22

 雨のおかげで頭も冷えたのか、いくらか落ち着いてきた。
 面を上げるのと同時に、頭の上にあった手のひらの感触も離れていく。何だか、名残惜しい。早々に顔を上げてしまったことにちょっとだけ後悔を覚えながら、椎子はシャドウに向き直った。
「あの、シャドウさん。お騒がせしました……」
 頭を下げると、シャドウは軽く頷いてみせただけだった。
「えっと。私、戻りますね」
 あんなふうに飛び出して、皆を無用に心配させてしまったに違いない。明らかに泣き腫らした顔をしているだろうから、このまま戻るのはなかなか勇気が要るが、いつまでもこうして外に出ているわけにもいかなかった。
 椎子がおずおずとドアをくぐろうとするのに、今度はシャドウも後に続いた。
 関わるつもりはないと言っていたのに、いいのだろうか。
 ちらりとシャドウを振り返ったが、シャドウは無言である。椎子も、わざわざその疑問を口にはしなかった。そう尋ねることで、シャドウが気を変えてしまうことが怖かったのだ。エドガーの言葉も踏まえれば、むしろリターナーの事情から彼を遠ざけておくべきで、なのに、ついてきてもらいたいという気持ちがある。
 私って、みんなに甘えっぱなしだなあ……
 と自省しつつも、結局は甘えてしまう椎子だった。
 屋内に入ると、奥の間まで行かずとも、皆がそこに集まっていた。
シイコ
「あっ、セリスさん、……へぷしっ」
 こちらを見て悲しげに眉根を寄せたセリスに、何か声をかけようとしたが、その前にくしゃみが出た。
 ……場の空気をぶち壊しである。椎子は居たたまれなさに回れ右をしたくなったが、けれどセリスは安堵したような、気が抜けたような表情になって、ふっと笑った。
「こんなに濡れてしまって……風邪を引く。一度、ジドールへ戻りましょう」
「は、はい。あ、でも、ティナさんはどうするんですか?」
「この部屋には、ラムウの魔力が残っているから。しばらくの間は、悪意を持つ人間は近寄れないと思う」
 セリスの言いように、椎子は引っかかるものを感じた。横から、ロックが口を挟む。
「でも、だからってティナを一人で残すのはちょっと心配だよなあ」
「我々がここにいたところで、ティナは救えない。ラムウの助言どおり、魔導研究所へ……」
 言いさしたエドガーが、椎子の後ろにいるシャドウを見やった。
 シャドウは最初の「関わらない」という言を実行するためかドアの横の壁に背を預け、インターセプターとともに椎子たちから離れていたのだが、エドガーの視線までは完全に無視しきれなかったようで億劫そうに返事をした。
「……他言はしない」
「そうしてもらえると、助かるね」
 椎子はそのやりとりをよそに部屋の中を見回した。
 いまだ変化した姿のままのティナが眠るベッド――その傍らの、先程まで部屋の主が腰かけていた空いた椅子。それに意識を向けて、ようやく先の違和感の正体に気付く。
「ラムウさんは?」
 尋ねると、急に皆が口を噤んだ。
 ややあって、セリスが椎子に右手を差し出す。
シイコ。これを」
 セリスは、握っていた手を開いてみせた。手のひらの上に、ティナの容姿を思い起こさせるような、深い緑色をした大きな石が乗っている。椎子はわけがわからずに瞬きをしたが、セリスはじっと動かない。
「はあ、えっと……あ!」
 怪訝に思いながらも石を受け取ると、途端、石が輝きを帯びた。
 ナルシェで氷漬けの幻獣が見せたような、けれどもっとずっと小さな光。椎子が目を丸くしているうちに、光は椎子の手に吸い込まれるようにして消えてしまった。
「……これ、は?」
 そう問いかけはしたものの、椎子はすでに自分が答えを察しているような気がしてならなかった。その石から、ラムウが発していた魔導の力を感じるのだ。もしかして――
「魔石というものだそうだ。幻獣が死す時、力のみを残したもの」
「死すって……そ、それじゃ、ラムウさんは」
「自分の命と引き換えに、私たちに力を与えると……」
 途中で言葉を切り、セリスは睫毛を伏せる。椎子も、手の中の魔石に目を落とした。
 リターナーに力を貸すために――帝国の暴走を止めるために、ラムウは自らの命を犠牲にしたということだ。そして、それは何よりきっと、いまだ帝国に捕らわれているという彼の仲間を救うための行動だったのだろう。
 しかし、今の光は? 見上げれば、セリスは椎子の視線を受け止めて、頷く。
シイコは魔導の力の影響を受けやすい体質なのだと、ラムウは言っていた。魔石にも、同じことが言えるのかもしれない」
「…………」
 魔導の力……
