で入口をくぐる。
ドアのところに看板がかかっていたから何かの店なのだろうか、外観に反して内装は小奇麗だ。少々手狭な部屋の中にはカウンターだけがあり、その横に階段が見える。
雨露を払いながらきょろきょろしていると、インターセプターの一鳴きが聞こえた――と、よそ見をしていたせいで椎子は前から来た人に思い切りぶつかってしまった。
「あいた! あ、す、すみません」
ぶつかったのは身の丈の大きな、いかつい男だ。ついでに失礼なことを言ってしまえば、分類するなら親切という枠には入りきれなそう人だった。男は椎子をじろりと見下ろす。
ヒヤッとした瞬間、横から肩を掴まれた。――シャドウだ。そのまま引き寄せられて、掴まれているのとは反対側の肩がシャドウの胸板に当たる。抱き寄せられたようになって、椎子は咄嗟に声も出なかった。
男はシャドウを見て、舌打ちだけして外へ出ていった。
「気を付けろ。行くぞ」
「は、はいっ!」
シャドウはさっさと階段の方へ歩き出す。椎子は溜息をついて、インターセプターの側にしゃがみこんだ。
「……ごめんね、インターセプター。せっかく教えてくれたのに」
インターセプターは椎子にちょっと目をくれ、椎子を促すように鼻先でシャドウを示した。
「あ、そうだね、行こっか」
椎子は立ち上がろうとし、しかし途中で真っ赤になって膝をついたまま動きを止めた。……さっきの出来事が、今更ながらに頭の中でリピートされたからだ。
「……もう駄目! 変な顔になる!」
椎子はわっと両手で顔を覆った。一体、今日はどういう日なのだ。
いつまでもそうしていると、インターセプターが頭を擦りつけてきた。何度かそうした後に、じっと椎子を見つめてくる。それが「元気出せよ」と言っているみたいに思え、椎子は感極まった。
「インターセプター……!」
インターセプターの首に抱きつく。インターセプターは嫌がりもせずに顔を擦り寄せる。トラウマと種族を超えた友情が成立した。
階段の半ばくらいから、シャドウが呆れたように声をかけてくる。
「……おい」
「はい! す、すぐ行きます! 行こっ、インターセプター」
飛び上がるように立ち上がり、椎子は急いで階段に向かった。
建物の外側に出て、鉄骨階段を上っていく。しかし半分ほどまでやって来たところで、通路が塞がっている場所に出くわしてしまった。
「あれ? 行き止まりですね」
手すりから乗り出して上を見上げてみる。ここは行き止まりではあるものの、階段はまだまだ上へと続いているようだ。
「どうしましょう、シャドウさ……」
シャドウを振り返ったが、彼はどこかをじっと見ていた。
視線の先を追う。ここのすぐ隣、せいいっぱい身を乗り出して手を伸ばせば届きそうな先にもビルが立っているのだが、上の方の階で、人が手すりからもう一方の手すりへ、ビルからビルへと飛び移っている姿があった。
視線を戻すと、シャドウと目が合った。その意を悟って、椎子は青ざめる。
「いやいやいや、ないですよ。ないですよねっ?」
「……バレンの滝や蛇の道を泳いで渡るよりは、楽だと思うがな」
「そ、それはそれです!」
椎子が一生懸命否定するうちにも、シャドウはあちこちの手すりの強度を確かめたりしている。
「この上によじ登るという手もある」
シャドウは上を指した。確かに、手すりの上に立って伸び上がれば、行き止まりの先にある階段の縁に手が届くかもしれない。椎子はもう一度手すりから上を仰ぎ、次いで下を見てひええと情けない声を漏らした。
シャドウが手すりを掴んで揺すると、ガタガタと不吉な音が鳴る。
「これでは足場にはならんな。向こうから飛ぶぞ」
「あっ、シャドウさん!」
言うなり、シャドウは素早く隣のビルへと飛び移った。インターセプターも、楽々とそれに倣う。
「来い」
飛び移った先で、シャドウはこちらを振り返り、手を差し出してくる。