 ぎゅっと魔石を握りしめると、それはどこかほのあたたかい感じがした。
 ラムウは、椎子の身に起きたことを説明してくれた。あの時どうして椎子が魔法を使えたのか。それは、椎子の不安の大きなひとつを解消してくれはしたけれど……
 打ち沈む椎子に、ロックが告げた。
「とにかく、一旦はジドールへ戻るとして、俺たちはそれから帝国に乗り込む」
「あ、はい……」
「危険だからな、シイコはナルシェに戻ってくれ。ナルシェまで、シャドウをまた雇ってもいいし……」
 ぼんやり話を聞いていた椎子は驚いて、弾かれたように顔を上げ、ロックを見つめた。椎子のその反応に、逆にロックが驚いた顔をする。
「な、何だ? 驚くところか、今の」
「いえ、そ、そうです……よね」
 もともと椎子がこの旅に同行したのは、椎子がティナの気配を探れるという理由からだったのだ。こうしてティナが見つかった今、椎子の役目はなくなったも同然だ。
 でも。
 今の思いつきを口してもいいものか、椎子は迷った。果たして、それが皆に受け入れられるかどうか。いや、椎子自身に、その覚悟があるのか――この世界にやって来て、大変なこともたくさんあった。でも、レテ川からナルシェまで無事に旅を終えられたし、帝国軍のナルシェ侵攻も乗り切ったし、ティナも見つけられた。もちろんそれは椎子だけの力ではないけれど、それでも。
「あの、帝国まで、私も一緒に行かせてください!」
 椎子が突然そう言い出したことに、ロックばかりではなく、他の皆も戸惑いを見せた。
シイコ? 何を言って……」
「無理を言ってることはわかってます。でも……っ」
 魔導研究所。それはおそらく、ケフカとの出会いで思い出した、あの場所に違いない。椎子が学校で真っ暗な穴の中に落ち、そうして辿り着いた場所。ラムウは不可能だと言ったけれど……もし千に一つ、砂漠の砂の中から目的の一粒を見つけ出すような確率であったとしても、椎子が帰るための手がかりがこの世界に存在するのだとしたら。
 あそこをおいて、他にはない。
 椎子は、考えた洗いざらいを打ち明けた。
「……わかった」
 話を聞き終えて、エドガーが静かに頷く。「エドガー、それは……」他の二人が言いかけたのを片手を挙げて制すると、ただし、と人差し指を立ててみせた。
「帝国に乗り込むにも、今からすぐにというわけにはいかない。準備が必要だからね。その間に、最低でも自分の身を守れるようになること。これがシイコを連れていく条件だ」
「自分の身を守れるように……」
 エドガーの言葉を繰り返し、椎子は呟いた。
 彼の言うことももっともだが、準備と言ったって、何ヶ月もかかるものとは思えない。そんなに短期間で力をつけるなど、果たして椎子にできることだろうか……椎子の懸念を、しかしエドガーは読み取ったらしい。
「今なら、魔石がある。魔石を使って、魔法を使いこなせるようになればいい」
「あっ、そっか、そうですねっ」
 そう言われると希望が湧いてきて、魔石を握る手にも自然と力がこもる。魔法の一撃で、あんな大きなモンスターだって倒すことができたのだ。訓練して、うまく扱えるようになれば、椎子も皆と一緒に戦えるかもしれない。
「でもそれは、帝国とリターナーとの争いに身を投じるということだよ。わかるかい?」
「え……えっと……」
「今ならまだ引き返すこともできる。魔法を自由に操れるようになって――その後で、もし帰る手段が見つからなかったら」
 帰れなかったら。椎子はビクリと肩を震わせた。構わずにエドガーは続ける。
「この先、この世界での平穏な生活は、望めないだろう」
 エドガーの声は静かに、けれど強い響きを以て、椎子の耳に届いた。
 殺気だった兵隊たち。ケフカの狂気じみた笑い声。
 ナルシェで体験した死の恐怖を、椎子は思い出す。それは、もっと早くに覚悟しておかなければいけないことだったのだろう。ティナを探し出すのに、リターナーの仲間になることを決めた時。いや、もっと前、マッシュの旅についていくことを決めた時かもしれない。
「私は……」
 本来ならあの時に決めておくべきだった覚悟を、椎子は今、問われているのだ。
 椎子の答えを、エドガーは待っている。他の皆も。
 ……椎子は、後ろにひっそりといるはずのシャドウを思った。椎子が泣いた時にも、頭を撫でてくれる人がいる。そうだ、ナルシェで待つ、マッシュたちだって。今日までだってそうだったのだ、どんなことがあっても、きっと頑張れる。
「か、構いません。そうだとしても……帰る方法なんてなかったとしても、何もしないではいられないから」
 椎子はやっとのことで答えを出した。みっともなく声は震えてしまったが、それでもエドガーは優しく微笑んで、頷いてくれた。
「だったら、私が言うことは何もない。二人は?」
 エドガーが問うと、セリスとロックはもう反対はしなかった。
「……シイコが、そう決めたなら」
「そうだな。まあ、そう難しく考えるなよ。俺でよければ、何でも協力するからさ」
 さっき散々泣いたばかりだというのに、椎子はまた泣きそうになってしまった。セリスが、椎子の肩に手を置いて、そっと寄り添ってくれる。
「決まりだ――ジドールへ戻ろう。ティナを助けるために、シイコを元の世界へ帰すために」
 エドガーが言って、皆を促した。




 ジドールへ向かうには、当然ながらゾゾを出なければならない。
 ゾゾを出るにはこのビルを降りなければならず、このビルを降りるには――
「こ、これを……今度は降りるんですね……」
 椎子は果てしなく下へと続く鉄骨階段の先を眺めて、溜息をこぼした。もちろん来た時と同じように、さらには隣のビルへ飛び移ったりもしなければならないのだ。
 椎子の絶望の呟きに、皆の先頭を行くロックが、軽い足どりで階段を降りていきながら応えた。
「行きよりは楽なはずだぜ。もう少し下まで行けば、クレーンがある」
「クレーン!?」
 椎子は思わず手すりを掴み、前を歩くエドガーの横から顔を出した。クレーンを一体どのように使えば道行きが楽になると言うのだ。必死になって先頭のロックに訴える。
「ロックさん! クレーンっていうのは荷物を運ぶための機械なんですよっ移動の乗り物じゃないんですよっ!」
「わ、わかってるよ」
シイコ、危ないから……」
 手すりから半身を乗り出す格好になっている椎子の肩を、セリスが支えている。
 階段は一列になって通るしかない道幅になっているが、対して踊り場は少し空間が広い。そのうち最初の踊り場に着いた時、エドガーが歩みを緩めて椎子の隣に並んだ。
「今の話だが、シイコ
「あっ、はい、何ですか?」
 振り仰ぐ椎子に、エドガーは微笑む。
 その笑い方があまりに上品で優雅だったので、彼とのいざこざや気まずさなどすっかり吹き飛んで、椎子はドキッとしてしまった。そんな椎子の顔を覗き込み、手を取ると、エドガーはまるで内緒話をするみたいに囁いた。
「……怖いなら、私が抱きかかえて降りてあげようか?」
「え!? いえっ、遠慮させていた、ひえぇっ」
 言葉の途中からが情けない悲鳴に変わったのは、ヒュッと鋭い音を立て、椎子とエドガーの間を切り裂くものがあったからだ。エドガーが素早く椎子から手を離し、それはただ空を切るにとどまった。
 たった今振り下ろした、鞘に収まったままの長剣を腰に佩き直しながら、セリスが平然と言ってのける。
「すまない。手が滑ってしまった」
 どう手が滑れば、腰に佩いていた得物を振り回すに至るのか……半歩後ずさった姿勢から動けずに呆然としている椎子に向けて、柔らかく笑いかけるセリス。
「ごめんなさい、シイコ。怪我はしなかった?」
 その際にさりげなく立つ場所を入れ替わり、エドガーとの間に割って入ることも忘れない。椎子はあんぐりと口を開けたまま、何度も勢いよく首肯した。
「わっ、私は全然っ。エドガーさんは?」
「エドガー」
 椎子の問いかけを、セリスは遮った。椎子に向けたものとは打って変わって、冷ややかな声だ。硬いまなざしがエドガーを射る。
「あなたが口を滑らせると、私も手を滑らさざるを得ない。次は、抜き身でやる」
「……心するよ」
 エドガーは降参のポーズをした。
 椎子は、こわごわと二人の顔を見比べる。
 随分と物騒なやりとりにもかかわらず、コーリンゲンでの時のような雰囲気はそこにはない。今のも、大仰に驚いてしまった椎子と違って落ち着いているエドガーを見るに、セリスは本気で当てるつもりはなかったようだ(たぶん)。どうやら椎子がいない間に、エドガーとセリスの関係は、このような形に定まってしまったらしい。こういう仲も、喧嘩するほど……と言えるのだろうか。
 ふと、エドガーの足元に黒い何かが落ちているのを、椎子は見つけた。
 よくよく見てみると、手裏剣が刺さっている。手裏剣と言えばシャドウが武器として使っているものだ。
「…………」
 こっそりとシャドウの方を見やっても、少し離れて椎子たちの後をついてきている彼は、今の騒ぎなど知らぬふうでいる。
 ……気のせいかなあ。それとも手裏剣って、そこらに落ちていてもおかしくないくらいに流通しているのかも。そうでなくても、ごみごみした街だもんね。椎子は一人で納得した。