椎子はうっと言葉を詰まらせたが……長く躊躇した末に、やがて意を決して、助走をつけてシャドウがやったようにビルの谷間をジャンプした。シャドウが敏速な動きで椎子の体を引き上げるようにしたのに助けられて、何とかうまく飛び移ることができた。
背後の飛び越えた距離を目で確かめて、椎子はほっと笑顔を浮かべた。
「や……やったあ! 飛べました!」
「……そうだな」
シャドウは椎子を自分の足で立たせると、頷いた。
「次もその調子で頼む」
「へっ? 次?」
よく見ると、ここにはのぼりの階段もくだりの階段もない。そしてこのビルの反対側には、また別のビルがある。つまり、向こうのビルの谷間にも飛び移っていかなければ、先へは進めないのだ。……元のビルへ戻らなければいけないことも考えると、何度これを繰り返す必要があるのだろうか。
「が、がんばります……」
椎子は笑みを引き攣らせて答えた。
そんなこんなで、最上階に着く頃には、椎子はすっかりぼろぼろになってしまった。階段を上るのにも、ほとんど手すりに縋りついているような有様だ。
階段の途中で、シャドウが足を止める。シャドウと椎子の間には十何段もの開きがあった。
「……おい、大丈夫か」
「は……はい……あっ!」
雨に濡れた手すりから、手が滑った。慌てて掴み直すが、上体だけが後ろに傾いで、今にも転がり落ちてしまいそうな妙な体勢になってしまった。
助けようとしてか、インターセプターが後ろからぐいぐいお尻を押し上げてくれる。もっとバランスが危うくなった。
「インターセプター! き、気持ちは嬉しいけど、それ逆効果だから! 落ちる落ちる!」
大騒ぎしているところを、溜息をつかれつつも結局シャドウに手を貸してもらった。
何とか階段を上りきって、最上階にある部屋の前に立つ。ドアの奥から、はっきりとティナの気配を感じる。それと、もうひとつ。
……もうひとつ?
ドアの前で椎子が首を捻っていると、不意にシャドウが言った。
「俺は、ここまでだな」
「えっ!!」
椎子はものすごい勢いで首を巡らして、シャドウを見やる。その反応に、シャドウは意表を突かれたようだった。
「……お前をここまで連れて来るのが、俺の仕事だったはずだが」
「え……っと、それは、そうですが」
そうだ。だから椎子がみんなと合流してしまえば、そこでシャドウとはお別れなのだ。今までそのことに少しも思い及ばなかった椎子は、しどろもどろに続ける。
「あの、ここまでじゃなくて、ここから帰るまで、とか……駄目ですか?」
シャドウはしばらくの間押し黙り、それから言った。
「……高くつくぞ」
「でも、ツケが効くんですよね」
「…………」
……しまった。何とも不遜なことを口にしてしまった。
沈黙に耐えきれず、慌てて取り繕う。
「もしシャドウさんの都合がつけばで、その、無理強いするつもりは……」
「わかった」
「いいんですか!?」
シャドウが短く頷いたので、椎子はびっくりしてシャドウを振り仰いだ。
「お前が言い出したのだろう。俺にツケを強いたのは、お前が初めてだ」
覆面の奥で、シャドウはちょっと笑ったようだった。
「うっ……す、すみません」
うなだれる椎子。気を取り直して、ドアに向き直りノブを回す。
中は、思っていたよりも随分と広いようだ。紫の絨毯が、ずっと奥まで続いている。
椎子は部屋の中に足を踏み入れようとして、けれどシャドウがその場から動く様子がないのに気付いて、そちらに目をやった。
「シャドウさん?」
名を呼ばれたシャドウは、首を横に振る。
「お前たちの事情に、必要以上に関わるつもりはない」
「あ、えっと……」
「……雇われた以上は、待っていてやるさ」
椎子が言葉を継げないでいると、そんな応えが返ってきた。いつもよりも、硬質さの抜けた声。それだけでこんなに嬉しいのは、何故だろうか。
「は、はいっ。それじゃ、少し待っていてください。インターセプターもね」
椎子はドアを開けて中に入った。
絨毯に沿って奥に進んでいくうちに、数人の話し声が聞こえてくる。奥は少し開けた空間になっていて、ロックやセリス、エドガーの姿があった。そしてその傍らで、見知らぬ老人が椅子にかけている。
ティナともうひとつ、先程感じた気配はこの老人のものだ。椎子は直感した。しかし、肝心のティナは……気配を感じるが、姿が見えない。
「――シイコ!?」
その時、ロックが椎子を見つけて声を上げた。皆の目が椎子に向く。それから真っ先に駆け寄って来てくれたのは、セリスだ。
「シイコ。体の方は、もういいの?」
「はい! もうすっかり大丈夫です。ご心配をおかけしました」
「ここまでは、シャドウが?」
椎子はその問にも「はい」と応じた。
「今は……外で待っていてもらってます」
「ああ、その方がいい」
椎子の歯切れが悪い返答をどう受け取ったのか、エドガーは軽く頷いた。
「彼自身、リターナーの側に身を置くのは難しいだろうし、身内でない者にあまり詳しいことを知られては、我々の方も困るからね」
なるほど……シャドウが先程ああ言ったのは、そういう理由からだったのかもしれない。
ふと、椎子は唸り声のようなものを聞きつけた。
「あっ――ティナさん!」
部屋の中央に置かれたベッドの上に、いまだ変化したままのティナが眠っている。さっきは皆の陰になっていて、見つけられなかったのだ。
ナルシェからここまで、遠かったが、やっと辿り着くことができた。安堵しつつ、椎子は今度は老人の方に顔を向けた。
「あのう、そちらは……」
「私はラムウ。幻獣じゃ」
老人が口を開く。椎子は慌てふためいて、頭を下げた。
「あ、あの、椎子です。……えっ、あの、幻獣?」
「ラムウは、ここでティナを守ってくれていたんだ」
目を白黒させている椎子に、ロックがかいつまんで説明してくれた。
千年前の魔大戦。戦争が終結した後、再び力を利用されることを恐れ、異世界へ移り住んだ幻獣たちのこと。
かつて帝国が行った幻獣狩り。ラムウはかろうじて逃れたものの、今も帝国の魔導研究所に幻獣たちが捕らえられていること。
幻獣に近しい存在のティナ。ティナが自身の存在への不安に打ち勝たないかぎり、元の姿には戻れないだろうということ。ティナを助けるのに捕われの幻獣の力を借りるため、皆は帝国に乗り込むつもりだということ。
話の間にも、ラムウはじっと椎子を見ている。そしてロックが話を終えると、こう問うた。
「お主、人間か?」
そんなことを聞かれたのは生まれて初めてで、椎子はぽかんとしてしまった。
「は、はあ。一応、生まれた時から人間をやってますけど……」
「ふむ」
ラムウは、床まで届きそうに長い髭を撫でつける。
「しかし――この世界の住人ではあるまい」
椎子は息を呑んだ。
他の三人が、不思議そうに顔を見合わせている。
……皆に打ち明けるなら、今、このタイミングしかないのではないか。そう思った椎子は、口に溜まった唾を飲み込んだ。心を決めて、告げる。
「そう……です。私、こことは違う世界から来ました」
「なんだって? どういうことだ?」
「たぶん、なんですけど……」
制服の胸元を握りしめ、言葉を継ぐ。
「帝国……ケフカは、幻獣の世界への入口を作ろうとして、間違って私の住んでいた世界に入口を開けてしまったんだと思います。その入口から、私はこの世界に来て……その後、どうしてかレテ川まで飛ばされちゃって、マッシュさんに拾ってもらったんです。今まで、黙っていてすみませんでした」
「……シイコ」
最後まで言い終えて深く息を吐くと、セリスが気遣わしげに椎子の背に手を当てて支えてくれた。
エドガーが眉根を寄せる。
「そうだったのか……魔法が使えたのは、異世界の人間だからということなのかな?」
「いえ、それは本当にわからなくて。私の世界には、魔法なんてないし……」