「おーい、何やってんだ?」
 こちらの出来事にまったく気付いていないようで、ロックが階下の方から大きな声を上げた。
「あっ、はーい、すぐ行きますっ」
 椎子も大きく返事をして、再び階段を降りていく。振り向くまではせずに後ろの様子を気にしてみたが、二人とも特に揉めることもなく歩みを再開したようだ。
 下の階で、ロックは皆が追いつくのを待っていた。
 ところが、様子がおかしい。椎子を見て何かを言いかけて、口を閉じ、次いで明後日の方を見やる。椎子が下まで降りきると、ロックはやはり目は逸らしたまま言った。
「……シイコシイコは先に行ってくれ」
「へ? あ、はい、わかりました」
 椎子は狐につままれたようになった。
 何で? 私が足を滑らせて転ぶとドミノ倒しになるから? ううん、でも、前から二番目だったし……椎子は心のうちで首を傾げる。まあ、それでも転んだら少なくともロックは潰れてしまうわけだが。さっきはそんなこと言われなかったのに、何だろう。
 そこまで考えて、椎子はハッと閃いてしまった。
 階段の下にいたロックと、上から降りてきた椎子。まさか。冷たい風に緩くはためいているスカートの裾をさっと押さえる。
「あの、も、もしかして……見……」
「ああ、その、何だ。見てはないからな、見ては」
「ロック……」
 椎子の後から降りてきたセリスが、つい今しがたエドガーに向けたのと同種のまなざしをロックに浴びせた。この男どもは、と眼が言外に語っている。
「わ、わざとじゃないんだ!」
 泡を食うロック。どちらかと言えば単なる椎子の不注意でありロックに非はありはしないのだが、彼にとって不運なことに、とてつもなく間が悪すぎた。
「ふうん。そう。言い訳はそれだけ」
「セリスさんっ、元はと言えば、私が注意していなかったからで……その、ロックさん、つ、つまらないものですが!」
「いやっ、つまらなくは……って、見てはないんだって!」
「つまらないなどと、そんなふうに自分を卑下してはいけないよ。女性はみな素晴らしいから」
「エドガーお前黙ってろ!」
「…………」
 賑わしい一同に、階段の上からシャドウはただ呆れた視線を送っていた。


 そんなこんながありつつ、ゾゾの入口まで戻ってきた。
 そうなるだろうなとは予想してはいたが、案の定、シャドウはそこで別れを切り出してきた。
「シャドウさん、あの……ここまで、本当にありがとうございました」
 椎子はたくさんの感謝を込めて、深くお辞儀をした。本当は、もっと一緒にいてほしいと思う。でも、ただでさえ報酬もなしに付き合ってもらったのに、皆と合流した上でさらに引き留めては、わがままが過ぎるというものだ。
「シャドウ」
 ロックが、決まり悪そうにシャドウの前に立った。
「その、コーリンゲンでは、噂を真に受けて嫌な態度を取ったよな。すまなかった」
「事実だ。気にするな」
 すげない物言いに、ロックは苦笑して軽く息を吐いた。もうコーリンゲンでの時のように突っかかりはしない。
「また、会いましょうね、シャドウさん」
 椎子は一度目の別れの時と同じ言葉を口にした。
 ところがシャドウはそうではなかった。
「……二度と会えないように祈っておけ」
「えっ」
 思いもかけない台詞に、耳を疑う。椎子が愕然とシャドウを見返すと、シャドウも椎子に目をくれた。それはほんのちょっとの時間のことで、シャドウはさっさと身を翻し、インターセプターを連れて行ってしまう。
「…………」
 ここまで迷惑をかけどおしで、加えてゴタゴタにも巻き込んでしまったけれども、そんな……ああまで言うほどに、嫌われてしまったのだろうか……
 あまりのショックに顔を青ざめさせて打ちひしがれている椎子の頭上から、エドガーの苦笑い混じりの声が降ってくる。
「まあ、会えない方が、シイコにとってはいいことだろうね。魔導研究所で、帰る方法が見つかるということだから」
 そうか……確かに、そうだ。
 椎子はこれから、元の世界に帰るための手がかりを探しにいくのだから、シャドウにまた会うことがあるのなら、つまりはそれが叶わなかった場合にということになる。
「……随分と好意的な解釈だ」
 セリスはあからさまに顔を顰めている。
 シャドウの背中はもう遠い。でも椎子は、シャドウがちゃんと優しいことも知っている。
「シャドウさん! 私、頑張りますっ!」
 椎子は去りゆく背中に向かって、大きな声で叫んだ。うん、頑張ろう。でも、それでも……また会いたいと願うくらいは、許してもらえないかなあ。
 いつの間にか雨は上がって、青空が広がっていた。