「……お主からは、ヴァリガルマンダの力を感じるな」
ぽつりと、ラムウは呟いた。かつてなく長い横文字に椎子はたじろぐ。
「ば、ばる」
「ヴァリガルマンダじゃ」
「バリ……」
紙か何かに書いてもらわないと、一生正しい音を口にできそうにない。
「あやつは魔大戦の折から、ナルシェに封じられておったはずじゃが」
ナルシェに封じられていた――幻獣。
「ナルシェの……氷漬けの幻獣か!」
「ティナがあの幻獣と共鳴したのと同じように、シイコにも何かが起こったと?」
皆がそれぞれ反応を示すのを横目に、ラムウは椎子に向け、深い皺が刻まれた手を差し出した。
「シイコと言ったかの。手を」
「あ、はい――わっ!」
ラムウの手を取ろうとした瞬間、火花が散った。驚いて手を引っ込める。痛みはなかったが、ナルシェのあの谷の上でティナに触れた時に起きた現象とそっくりだ。
「……今のは?」
「どうやらお主は、魔導の力に影響されやすい体質のようじゃ。この世界の人間とは、比べものにならぬほどにな」
「それじゃ、魔法が使えたのは……」
「お主が特別そうなのか、お主のいた世界の住人の皆がそうなのかはわからぬが……おそらくヴァリガルマンダと接触した時に、あれの魔導の力をいくらか得てしまったのだろう」
椎子のいた世界――
「あの!」
椎子は思わず大きな声を上げた。この老人なら、もしかしたら、椎子がずっと探していた答えを持っているかもしれないと思いついたのだ。
「私、元の世界に帰りたいんです。どうすれば帰れるか、知りませんか?」
ラムウは髭を撫でながら、しばらく何かを考えるようにしていた。
やがて、椎子の縋るような視線を受け、静かに言った。
「砂漠の砂の一粒を拾い上げることは容易だが、それを元の場所に返すのは、不可能に近い……」
「おい、爺さん! じゃあ、シイコは」
もどかしさを振り払うように、ロックが声を荒らげる。
椎子は束の間、呼吸の仕方を忘れてしまっていた。ラムウの言葉の言い表すところ。それは、つまり……喉を引き攣らせながら、声を吐き出す。
「……帰れない……?」
ひどく震えた、掠れた声だった。
足を着けている床がぐらぐら揺れているような気がする。ずっと背中に当てられていたセリスの手に、力がこもるのがわかった。
「シイコ」
「わ、私……あの、ごめんなさい。私、少し外に出てます」
引きとめられる前にと、椎子は足を動かしていた。この場で泣き崩れるわけにはいかない――そうできれば、どんなにか楽だっただろうけど――使命感めいた思いだけに突き動かされて、部屋を出る。
途端に、湿った空気が椎子を包んだ。外はまだ雨が降り続いている。薄暗い。その暗がりに溶け込むように、黒装束のシャドウが立っている。
――そうだった。シャドウを待たせていたのだ。
「……どうした?」
「あ、ええと……」
様子がおかしいのに気付いたのか、シャドウの声は怪訝そうだ。
椎子は笑ったが、うまくそうできたのかはわからなかった。
「私が……元の世界に、か、帰るのは、不可能だって、言われてしまいました」
シャドウは何も言わない。
近くの手すりに両手をかけて、手の甲に額を押しつける。雨粒が椎子の頭を叩いた。
いつか、帰れる。見知らぬ世界に放り出されて、けれど手を差し伸べてくれる人に出会って、だから、何の根拠もなくそう信じていられたのかもしれない。あるいは最初の頃からそうだったように、不安に蓋をして、目を逸らし続けていたのか。どちらにせよ、これまで自分を騙し騙しやってきたのに。
シャドウが側までやって来て、椎子の頭に手のひらを乗せた。
「シイコ」
……こんな時に、名前を呼ばないでほしい。せっかく堪えていたものが、堰を切って溢れてきてしまう。
「帰りたい。帰りたいよ……」
シャドウの手はまだ離れない。
雨の冷たさが、その手の温もりが、これが現実なのだと椎子に知らしめているようで、椎子はいっそう悲しくなった。